『私の最後の晩餐』春風亭与いち

私の最後の晩餐には
牛タン定食1.5人前とろろ付き
を希望します。

単純に一番好きなご馳走感のある食べ物です。
別に仙台出身であることを主張する為に言っているわけではありませんが、
仙台市民が牛タンでできており、
家の表札が笹かまぼこ、
主な移動手段がずんだ餅であることは確かです。(嘘です)

分厚い切れ込みの入ったタンに七味と醤油を付けて麦めしと一緒にかっ込む。
インターバルに付け合わせの南蛮味噌と漬物を挟み、
黒胡椒を入れまくったテールスープでそれらを流しこむ。
シメにとろろをぶっかけた麦飯で「もうこれ以上食えねえ〜!」というところで死にたい。


テーマに戻ります。
最後の晩餐に何を食べたいですか?
と、聞かれたら大きく分けて2つになると思う。
先に述べた"ご馳走系"か、
毎日でも食べられる"いつもの系"。

正直言って後者を選ぶ人の気持ちはよく分からない。
納豆ご飯、蕎麦、めちゃくちゃ美味しい。
ただこれらはやはり毎日食べられる。
そんな舌に胃に優しい物は最後には相応しくない。

考えてみたら、その他もあった。
"母の手料理系"だ。
だが、自分はこれも嫌だ。
別に嫌いではないが、やはりプロが作った味の良さだけを追求した料理がいい。
栄養バランスなどを一切度外視した、
とにかく身体に悪い物が良いだろう。
最後なのだから。

ここまで色んなことを言ってきたが、
そもそも、
最後の晩餐を自分で選べなかったらどうだろう。

やはり死んだ後、後悔するのだろうか。
「これが最後ですよー。」と言われていたにも関わらず希望の物が食べられなかったら死に切れないだろう。
呪縛霊としてそこに留まり続け、
最後の知らせをしに来た奴をとことん呪う。


あのダヴィンチの描いた「最後の晩餐」。
キリストは自分の最期を予期していたから分かっていたはずだ。
それなのに、
テーブルの上にはパンとぶどう酒くらいしかない。
我々で言うところの納豆ご飯とポカリスエットだ。(きっと)

キリストは"いつもの系"の人だったのか。
"母の手料理系"だとしたら別の意味で悲しくなる。
"ご馳走系"だとしたら最早見ていられない。

それとも、自分の弟子に裏切られたという悲愴感と、
これからそいつに殺されるという状況に悟りの様な状態になり、
何を食べようかということに頭が働かなかったのかも。

キリストも
「全く後悔していないのか?」
と問えばその答えは「ノー」だろう。
「そこはイエスだろ。」とは思いついても言えない。(書いてしまいましたが)


そんな事を思いつつ、今日は表参道にある教会での落語会で一席申し上げた。
十字架に磔にされたキリストの前で「家見舞い」。


大変失礼いたしました。

2019.11.16

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