mixi「一郎の日記」を振り返る⑬ 2006/12/1(金)~

万葉集のブログと一握の砂のブログに書いてきた自分のコメントを
noteにまとめる作業をしてきました
それらのブログやメルマガ発行とほぼ並行して
mixiに日記を書いてきました
Twitterを始めたことで今ではmixiは全く利用していません
noteでの作業を通してmixiに書いて日記を
今一度読み返してみたくなりました

2006/12/5(火)

2006/12/5(火) 午後 6:37
mixiのコミュニティ・・・それぞれの「一握の砂」の掲示板に歌の投稿がありました。時折り投稿していただいている方からでした。
啄木の歌のについてのご意見も添えられていました。以下、私のコメントを今日の日記にしたいと思います。
2006年12月05日
17:02
32: 一郎

ありがとうございます。
風さんが啄木の歌に向かわれている姿勢を伺うと、私などは啄木の心の上っ面だけを撫でているようで恥ずかしくなります。
風さんの感覚、感性の鋭さが毎日の歌の創作の源にあるのだと思い知らされます。
いつも拝見しながら、近づきがたいものを感じるのはそのためかと思います。

私は短歌についての深い思いいれや知識もなく、啄木の歌集「一握の砂」・・・「三行詩」とも言われる歌を読みすすめると同時に自分の歌を合わせてみようと思ったのですが、動機となったのはあくまで自己表現の手段としての歌でした。
次の歌集となった「悲しき玩具」は、歌に句読点を入れるなどより文章的になっています。しかし、今思い出しても「一握の砂」の歌を読んだときほどの印象が残っていません。
現在は、「一握の砂以前」の歌をメルマガで取り組んでいるのですが、抽象的な歌が多く言葉も難しく理解しがたい歌が多いのです。

私にとっての啄木は「一握の砂」の歌となります。そして自分自身を表現する手段としての歌で、551首の「一握の砂」の歌の全部に合わせて自分の歌が出来たとき、やっと自分でもあることをやり遂げたという達成感を味わうことができました。
三十一文字の歌にもそれぞれの人のそれぞれの人生が刻まれる・・・それぞれの「一握の砂」の歌づくりを呼びかけて見ようと思いました。
幾人かがその呼びかけに応えて歌づくりに参加していただいています。それぞれの歌に触れることができることに喜びを感じます。
歌づくりに参加していただいている方の啄木への思いもそれぞれだと思います。啄木の歌はひとつのきっけで、それぞれに自分の思いを表現することが主要な目的だと思います。

歌集「一握の砂」は、啄木にとっても歌による自分史だと思います。詩や小説、日記や評論と多くの著作が残っていますが、歌集「一握の砂」あっての今日の国民的詩人、歌人としての啄木があるのだと思います。
その歌集「一握の砂」の出版のきっかけは、当時朝日新聞の校正係をしていたときの社会部長のすすめだといいます。
自らは歌集の出版を考えていなかったようですが、このことがあって歌集の編集を始めたようです。
何がその人を変えるきっかけになるか分かりません。
私のことで言えば、自分自身の表現手段としての歌との出会いとなりました。

風さんにとって啄木の歌との出会いが、風さんの創作活動にいい影響となることを願うのみです。

投稿ありがとうございました。

それぞれの「一握の砂」
歌の投稿コーナー
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10795402&comm_id=1361861

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

2006/12/4(月) 午後 10:26 

今日は私の体調がよくありません。ほとんど寝ていましたので日記の更新は、ブログに寄せられた「今日の投稿」を読んでいただこうと思います。
2006/12/4・・・今日の投稿

58.それもよし・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/ichirof58/16323730.html

それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲(ほ)しくなりたり

 あの人もこの人もよし浮気性 いくら好いても相手が選び
 [ 中 ]

101.はたらけど・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/ichirof58/16850848.html

はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る

 妻の手をしっかり握って見つめれば
 揺るがぬ絆を
 実感出来る
 [ 未定 ]

534.公園の・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/ichirof58/17910289.html

公園の木(こ)の間(ま)に
小鳥あそべるを
ながめてしばし憩(いこ)ひけるかな

 公園で幼児を愛でる妻を見て
 愛しく思い
 涙こぼれる
 [ 未定 ]

102.何もかも・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/ichirof58/16902964.html

何もかも行末(ゆくすゑ)の事みゆるごとき
このかなしみは
拭(ぬぐ)ひあへずも

 なにもかも楽しみとする
 かなしみも孤独も欝も
 笑い飛ばそう
 [ 一郎 ]

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

2006/12/3(日) 午後 9:11

ブログの「じいさん語文芸~短歌・川柳など」という書庫に今日書いたものをここで紹介します。
ショート・ショートみたいに短い文章でも書いてみようと思いました。思いのほか長くなりましたが、読んでいただければありがたく思います。
「120歳」

来年だかに還暦を迎える男がおってな、還暦になるということを少し考えたそうな。
その男はな、難しいことは理解できなかったようじゃが、ひとつだけ心に決めたそうな。
「赤ちゃんに還る」ということなら生まれ変わろうと思ったそうな。
「蘇り」とか「生まれ変わり」とかを信じる男ではないが、自分を生まれ変わらせることなら出来ると思ったんじゃろうな。
出来ないにしてもチャレンジしてみようと思ったらしいわい。

どう変わろうと思ったのじゃろうか。そこまではわしも知らんわい。
どう変わるのか楽しみにしておるというところじゃ。なにせまだ来年のことじゃろ、還暦になるのは。
まあなんじゃな、最近もなにやらいろんなことに挑戦しておるようじゃ。馬鹿じゃの。これまで時間はいっぱいあったろうに、還暦が近くになってなにをがんばろうというのじゃ。
のんびり第2の人生の設計を描こうかという団塊の世代じゃろ。なにやら最近よく聞く言葉じゃ。
何の人生設計もなく、定職も持たず・・・それじゃ老後の設計もあったもんじゃないだろ、その男は。
ははは、人生の帳尻はちゃんと合うようにできているもんじゃ。がんばった者には楽な老後、遊んだ者には・・・死ぬまで働けということじゃ。

ところでその男のオヤジというのは6年前に死んだのじゃが、たしか120歳だか150歳だか・・・それまでは生きるといっておったそうな。理論家じゃったそうだから話を聞けば根拠を述べたじゃろうが、もう聞くすべはないわい。
まあな、どう思うと自由だから何もワシは言わんけどな。生に執着しているというのではないじゃろ。社会の変化を見届けるまでは死ねないという思いだったんじゃなかろうか。
戦後、労働運動に身を投じ、社会変革を夢見ていた活動家じゃったから、そんな思いも分らんじゃないがの。

最近に話になるが、120歳まで生きると言っておる御仁を見かけたのじゃ。おうおう、ここにも居るわとそのお方のな、日記なるものを読み始めたというわけじゃ。
今度は機会があればの、その方に120歳説なるものを聞いてみようかいの。
聞いたからとてどうなるものでもないがの、何かの話題にはなるじゃろ。

いくつまで生きるか知らんが、死ぬまでは生きとるわけじゃ。わざわざ死なんでもいつかは死ぬわいの。
急ぐな急ぐな、死ぬまでは生きるんじゃ。ただな、もう十分生きた年齢になって、十分やることはやって、もうやることもないわい、そう思ったら命を自然に任せるのもよかろう。自然にじゃよ、まちごうてもろうてはいかん。命を自ら絶つのではない、あくまで自然に任せるということ。

あるお方の死を私は思うとる。そのお方は誰でも知ってるお方じゃ。名脇役の女優じゃった。エッセイにも優れた才能を見せておられた。それらのエッセイは、時代の記録としても貴重なものじゃなかろうか。
そのお方には連れ合いがござって、妻としても献身的に夫を支えておられたようじゃ。
その大事な連れ合いが先に亡くなられた。長い間連れ添った連れ合いが亡くなるということの寂しさ、かなしさ、空虚感は体験したことがないものにはおそらく理解できないじゃろうの。
ワシなども想像しかできない。大事な大事な連れ合いを先になくされたそのお方のこころはいかばかりだったかのう。
詳しいことは知らぬが、わしが伝え聞いたことで判断するに、そのお方は食事を取らなかったようで、いわゆる餓死だったのではないじゃろうか・・・。享年87歳。
そのお方は食事を取らぬことを選択した。その選択の結果の自然死。人は、自らの死を尊厳を持って終えたいと思っておる。意識がなくなった場合でも尊厳死する権利を有しておる。そのお方は、尊厳死を選択されたとのだと思う。

尊厳死は、生きるだけ生きて、もう十分になすべきことをなした人にのみ与えられる権利じゃとわしは思う。最後まで生きたこと・・・生き抜いたことへの自分からのご褒美じゃ。それは誰にも止める権利も非難する権利もなかろう。
はっきり言っておく、自殺ではない。尊厳死なのじゃ。しっかり生きたものだけに与えられる権利じゃ。
人は、人のために死ぬことをも怖れぬ生き物なんじゃ。人のために死ぬことを選択したその選択を、だれが責められよう。
どんなに苦しいからといって、どんなにつらいからといって自分のために死ぬことは許されぬ。自分ひとりのいのちじゃないからの。親も居よう、妻も居よう子も居よう・・・。死にたかったら、すべての責任を果たしてから死ねばいいのじゃ。生きて生きて生き抜いてこそ尊厳死する権利が与えられる。単なる死ではない。尊厳死なのじゃ。人間としての尊厳を持って自ら死を迎えるということじゃ。そのとき、死は苦しみや怖れではなくなる。死は喜びとなる。

長い文章を書くのは苦手じゃから、ショート・ショートみたいなものが書けないかと思って書き始めたのじゃが・・・気がついたらそこそこ長くなってしもうた。
読み返すこともなくアップしようかいの。読み返すと決まって自己嫌悪じゃからの。人の目を気にするから自己嫌悪にもなるのじゃろうな。自分しかいなければ、自分のこころを人と比較することもなかろう。そうすれば自己嫌悪になることもなかろうかいの。自分しかいないことにしよう。誰もよまないことにしよう。ハハハ、人のことは「見ざる、言わざる、聞かざる」ことにしようかいの。遊べや遊べ、一人で遊べ・・・ということにしよう。

[ 一郎 ]

Yahoo!ブログ・・・それぞれの「一握の砂」
じいさん語文芸~短歌・川柳など
http://blogs.yahoo.co.jp/ichirof58/folder/1526308.html

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

2006/12/2(土) 午後 10:04 

「ジジ、ババ語で語りましょう。その他の言語も大歓迎。」という日記のことを書きましたが、ゆうやけこやけさんから「ジジ・ババ語」での投稿がありました。その投稿分と私の返事を読んでいただければと思います。
2006年12月01日
21:07
ゆうやけこやけ

一郎やい、ジジババ語が受けるのは、どうしてじゃろうかとワシも考えてみた。もともとジジババは人生にひとくせもふたくせもあって生きてきたんじゃ・・・。そうじゃけに、いまさらジジババはのう、むだなことはいわん。そのかわり、人をだましたり、利用するようなことも、よういわんのだがの。それはなぜかっちゅうと、もういいかげんにしといてくれという気持ちが先に立つんだけんど、ワシもお前も、最後の最後は人間らしゅう生き、その生を全うしたいと思ってのことなんだわ。それは何かちゅうと、いい加減人をだましたり、だまされてきたことで、せっかく仏様にもろうた大事な命をば無駄にしたかもしれんよ、という反省があってのことじゃからな。ワシは誰にもあやまりゃあせんよ。そいでもな、仏様だけには許してくだされ、反省しておりますがな、とあやまって死にたいと思っとる。それはなぜか。これを読んどるみなさんは気になるだろうが・・・。よし、教えてしんぜよう。ただし、これを信じなければ、お前さんはばかということになるけんど、よろしいか。
つまりはな、ええことも悪いことも、仏様が授けてくれた森羅万象、われら人間も、この世に生を授かってから、仏様が「いいことも半分、悪いことも半分」にしてくださっているのじゃが。そいでも、人は欲張りじゃから「いいこといっぱい、悪いこと少々」と欲をかいて生きてしまうから、いざ死ぬというとき、死が怖くてめいっぱい震えながら、いくらお祈りしてもしょうがないのに、せっかくの幸せをも忘れてしまい、精神的に地獄の責め苦におびえながら、人生を悔い、だました人に詫び、金にあかしてすき放題した人たちの恨みを背負い、断末魔に最大の苦しみを背負うて死んで行くのじゃが。いいことも半分、悪いことも半分、というお釈迦様の言葉を信じて物事ほどほどに楽しんだり悲しんだりしとればええものを、バカな人間ほど、欲が深すぎ、結局は死ぬときに精神的には地獄へ真っ逆さまじゃ。わしら、老人をバカにしとると、お釈迦様の罰が当たるぜよ。「いいことはわしら、悪いことはお前ら」は絶対にないぜよ。みな心して覚悟し、往生せよ。
2006年12月02日
02:31
一郎

これはこれは・・・ゆうやけこやけ殿。うれしいのう、ジジババ語で書かれてごじゃる・・・変な言葉になってしもうたが、年寄りのこととてお許し下され・・・。ゆうやけこやけ殿の小説は、読まねば読まねばと思いながらも目を通すだけでの、内容は頭にはいっとらんのじゃ、もうしわけないのう。ところがジジババ語で書いてもろうたこの文章は、いっしょうけんめい読んでおるんじゃ・・・人間って勝手じゃな、申し訳ないスマンノ・・・。
「それぞれ」のメルマガの配送予約を先に済ませておきたかったのでの、コメント書く時間がなくなってしもうた。もう出かける時間じゃてな・・・帰ってからまたゆっくりかかせてもらおうとおもっとります。
それにしても久しぶりに気持ちのいい啖呵?を聞いた気がする・・・土佐弁とゆうのかいのう・・・「老人をバカにしとると、お釈迦様の罰が当たるぜよ。」・・・あの映画のセリフ・・・よかったのう・・・。
「なめたらいかんぜよ」じゃったかいのう・・・。夏目雅子・・・こんな字でよかったかいの、病気で早く亡くなってしもうた・・・。
いかんいかん・・・もう行かんといかん・・・ここ笑うとこじゃが、笑えたかな・・・。わろうてもろうたら一番うれしいの。そんじゃいかねば、ニラレバいため・・・意味不明・・・はははは、わろうてくだされ。
それじゃまた・・・ありがとさんでした。
のちほど・・・。
いってきますわいの。ドッコイショト。

2006年12月02日
14:58
一郎
啄木
死になむと思ふ夕に故郷の山の緑の暗にほの見ゆ

 一郎
 これからの長き老後よ
 そして死よ
 どうしてるかな歌はブログは

先のことじゃからの、はたしてどうなっとるじゃろうか・・・。死ぬまでなんぞ楽しんでいたいと思うだけじゃの。
ただいつ死んでもいいように気構えだけは準備しておこうと思うの。それは明日のことかもしれん、いつお迎えが来ても不思議はないとおもっとる。「明日あると思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」誰の歌かは知らんが、いつもこの歌を思い出すことで今日のことは今日のうちに済ませておこうと努めたもんじゃ。実際、一寸先は闇・・・分からんもんじゃ。あすもあさっても、そのさきも同じ日がくり返されるとは限らない。同じ日の単調な暮らしのくり返しが当たり前のように過ぎていく・・・当たり前のような暮らし、何ごともない暮らしこそしあわせなんじゃな。この年になるとなにも望むものはないが・・・平和であってほしいとおもうの。個人の幸せも平穏な暮らしも平和あってのことじゃからの。
戦後生まれのワシは、同じ戦後生まれの指導者が任期内の改憲を明言したことをかなしくおもっとる。これまでの日本の平和は、平和憲法があってのことじゃとワシはおもっとる。憲法を改悪するならそれもよかろう。この国の進む道がはっきりする、どうなるかも分るじゃろ。過ちはくり返される。くり返してまた少し賢くなる。この国がどうなるかしっかり見届けてやるつもりじゃ。
なんの話をするつもりじゃったかの・・・変なところにそれてしまったようじゃが、ジジは物忘れがひどいのが相場じゃ、話している尻からもう忘れている・・・これを尻滅裂というな・・・。
そうじゃそうじゃ、一日一日をいのちの終わりと思うて、お陰様と感謝して暮らせればそれでいいということじゃな。なんでも楽しもうといのがワシのモットーじゃ。一人を楽しもう・・・いずれみんなひとりになって死んでいくのじゃ、死ぬのだって楽しもうかいの、もっとも意識があればのことじゃが・・・痛み苦しみ、それもよかろう。どれだけ自分が耐えられるかたたかってやろうじゃないか。と、今は言えるけどな・・・先のことは誰にも分からん。「先のことを思いわずらうことなかれ」と、誰かさんも言ったとかいわないとか・・・。さきのことよりいまのこと・・・今を楽しもうかいの。なにをして・・・それは自分で探して見つけるしかあるまい。それを見つけたものが勝ちかな・・・。ははは、ここにきて勝ち負けはあるまいて・・・自分がよければそれでいい。要は自分じゃろう・・・自分が納得できるかどうか、満足できるかどうかじゃ。ワシは今たのしんどる、毎日やることがあっていそがしい・・・ありがたいことじゃ。ようようここまで生きてきた。ともかくも誉めてやろうかいの。
なんだかんだとまとまらぬことを書いてきたの・・・こんなことを書けたのは、この「じいさん語」のおかげかもしれん。じいさんに変身することでやれること、書けることもあるということじゃの。してみると「じいさん語」との出会いに感謝せねば・・・感謝感謝。

どうか笑ってくだされ。笑ってもらえればありがたいのう。笑うことが一番じゃ。笑って楽しくいきていきたいの。せっかくのいのちじゃから、せっかく生きてきたのじゃから・・・楽しみましょうぞ。

それではまた・・・お会いできればしあわせじゃな。
お達者で・・・。

Yahoo!ブログ・・・それぞれの「一握の砂」
じいさん語文芸~短歌・川柳など
http://blogs.yahoo.co.jp/ichirof58/folder/1526308.html

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

2006/12/1(金) 午後 9:24

きのうのは、mixiの「ジジ、ババ語で語りましょう」という日記の紹介文をここに書きましたが、きょうも懲りずに「じいさん語」に関する話しです。
それぞれの「一握の砂」というYahoo!ブログのことはもう何度も書いていますが、そこに「じいさん語文芸~短歌・川柳など」という書庫・・・コーナーをつくりました。
今日はその説明文を読んでいただこうかと思います。ですからやはり「じいさん語」で書いています。
なぜ私が「じいさん語」にこだわっているか・・・まだよく考えてはいませんが、パソコンを始めてそれにはまっていった状態に似ているのかと思います。
先ず書くのが楽なのです。この文章を書いていても、つい「じいさん語」が出てきそうになります。「じいさん語」日記の本家本元のお方から「注意しないと癖になりますよ」みたいなことを言われました。
「じいさん語」でこの日記を書くのは1度限りと決めていました。日記自体を「じさん語」で書くことはもうしませんが、あちこちで使っている「じいさん語」の文章をここで続けて紹介していることになりますね。
もうすっかり「じいさん語」にはまってしまったわけです。そういうわけで「じいさん語文芸」なる書庫をブログに設けたわけです。
それではその説明文です。それと合わせて、mixi日記の「ジジ、ババ語で語りましょう。その他の言語も大歓迎。」へのコメントと私の返事をお読みください。
「じいさん語文芸~短歌・川柳など」

変な名前の書庫へようおいでくださいましたな・・・感謝感謝じゃ。
ここはの、「じいさん語」で歌や川柳、詩もいいな・・・要するに「じいさん語」でなんでも書いて遊んでみようというコーナーなんじゃ。わかるかの・・・。

「じいさん語」じゃったら普通は書けないことも書けるかもしれん、つまり普段の自分とはちがう人間になるんじゃ、その手段が「じいさん語」じゃの・・・分かるかの。

好きなこと書いて、腹んなかのことを吐き出せばどうじゃろ、少しはすっきりすると思うが、どうじゃろ。
むずかしく考えることはないの、単純に考えればいいかもしれん。
何かを書くには頭を使う、手も使う・・・要するにリハビリと思うたらどうじゃろ・・・リハビリは早ければ早いほどいいかもしれん。ボケてからでは遅いかもな・・・ボケ防止にきっとなりますぞ・・・歌でも川柳でも詩でも・・・ワシは詩も書いてみたいの・・・長編は無理でも短編、もっと短いショート・ショート・・・そいえば星新一とかいう御仁がおったの・・・。
いかんいかん、紹介文じゃがワシの悪いくせがまた出てしもうた・・・「しもうた」で変換すると・・・「詩も歌」とでたぞ・・・面白いの・・・。
また話がそれて詩も歌・・・な、な、な・・・でたじゃろ・・・。
コメント欄に投稿してもらおうかいの。それをワシが記事にアップしようか。
それかワシにメールで送ってもらうのもいいの。

これも実験じゃとおもっとる。
じいさん語文芸・・・ひろまるといいのぉ・・・。
そしたらまた新しいブログをつくろうかいの・・・。
そうなるといいの・・・。
ちと遊びすぎかいの・・・。
はははは・・・いつも自己嫌悪じゃ。ゆうてもた・・・すっきりしたわぃ。

なんかあったらここに送ってくだされ、なんでもいいじょ・・・トッポジージョ・・・バカの一つ覚えじゃ・・・笑えよ。
ichirof55@hotmail.com

「じいさん語」については、これを読んで理解してほしいの。
ここまで読んだあなたさまは、きっと「じいさん語」のお仲間じゃの・・・よろしゅおたのもうしますわい。
投稿まっておりますぞ。・・・黄門さんのようじゃわい、あははは。

mixi「一郎の日記」~2006/11/30(木)
http://blogs.yahoo.co.jp/ichirof58/24280098.html

「ジジ、ババ語で語りましょう。その他の言語も大歓迎。」
2006年11月30日
ゆうやけこやけ

お久しぶりです。まだ約束事が不履行でごめんなさい。
ところで、「ジジ、ババ語」という意味では、私は小説の中で、たびたび使っていますが、なぜか、ジジ、ババ語を使うと、何十行も要しないと伝えられないことが、ほんの数行で事足りるということによくでくわします。不思議ですね。やはり、人生を背負って生きてきた人の言葉の重みというものがあるのでしょうか。それを真似することで、そのいくらかの恩恵に浴しているのではないかと思います。書くほうも、読むほうも、同じ共通の意識として・・・。
2006年11月30日
一郎

ゆうやけこやけさん、どうもどうも・・・ありがたいのう。いつも新しい日記にはゆやけこやけさんが書いてくださる。感謝しております。
長い説明文を書いたんじゃが、長すぎて伝わらなかったのかもしれんのう・・・ここではコメントもできれば「ジジ、ババ語」でしゃべって・・・書いて欲しいとおもっとるんじゃ。この次はよろしゅうお願いしますの。
小説は・・・そうですのう、いろんな人格・・・キャラクターになって会話なら会話がすすみますのう・・・一人の書き手がたくさんの登場人物を書き分けていく作業ですのう。書いた経験がないからわかりませんのじゃが、「じいさん語」で書いていることが、あるいは小説を書くことの役にでも立てばうれしいのう。こうやって遊んでいることが無駄ではないということになる・・・無駄なことは何もない・・・とワシはいつもおもっとるが、そうなるといいのう。
長い文章を書けるようになりたいというのも、ひとつには小説が書けるようになりたいという思いも確かにあるようじゃ。

またよろしゅうおたのもうします。今度は「ジジ語」での・・・勝手な注文をつけてわるいの、ここはそういうシステムということで許してくだされ・・・ワシは一人でこの試み・・・遊びをたのしんどる。遊んでくれる人がふえるといいのう・・・。

2006年12月01日
一郎
悪のりかもしれんがの、Yahoo!ブログの方に「じいさん語文芸~短歌・川柳など」という書庫をつくったのじゃ・・・まったく悪乗りじゃな・・・豚もおだてりゃ木に登る・・・の類いじゃろうか・・・ま、ジジのすることじゃて大目に見てもらおうかいの・・・こういうときに「ジジ」は便利じゃの・・・。「じいさん語」をつかわなんだら、とてもとてもしらふ?のワシは書けないことじゃ、出来ないことじゃろうな。「ジジ」になるからこんな遊びも出来る・・・分かってもらえるかの、分からないかもしれんの。なんでそんなことをしているかと思っている人もいるじゃろうな・・・。それでいいんじゃ。人はそれぞれ、さまざま・・・気持ちが合えば声を掛けてもらえるじゃろ。気持ちが合わなければ素通りしてもらえればそれでいいんじゃ。
ところで話を戻そうかいの。ブログになにやら得たいの知れん書庫をつくったというところまで書いたんじゃったの。
じいさん語で歌や川柳、詩や小説でも書いてみようかというコーナーじゃな。
投稿してもらえればありがたいという話しじゃ。
遊びに付き合ってみませんかいの、じいさんになるのも面白いですぞ。ばあさんになって書いてみませんかいの。きっと面白い発見があると思いますぞ。
この私を見てくだされ・・・変わったでしょうが。変わりすぎてもうフニャフニャになってしもうた気がしますわい。
それもよかろうて、楽しければ、面白ければそれでいいんじゃ。
毎日が楽しく過ごせれば、それがしあわせというもんじゃなかろうか・・・。
なにはなくともえどむらさき・・・じゃなかった、なにはなくともおもろう、おかしくいきたいもんじゃ。
笑えよ笑えじゃ・・・。

そんでもって歌がふたつほどありますのじゃ。
ひとつはワシでもうひとつは・・・「じいさん語」の本家本元じゃ・・・うれしいの。またこうしてそのお方の歌が読めますのじゃ・・・。
それじゃ紹介しましょうかいの。

じいさん語使って歌をつくるかの
ははは誰か
笑うじゃろな
[ 一郎 ]

じいさん語
その心地よさ 分かち合う
失礼ながら同類かのぅ
[ 未定 翁 ]

遠慮なくコメントくだされ・・・「ジジババ語」での、もちろん他の言葉でもけっこうじゃ・・・普通以外はな。

じいさん語文芸~短歌・川柳など
http://blogs.yahoo.co.jp/ichirof58/folder/1526308.html

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。

一郎

mixiプロフィ
藤川一郎
京都市北区紫竹北大門町37 葵荘17号
075-493-4676

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