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中山みき研究ノート3-7 明治維新

明治維新

慶応3年から明治にかけて、『稿本教祖伝』には、

慶応3年8月頃、世間では、お祓いさんが降ると、騒いだが、教祖は、
『人間の身体にたとえて言えば、あげ下しと同じようなもの、あげ下しも念入ったら肉が下るように成る程に。神が心配』と、仰せられた。人々は、一体何が起こるのかしらと気懸りであった処、翌慶応4年正月3日から鳥羽伏見の戦いが起こった。

とあります。この記述の元を辿ると、諸井政一が伝えた言葉のようです。

この人は、山名大教会を興こした諸井国三郎の息子で、教祖が現身を隠された直後に12歳でお屋敷に行き、本席の当番などを勤めながら、27歳で亡くなりました。

その間に、いろいろな話を書き留めた『正文遺韻』は最も正確に当時の様子を伝えている、と言われています。

確かに、諸井政一が正確に書いているということは、他の資料と照合してみると分かるのですが、その話を聞かせた人が正直でない場合もあったので、聞かせた人によってその内容は変わっています。 それでも、古い文書の中では最も信用されているものです。その『正文遺韻』には、

年が明けたら、春はおかげや/\と、言うているけれど、年が明けたら文句が変わる。おかげどころやない程に、おはらいが降る、何が降るというて楽しんでいるけれど、血の雨が降る様なものやで。さあ、年が明けたら文句ころっと変わるで。 とお聞かせ下さいまして、皆々、どういうことになるのやろうと密かに恐れを抱いて居りました。

という言葉が出ています。

教祖のお言葉とされることを私達が伝え聞いた時、全く教理的にも合致せず、到底教祖が話されたとは思えないものもあります。例えば、「生駒の山のてっぺん頂に燈が点る」と教祖が言われたと聞かされても、あまり信用出来ません。言ったかも知れないし言わなかったかも知れない、という程度のことと思います。

慶応3年には「ええじゃないか、ええじゃないか」というお蔭参りが日本中を乱舞しました。これから世の中は変わるのだ、という思いが民衆の中にも広がっていたのです。しかし、「ええじゃないか」のお蔭参りについては、「これが世直しと皆が喜んでいるけれども、本当は歓迎すべきことではない」と言われたと聞けば、これは教理の面からも教祖の言葉として納得出来ます。

幕藩体制が崩れかけて来る時期から教祖の教えは始まっているので、その後、黒船の来航や政変劇などが重なると、世直しへの期待に皆の心は固まって行ったのです。教祖も、「大名廃止、駕籠かき廃止」と前々から言っておられたと伝えられています。身分制度の崩壊や世直しを皆が期待している状況の中で、教祖がこう言われた、ああも言われた、というように語られたものだろうと思われます。

また、「一に百姓たすけたい。 二に働きたすけたい。学者金持ち後回し」という言葉もあったと伝えられています。 これは教祖の教えを側で聞いていた人、または明治になってから伝え聞いた人の間に共通して、教祖の教えは世直しを進めるもの、という理解があったことを示しています。このように、世直しの期待が人々の間に高まって来ると、そのきっかけになろうとするかのように、あちこちで「皇太神宮のお祓いさんが降る」と言っては混乱を起こして行くというようになって来たのです。

お蔭参りが流行るのは、60年毎という伝統がありました。 ところが、前回お蔭参りが荒れ狂った【原文ママ】のは文政13(1830)年でした。まだ60年は経っていません。それなのに、この時期に急に興こって来ました。実際に皇太神宮のお祓い札があっちこっちにばらまかれたのです。 これは、明らかに人為的に興されたものであり、当時の人々にもそれは分かってはいたのです。

このお蔭参りには多くの人達が出掛け、お屋敷近くの道々も伊勢に向かう人々で溢れたことと思います。大阪から伊勢に行くには、初瀬の辺りを通ったことと思いますが、庄屋敷や近在の村々から行く人々は皆、お屋敷の前を通り福住に出る最短コースをとったもののようです。

「ええじゃないか」の乱舞が始まると、街道筋の村々では庄屋や財産のある者は炊き出しを半ば強要され、もし出さなければ打ち壊しだ、といったまるで百姓一揆のような様相を現わしていきました。この現象だけを見れば、世直しの行列が進んで行くと、人々は思ったことでしょう。

ところが、教祖はそれに対して前述のように批判的な言葉を出されています。 民衆が、 世の中が変わって行く、と期待を込めて「ええじゃないか」を眺めている時でも、教祖は同じ世の中が変わるにしても、只、幕府が崩壊すれば良いというような簡単なことではいけないと考えておられたのでしょう。

幕府とは、幕を張り巡らせた政府、という意味であり、天皇政府の将軍を、当時、外敵であった蝦夷を討ち平らげるための征夷大将軍に任じ、権限を与えて開かせたというのがその起こりです。 京都の朝廷を朝堂というのに対して、幕府はいわば臨時軍事政権ともいうべき性質のものです。 天皇から節刀という刀をもらうことによって征夷大将軍という地位を得て、軍政を敷いたのが幕府の政治であったのです。

この幕藩体制下では身分差別ががっちりと組まれていたために、民衆は大いに苦しみ、やがて世直しの機運が高まって来たのです。 この民衆のエネルギーを、大勢の人の幸せのために使い、少数の支配者を排除して行くのが正当な動きです。 しかし、この基本的な考えを皆の意識の中に治めて行くことは、理論もしっかりしていなくてはならないし、大変に時間もかかることなのです。

長い間、ほとんどの教育機関は忠義・孝行という服従精神を教えて来ました。その結果、 民衆の大部分は服従することが最も美しく尊い事と、我が家の親から厳しく仕込まれて来ました。 しかし、世間の人は、この道徳が結局は自分達の首を締めているということに気が付かず、服従精神はそのままにして、只、自分の目先の生活を良くしたいというだけで、上が悪いからこれを変えろと要求していたのです。

こういう人達に教祖は、上に仕えることよりも難渋をたすけることが善なのだと教え続けたのです。しかし、難渋をたすけるという基本的な理解をきちんと積み上げさせるのは大変なことです。 大部分が古い道徳のままなので、幕府を倒して政権を取りたいというような欲を持つ人は、人々を目先の欲で釣り上げて、煽り立てることが可能なのです。現在でも利益誘導の罠にはまる人々の何と多いことでしょう。

倒幕派の言い分は、「将軍家も偉いようなものだけれども、もっと偉いのは元のご主人である天皇家なのだ。だから、天皇家を尊んで幕府を倒せ」というような尊皇思想です。これは、民衆のための世直しではなく、今の権力者からもっと身分の高い権力者の手に支配権が移るということでしかありません。

この事が分かっていた教祖は、こんな尊皇思想で幕藩体制を倒しても、自分の腹下しで体をこわすようなものだ、として、「もっと大変な重荷を背負うことになるよ」とお話しになったのです。

維新の際、鳥羽伏見の戦いが起こり、おぢば近辺でも、昔からの無足人には出陣命令が出されたということです。しかし、一代限りの無足人という名前をもらった人達は、まさかそんなことになるとは考えてもいなかったし、戦力にもならないので出陣命令は出されていません。しかし、昔からの無足人として出陣した人達について伝えられることには、戦場で活躍したなどという威勢の良い話はなかったようです。

藤堂藩は出陣したときは幕府方でした。 津を出て榛原で一泊し、京都に向かったのでしょう。ところが、いざ戦場で薩長軍と出遭い、敵が輸入品である最新鋭のアームストロング砲などを撃ち出すと、藤堂藩などはさっと天朝方に旗を変えてしまったのです。

こんな調子で幕府方は総崩れとなり、敗走して行きます。幕府勢にとって最も近い味方の城は淀君ゆかりの淀城です。

淀十万石の主は稲葉という、後に、神道本局の管長になった人でした。

稲葉家は、老中が出た家柄なので、一度崩れかけた幕府の兵を受け入れて、この淀城を拠点に陣容を建て直すのだろうと思われていたのです。ところが、稲葉は天朝方に鞍替えしてしまって、逃げてくる幕府方の兵隊を、門を閉めて中に入れません。これを見て、それまでは幕府が怖かったから仕方なしについて行った諸藩の軍勢は、つぎつぎに寝返ってしまったのです。

昔、楠木正成が千早城に籠った時、鎌倉幕府の命令を受けた全国の軍勢が押し寄せて来ました。 十万人もの軍勢だったと言われていますが、その中の将軍であった新田義貞が反対に鎌倉を攻めると、京都まで来ていた足利尊氏も反幕府勢力が優勢と見て、 幕府の西の拠点である六波羅探題を攻めてし まうのです。

このように、信頼が無くなった組織というものは、大軍を集めて一応その威厳が保たれていても、将来に対する見通しや政策を持たないと、その部下はどっちに転ぶか分からないことになります。 徳川幕府の場合も、老中の家柄であった稲葉家の淀城でさえ天朝方になってしまうのです。

こうなると、無足人などはどっちが敵でどっちが味方なのか分かりません。 この戦いで「わし等百姓兵は、塹壕から鉄砲だけを出してただ撃っただけだ。 ところが長州の奇兵隊は強い。やつらは相手を狙って撃っていた」などというのが、幕府軍として出陣しながら、官軍として勝って帰って来たという丹波市近辺から出陣した無足人達の、凱旋の話であったと言われています。

この時期には維新の戦いが世直しには結びつかないことをあらためて証明するような事件がありました。江戸を攻めるのに、薩長の軍ではない天皇直属の軍を作ろうとして、後にお公家さんを隊長とする「草莽そうもう隊」と呼ばれた軍が組織されたのです。その中でも、人に知られたのは「赤報隊」で、相楽総三という人が組織したものです。この人は関東の出で、自分の家の資産を倒幕運動に投じていたのです。

この人達の仕事は、薩長軍や有栖川宮が江戸に向かう前に、先鋒隊として出陣し、諸藩の軍隊がどちらに就こうかと迷っている時に、先ず、農民達に「天朝方に味方すれば年貢を半分にする」と触れ回る宣伝工作でした。赤報隊が下諏訪で掲げた高札には「是迄、慶喜の不仁に依り、百姓共の難儀も少からざる義と思召され、当年半減の年貢に成下され候間、天朝の御仁徳厚く相心得申すべし」とありました。

こうして、赤報隊は多くの藩を天朝方にひっくり返しながら木曽路を進んで行き、 小諸藩の領地にまでやって来ました。 小諸藩では藩が取る年貢が七割で、大変に率が高く、さらに、地主に小作料を取られるので、小作人には極めて苛酷な状態でした。 上田、高遠といった近辺の藩でも同じような状況でした。 そういう小諸なので、年貢半減政策を支持する農民の声に、ついに藩も動揺して、 天朝方に就こうかということになりました。

しかし、各地で草莽隊の活動が進み、いよいよ天朝方の勝利が見えた時、京都の新政府は突然、年貢半減令は嘘だ、という布令を出したのです。そして、赤報隊などの幹部を突然に捕え、偽官軍として処刑してしまったのです。 すでに勝ち戦は目に見えているし、これ以上、年貢半減と言ったら、後の収拾がつかず、財政難に陥ってしまうことから、新政府はもはや草莽隊の利用価値はない、と判断したのです。

赤報隊は長い間、偽官軍として扱われていましたが、正当な理想を持って倒幕運動をした人達だとして、その名誉が回復されたのは、ずっと後の昭和になってからのことでした。 諏訪湖のすぐ近くにはその人達の「さきがけ塚」というお墓があり、その当時の面影を伝えています。

これは、明治維新が、民衆のための世直し、というものではなかったことを象徴的に表わしています。尊皇(幕府より朝廷が尊い)という差別思想によって幕藩体制という差別社会を世直しするということは、原理が全く間違っています。

幕府を倒した新政府は、惟神かんながらの道を明治天皇国家の基本方針として、それ以外のものは弾圧する政策をとりました。 この時には、民衆に大きな影響力を持っていた仏教を排除するために、「今までの悪政の責任は仏教にある」として、人々を排仏毀釈はいぶつきしゃくの嵐の中に煽り立てて行ったのです。

明治政府はまた、天皇制を固めるための最初の行動として、明治2年に、皇居の中に現在の賢所・神殿・皇霊殿の元となった、三座の仮神殿を祀り込んでいます。

この三神殿は、天皇家を神として崇めさせようとする、薩長の指導者の考えで作られたのです。もちろん、神社関係者や復古神道などを唱える人達が強引に実現を迫ったことでもあります。これは天皇家が神道になったことを表わします。

それまでの天皇家では、京都の御所の中に神殿はなかったのです。自分達の先祖であり、王であった天照大神を象徴する鏡は大切に持ち伝え、賢所と呼ばれている所に置いていたのですが、誰もそこを神殿とは思っていなかったのです。

天皇家の先祖を神として皇太神宮に祀っているし、その子孫が現人神の天皇なのですから、天皇家は一貫して神道の宗家だったと思われていますが、事実はちょっと違います。信仰としては、天皇家はそれまでは真言宗であったのです。

古い京都御所の図面を見ると、その中に真言院という真言宗のお寺があります。そして、東寺の高僧がやって来て祈祷をするということになっていました。ここに伝わる両界曼荼羅は現在、国宝として東寺に保管されています。また、歴代天皇は、皇霊殿に神として祀られていたのではなく、真言宗の僧が位牌に戒名を書き、代々の天皇の位牌は御黒戸という仏間に安置され、そこで現在の天皇がその先祖達を拝む、という形になっていました。以前はこのように真言宗の寺があり、位牌があり、そして、天皇は仏間でお経を唱えていたわけで、明らかに、天皇家は真言宗の信者であったのです。

そこで、新政府としては、何としても天皇家自体を神としなければならないので、政策的に、天皇の先祖は神である、という形で、新しい東京の皇居に神殿を作ったのです。

3-6 信仰の目標
第3章 教祖の道と応法の道
3-8 屋敷のそうじ


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