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中山みき研究ノート3-2 針ヶ別所事件

針ヶ別所事件(初めての異端)

慶応元年には、教祖の話を聞いていた針ヶ別所にある今井家の二男で通称、助造といわれた正次郎が、教祖の教えを歪めて説くということがありました。いわゆる、助造事件であります。

教祖は、神の社になって生きる生き甲斐という、いままでにない信仰を正しく伝えようとしておられました。それまでも、転輪王は一人も余さずたすけたい思いであるという教えはありましたが、元初めた神でもあるということは教祖が初めてお教え下されたことです。そして、おすがりしてたすけてもらう、という昔からの信仰に対して、「そんなことを皆が百年願おうが世の中は良くならない。自分が転輪王の心になってたすけなければいけない」と、「たすける神の社」を説いたのです。

助造は、目の患いから教祖のお話を聞き、自分も神の社になって通る心定めをして、目のご守護を頂いたのです。それで、有り難い神様だ、と針ヶ別所に帰ってから周りの人々に話していました。

針ヶ別所は、交通機関がなかった当時、京都と伊勢と大和の三方に分かれる交通の要所で、現在よりは賑やかであったと言われていますが、それにしても大した広さはなく、小さな在所という感じです。庄屋敷でたすけられた助造は、それまでも真実の神・転輪王におすがりするという信仰があったのに加えて、教祖の教える転輪王は、元こしらえた神でもあるという話を聞き、それならばなおのこと「たすけて下さい」と願えばご利益は間違いはないぞ、と説いてしまいました。教祖の教えが崩れてしまったのです。

この方が、有り難いといって人を集めるのには向いています。しかし、成人させるのには向きません。本当の人だすけの心を作るためには、自分が神の社になり、 人だすけに生きれば生き甲斐ある人生が送れるし喜びも湧いてくる、ということを感じさせなければならないのですが、人気を得るためには、むしろ簡単に「この神様に願えばたすけてもらえますよ」と言った方が良いのです。助造のもとにはどっと人が寄りました。

教祖はそれを知って「これはいかん」と思われました。 似通っている神名を使い、それまでも仏教界では転輪王は全てをたすける神と説かれていたその上に、教祖の教えである元こしらえた神でもある、という事をも話して、それにおすがりすればたすかるのだ、というのでは余りにも紛らわしいのです。言葉の上ではほんの少しの違いでも、意味する所は大きく異なります。それで教祖は、伊蔵を始め、弟子達を連れて針ヶ別所まで出かけることになりました。

この時、秀司は、夜に山中忠七の所に行っています。『山中忠七伝」によると、「どうも家のおばあが明日、針ヶ別所に行くらしい」ので「あんたも一緒に来てくれ」と言ったと書いてあります。

針ヶ別所では「たすける神の社になって人だすけをしよう」という信仰と、「たすける神があるなら、たすけて下さいとお願いする」信仰との間で問答が戦わされました。

助造は祈祷の許可を得ていた奈良興福寺の金剛院を頼んで、教祖は私を教えてくれた人には違いないけれども、祈祷の許可も得て私がやっていることに「それはいかん」と言って来た、と金剛院に救いを求めたのです。ところが、興福寺金剛院の坊さんには、既に安堵村で教祖に論破された記憶があるのです。それから未だ一年しか経っていません。それで、あの婆さんが付いているのなら行っても仕方がない、と出て来なかったのです。

そこに、守屋筑前守を後ろ楯とする山沢良治郎も応援にやってきました。

守屋筑前守という人物は、教祖伝の一時期に、重要な役割でかかわっています。 柳本と田原本の中程、磯城郡旧川東村蔵堂にある守屋神社の神職で、物部守屋一族の末裔と称し、吉田神祇管領より大和一国神職取締りに任じられていたとされる人です。 守屋神社に伝わる系図によれば、文化6(1809)年の生まれで、嘉永5年に従五位下に任ぜられ、正式には森本筑前守大神朝臣廣治と名乗り、明治12年に71歳で亡くなっています。

こうなっては助造も、「確かに教祖の教えた、たすける神の社になって人だすけの生き甲斐を持つ、という教えと、私がここで説いている、転輪王におすがりすればたすかるという事とは、違います。恐れ入りました」と言わざるを得なかったのです。

そこで教祖は、「私の弟子と名乗ることは許さぬ」と言って、御幣を折って燃やされました。『稿本教祖伝』では、行って直ぐに燃やしたように書いてありますが、他の資料では問答の後で、以前に与えてあった御幣を燃やした、となっています。

しかし、転輪王という神名は教祖が発明した名前ではありません。転輪王に南無とおすがりしてたすけてもらう、というお願いの仕方は昔からあったので、止めることはできません。

教祖が言われたのは、「私の弟子と名乗る事は許さぬ」ということです。助造が、「針ヶ別所が庄屋敷のたすけ場所の本家だ」などと言ったから取り払いに出かけたというわけではありません。転輪王という神については、敗戦前の神道天理教という雰囲気の中では、全然話すことの出来ない事でした。仏教の経文の中に出てくる転輪王を、教祖がそのまま神名に採用したなどとは神道体制の中では言えません。ですから、針ヶ別所での事は詳しくは語られず、現在の『稿本教祖伝』にも不確実なままに受け継がれてしまったものと思われます。


3-1 つとめ場所
第3章 教祖の道と応法の道
3-3 大和神社事件


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