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中山みき研究ノート2-11 お産のしきたり

お産のしきたり

をびやについては、「いっさい、つねのとおり」というのが教祖のお話です。『稿本教祖伝』では、

嘉永7年、教祖57歳の時、おはる・・・が、初産のためお屋敷へ帰って居た。その時、教祖は、「何でも彼でも、内からためしして見せるで。」と、仰せられて、腹に息を三度かけ、同じく三度撫でて置かれた。これがびや許しの始まりである。

『稿本教祖伝』

とありますが、この三度息をかけ、同じく三度撫でて置かれた、というのは、おはる・・・にされたことかどうかは分かりません。後に、こういう事を見て語り伝えた人がいるので、多分、最初もそうであったろうと推定して書かれたものです。

嘉永7年にはおはる・・・がお屋敷に帰っていますが、『稿本教祖伝』の記述だと嘉永6年に母屋を取り壊し売り払ったことになっております。教祖も秀司も隠居に住み、こかん・・・夫婦が別れてしまったという時期です。お産のためとはいえ、わざわざ住む所もないような所に帰って来るとは考えられません。実際の家取り壊しは安政2年であったことは既に述べました。つまり、このお産の時には母屋があり、その後に取り壊しがあった、としか思えないのです。 この事も、母屋取り壊しが嘉永6年のことではなかった、という一つの証拠になると思います。

日本ではお産の風習が非常に根強く、お産の時には「モノ」あるいは物の気(物の怪)などという、神とも違い、魔物とも言い切れない何かしら普通でない力のある物がやって来て、一つの命を二つにするという、重大で恐ろしい事が起こる、というように考えられ、その時に逆らったりしたら、取り返しの付かないことになる、と思い込んでいたのです。事実、昔は産褥熱や子癇などで命を落とす人が多かったので、それはモノとかカミに逆らったから命を取られたのだ、というように思われていたのです。

神話の中にもウガヤフキアエズノミコト(天津あまつ日高日子ひだかひこ波限なぎさ建鵜葺草たけうかや葺不合命ふきあえずのみこと)という神様が生まれる時の話が出ています。 ウガヤフキアエズノミコトというのは、神武天皇の父親のことです。 この人が生まれるとき、母家で普通の人のようにお産をしたならば、モノが襲ってきたとき他の人にも禍が及ぶ、というので、お産の産屋(おびや)を別に建てることになりました。九州の宇土神宮の所ですから、海岸に倉を作り、鵜の羽根で屋根を葺こうとするが、それが葺き終わらないうちに生まれたので、このような名前が付いているのです。この時代から、産婦は恐ろしい事が他の人に及ばないように、離れてお産をしなければなりませんでした。お産をする人には恐ろしい思いがつきまとっていたのです。

これを除ける方法としては、まず、食べ物の禁忌である毒忌みが上げられます。ある地方では、チシャを食べるとおなかの子が駄目になってしまうとか、兎の肉を食べると兎唇になるといった形の上での連想もありました。物知りの人がいればいるほど、あっちの風習こっちの風習を並べ立てるので、その家のお嫁さんは栄養失調になってしまい、その結果、難産になることもありました。

また、お産の時には体を起こさなくてはならない、と言われていた所もあります。それで、産婦の後ろに物を積んでもたれ物が作られたりしたのですが、地方によっては、梁から麻や木綿を垂らして、それにすがり、体を起こした形でお産をしなければならないとされた所もあります。また、人間の側からすることだけでは足りず、神仏の力を借りることも必要とされました。大和には、帯解地蔵とい う、有名な所があります。今でも美智子妃殿下に帯を奉った、というのが宣伝文句になっていますが、そこでは、妊娠5ヶ月目のいぬの日に、定められた寸法に切った帯を教えられた通りに巻かないといけない、といっているのです。 日も決まっていれば、やることも全部決まっているのです。冷えるから暖める、あるいは動くから締めるという現代人の腹帯とは全く違い、おまじないなのです。 

このように、水天宮のお守りだ、何々の御札だと言って集めなければお産ができないとされていたので、難産除けのしきたりを教えてもらえばもらうほど、産婦は脅えていったのです。

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