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高山~父の死2

2018/07/22

父の死からほぼ、一週間経ってもふとした瞬間に思い出すし、入院してた病院の前を通ると寄ろうかなと思って、あ!死んだんだと思ってしまいます。

なかなか抜け出せないですよ。

うちの一族は、親戚関係や祖父等かなり数の人間がトンネル工事に従事してましたが、今では僕だけとなりましたね。

このトンネル業界にかつて程の夢が無いのと、転々とするのを嫌がりますね。

仕事もハードですからね。

ある種、段々淘汰されて生き残って行く坑夫って、腕がないと難しいです。

勿論まだまだ、どうでも良いようなのも来ますけどね。

父の教えとか、考えたら余り無いんですよね。

会社に居たのが、七年から八年ですが、ほとんど現場を転々としてましたからね。

海外から日本全国ですね。

しかし、幾つか思うのは、父も一介の坑夫から上がって来たから、良い坑夫と付き合えと言われましたし、飲みに行ったら会社の金で飲むなと言われましたね。

元々、会社の金で飲むなんて打ち上げとか、そんな時だけでしたから大丈夫と言うと、足らなくなれば言えと言われました。

社員の中でも個人的に作業員と飲みに行くのは僕だけで、それを良い人も信じられないと言ってましたが、楽しいから行くし色々勉強になるから行ってましたね。

父が、ある時ポツリと、会社の中で作業員と一番慕われてるのはお前かもなあと言いました。

それは良い事だとも言いましたね。

だから、一部の作業員は倒産の時にいきなり電話して来て、いくら今要るのかと言って来ました。

まさか作業員から借りるってとか無かったから、返せないと言うと返さなくて良いと言われて、結構な額を振り込んでくれましたよ。

そういう人が何人か居ました。

一度だけ、皆を連れて飲みに行きましたね。

元々余り飲めない人でしたが、社員が嬉しそうなのを見てましたよ。

付き合いでは行ってましたが、水割りをチビチビ飲んでましたね。

それと二十代では、とにかく現場に出ろと言われてました。

僕は、現場の水が合ったから良かったですし、技術も作業員に教えて貰いましたね。

父にも色々教えて貰ったけど、生き方ですかね。

それを言われた事が有りますね。

海外では危ない思いもしましたから、それを話してたらとにかく相手がどう出てきても、殺される位なら殺せと言われましたね。

もう一つは、自分自身が間違えて無いかを良く考えて、客観的に自分自身を見て間違えて無いなら少数派でも譲ることはない、とも言われました。

これは、完全に気性でしょうが、僕は元々そういうタイプでしたから、分かりましたね。

これは、子供の時に預けられてた母方の祖父も、相手に遠慮するな喧嘩は勝ってこいと言いましたからね。

小さい頃は、二つ違いの兄とあらゆる所に連れて行ってくれました。

仕事柄あちこち移るから不憫だったのも有るでしょうが、子煩悩でしたよ。

上野動物園のパンダとか、当時広島の田舎の子供は僕ら位ですよ。行けたのはね。

炊事婦の長のおばあちゃんが、あのくらい子供を可愛がるのは居ないと、半分嫌味で言ってたらしいです。

当時は、宿舎が大きくて家族も入れたから、そこから学校に行ってましたからね。

途中で団地に引っ越しますかけどね。

子供の転がら宿舎が当たり前の僕には、団地って不思議でしたね。

十五年程前に広島にまた住んでた時に、その団地に父と母と行きましたね。

しかし、団地は寂れてしまってて、人がまともに住んでるのかって感じでした。

何だか寂しかったですよ。

それと、二つのエピソードを書いて終わりにします。

一つは、夏になると子供ですから、カブトムシとかクワガタが欲しいんですね。

現場には、高い所に大きな照明があって、そこに夜来るんですよ。

カブトムシやクワガタがね。

かなりの高さで取っ手が付いてて、それを父が登って取ってくれましたよ。

僕は、あれで落ちてたら朝になったら皆が、あ!⚪⚪さんが落ちて死んでると言われるねと言ったらしく、父はそれを良く笑い話しで話してましたね。

僕は、今では明るい人間では無いけど、子供の頃は皆を笑わせるのが好きで、面白がられて可愛がられましたね。

兄にはそういう所が無かったですね。

次男ってそんな物かもと思いますよ。

もう一つは書いたかも知れないけど、当時現場は常に動いてて、父は所長かその下かに居ました。

当時の現場は大きかったから、何十人も居ましたからね。

だから、休みの日に少しデパートに行くのも、ほとんど作業着でした。

昔のネズミ色の作業着ですよ。

周りの父親とは異質に思った僕は、お父さんは何時も作業着で、周りと何故違うのか?と聞きましたね。

もしかしたら、父は傷ついたかもと思いますね。

最後に、とにかく思い出されるのが、死ぬ二日程前から目が開いてしまって焦点が定まらないのと、眼球が片方から動かなくなった事です。

あれが最後に見た父の目でした。

その後は目が開いてしまってるのは不味いとなって、目の上に布のようなの起きましたからね。

しかし、あんなになってもタフでしたね。

まだ意識のある時に、お父さん頑張らないとと言うと、もう歳だから小さいか細い声で返事したのが、僕との会話の最後ではないかなと思います。

タフでしたね。あちらの世界でどうしてるのだろうと思いますし、書いてて涙が出ます。

情けないと思われるでしょうが、僕と父の間には特別な物が有りましたよ。

家族で揉めると、大抵僕の味方は父でしたからね。

自分自身に似てるのが、分かってたのでしょうね。

あちらで、脳内出血をやるまで吸ってた煙草を吸ってるでしょうね。

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