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中山みき研究ノート3-3 大和神社事件

大和おやまと神社事件

初代真柱の『稿本教祖様御伝』(明治31年)には、次の様な記述があります。

慶應元年(教祖68歳ノ御時)、(元治ニテア ラザルヤ)8月19日、豆越村、山中忠七方エ御出デ遊サル。勤場所新築ノ目論見アリタリ。9月13日、ヨリちよんの始メニ掛り、10月26日上棟出来セリ。 此普請ハ30年見込ミトノ咄シ。同年11月中旬頃、勤場所新築落成歡ビトシテ、太鼓等ヲ持チ、大和神社ニ至リ、鳥居前ニテ踊リナセリ。山中忠七等ハ當時行キシ人。 此時大和神社ノ神主ハ守屋筑前守ナリ。踊リシ人々ヲ社務所エ呼取り尋問セシ事アリ。(『復元』32号、326頁)

『稿本教祖伝』には、棟上げの翌日に山中忠七が招待して大和神社の事件が起こった、と書いてあります。

山中忠七が、棟上げのお祝いに、明日は皆さんを自宅へ招待さして頂きたい。と、教祖に申上げると、教祖は快く許された。

翌27日朝、一同が、これから大豆越村へやらせて頂きます。と、申上げた處、教祖は、

「行ってもよろし。行く道すがら神前を通る時には、拝をするように。」

と、仰せられた。そこで、人々は、勇みに勇んで大豆越村へ向って出發した。秀司、飯降伊藏、山中忠七、芝村清藏、榮太郎、久太郎、大西村勘兵衛、彌三郎、兵四郎、安女、倉女、彌之助の人々であった。

山口村、乙木村を左に見て進むと、間もなく行く手に、佐保庄、三昧田の村々が見える。 尚も南へ進み、やがて大和神社の前へ差かゝると、誰言うともなく、教祖が、神社の前を通る時は拝をして通れ、と仰せになった。拝をしよう。と、言い出した。そこで携さえて居た太鼓を、社前にあった四尺ばかりの石の上に置いて、拍子木、太鼓などの鳴物を力一杯打ち鳴らしながら、

「なむ天理王命、なむ天理王命。」

と繰り返し/\聲高らかに唱えつづけた。 

これを耳にした神職達が、急いで社前へ出て見るとこの有様なので、早速、中止を命じると共に、太鼓を没収した。

この日は、大和一國の神職取締り、守屋筑前守が、京都から戻って一週間の祈禱をして居る最中であった。 由緒深い大和神社の社前で、卑俗な鳴物を用い、聞いた事もない神名を高唱するとは怪しからん。お前達は一人も戻ることは相成らん。取調べの濟む迄留めて置く。と、言い渡した。段々と取調べの上、祈禱の妨げをした。とて、三日の間、留め置かれたので、中には内心怖れをなす者も出て来た。

この事件は、忽ち傳わって、 庄屋敷村へも、大豆越村へも、又、近村の信者達へも聞えた。お屋敷では、こかんを始め残って居た人々は、早速家々へ通知するやら、庄屋敷村や櫟本村の知人や、村役人に連絡して、釋放方を依頼するやら、百方手をつくし、新泉村の山澤良治郎からも、筑前守に掛け合うた。

又、櫟本村から庄屋の代理として岸甚七が来て掛け合うてくれたが、謝るより外に道がない。とて、平謝りに謝って貰った處、悪いと言うて謝るならば、容してもやるが、以後は決してこういう所へ寄ってはならぬ。との事で、今後決して致しませぬ。と、請書を書いて、漸く放免して貰うた。まだ日の浅い信者の中には、このふしから、不安を感じて落伍する者も出て、そのため、折角出來かって居た講社も、一時はぱったりと止まった。

ふと、こかんが、行かなんだら宜かったのに。と、呟やいた處、忽ち教祖の様子改まり、 

『不足言うのではない。 後々の話のだいである程に。』 

と、お言葉があった。

普請は棟を上げただけである。これから、屋根も葺き壁も塗り、床板も天井板も張らねばならぬ。秀司は、大和神社の一件では費用もかゝったし、普請の費用も次第にかさんで来たし、この暮はどうしたものかと、心配したが、伊藏が、何にも案じて下さるな。 内造りは必ず致します。と、頼もしく答えたので、秀司は安堵した。

明治40年以前、つまり、本席が生存中に書き残された資料、あるいは話されていたことには、棟上げの翌日に大和神社の事件が起こった、とは何処にも書いてありません。完成した後に起こった、と書いてあるのです。また、記述そのものがない資料もあります。 その他にもはっきりとした資料があるので、大和神社のことは棟上げの時とは全く別な事件として考えるべき事と思われます。

慶応元年11月11日。 これは真柱宅に残っている大和神社への公式な詫び状の日付です。その数日前の事と思われますが、何かお祝い事をしたいと山中忠七が言い出しました。もちろんこれはつとめ場所の棟上げの翌日ではありません。日付から言えばその一年後です。いつも教祖のお側で一生懸命御用をしている伊蔵達に、何かお礼でもしたいというわけで、家に招待をしたものと思います。『稿本教祖伝』では、「皆が出掛ける時に教祖が、神前では拝をせよ」と言ったことになっていますが、飯降伊蔵が語ったおさしづ、、、、には、次のように書き残されています。

これは大豆越忠七、大工に道で言い付けて、人数神殿の前を通れば、拝して通れ。これで結構や。なむ天理王命/\唱え、太鼓叩いてつとめをし、他に居て一人の家守に事が成らず、門を閉めて了い、何構わん。皆入れ/\。三日留め置かれ、万々所の役人に掛け合うて知らし、どうなっと詫びして、それより道の順序、廃って了うた。その暮れになって往なずと、存命の者尋ねば分かる。

(明治31年8月26日)

飯降伊蔵は山中忠七が命じたのだ、と言っているのです。大和神社の前の空き地では、毎年10月23日の大祭の日に太神楽だいかぐらが奉納されることから、この場所で、守屋筑前守が中でお籠りをしているのも知らずに、伊蔵達がかぐら、、、をあげてしまった、というわけです。

これについて、百姓善右衛門(秀司)から市磯相模守に宛てた、 慶応元年11月11日の日付のある御請書が出されています。 市磯というのは大和神社代々の神主の名字ですから、これは神主への詫び状です。それには、ここでかぐら、、、をあげた時の道具が記録されています。

太鼓 一。伊豆の踊り子が持っているような小さな物。
鈴 一。密教で用いる金剛鈴のような物。
拍子木 七丁。
手拍子 一。今で言うチャンポン。
すゞ 一。神子みこ達が神楽を踊るときに持つ鈴

以上の11人分の道具が押収されたのです。これらの道具を持ってかぐら、、、をあげたところ、どの記録を見ても、守屋筑前守がこの人達を咎めた、としてあります。 そして、三日間留め置かれます。

「山中忠七は共に行きし人なり」と、初代真柱は『稿本教祖様御伝』に書いていますが、山中忠七は土地の人であり、守屋神社の神主である守屋筑前守の従姉妹いとこを妻にしています。 山沢良治郎は新泉村の人で、大和神社の信徒総代でもあり、忠七の妻の弟という親戚同士なのです。

守屋筑前守がそれを咎めてみた時、自分の従姉妹いとこの旦那がそこにいたなら、普通は「まぁまぁ、困るじゃないか。早く行ってくれよ」ということで終わりになるはずなのです。ところが、大和神社の神主が文句を言わないのに、守屋筑前守が咎めて、皆捕えられた、ということなのです。秀司もここで捕えられたのですが、奇怪なことに秀司は前川家に釈放方を依頼していません。前川家もこの神社を維持する三昧田村の有力者で、庄屋なのです。 当然、釈放運動をしてもらうべき人なのに、動かないのです。さらに、忠七は一緒に行ったにもかかわらず、捕まっていません。捕まった11人は大豆越村の近くの人が多いのです。しかし、誰も釈放運動に動きません。 どうもこれは頼まなかったようです。

釈放運動をしたのは、伊蔵の知らせを受けた櫟本の庄屋の代理、岸甚七で、これは謝るより道がないと、散々謝ってくれたのでした。秀司は大体こうなることを知っていたのではないかと思われますが、伊蔵にしてみればびっくり仰天のことだったでしょう。

これらの一連のことはどう考えてみても、偶然だとは思えないのです。記録では慶応元年11月11日となっています。また、おさしづ、、、、でも 「大豆越忠七大工に道で言い付けて…」となっています。それにもかかわらず本席飯降伊蔵が亡くなった後の文書では、ほとんどが棟上げの翌日か当日、あるいは普請中にこの事件が起こったとして、熱心な人が脱落してしまったからお金が寄らず借金が出来て困った、という話になっているのです。これでは作為が余りにもはっきりしすぎます。

この結果、守屋筑前守にこかん、、、の営業許可の免許証が取り上げられ、 こかん、、、は「いかなんだらよかったのに」という言葉を出したと伝えられています。それから2年後の慶応3年に、守屋筑前守の斡旋で秀司が改めて京都の神祇管領の免許を取っています。ついに営業権が秀司に移って行くのです。

したがって、大和神社の事件は、まいり場所の名義・営業権がこかん、、、から秀司に変わる大きな出来事であった、ということができます。

この事件の後、伊蔵は怒って櫟本に帰り、 夜しか教祖のもとに来なくなったのでした。そして、山中忠七も、やはりお屋敷に来にくくなって、ちょっと足が遠のいているのです。この時期には、これがどういう意味をもっていた事件なのかは、皆は分かっていたのではないかと思います。

その後、秀司は天輪王明神の許可を得て、忠七達と共に、教祖が「息の根止めるで」と言われた拝み祈祷の営業を始めるのですが、伊蔵はそれに参画しません。そして、秀司が亡くなるまで、教祖が門屋を建てる、と言えば来て建てるが、その他の時は櫟本に留まり、そこで働き、毎年、年の暮れには教祖やこかん、、、が、不自由のないようにと心を配っていたのです (注=おさしづ 明治34<1901>年5月25日)。

高弟と言われている人達が、教祖と秀司、そのどちらを自分の働く場として選んだか、ということが、後になって大きく道が別れることに繋がっていくのです。

3-2 針ケ別所事件(初めての異端)
第3章 教祖の道と応法の道
3-4 みかぐらうた


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