僕の夏の課題読書③L・モホイ=ナジの『ザ・ニューヴィジョン』を読む/一日一微発見402
「グローバル」と「ローカル」というコトバほど今や怪しいものはない。なぜなら、「東京」に住む者で「地方」に住んでいると思っている人はいないだろうが、ヨーロッパから見れば極東という「ローカル」にすぎない。
逆もある。以前、スイスの先端的な作風の写真家と話していて、自分たちは「ローカル」な活動をしていて、と彼が言って、ちょっと驚いてしまったことがある。
いや、世界は全ての場所がローカルであり、同時に、世界の中心になった。そう、ネットの時代になり、人々の中のその二項の対立は急速に失効している。
バックミンスター・フラーの「Think Globally, Act Locally」はきわめてあたり前の認識になったのだろうか?
フラーが今生きていたら以前のコトバをアップデートして、「宇宙的に考え、自からの肉体で行動(ドローイング)しろ」と言ったかもしれない。
ヨーロッパのロンドンやパリのような大都市ではなく、「地方都市」にある現代美術館を巡礼したいと思うようになったのは、アムステルダムやチューリッヒなどの日本では知名度の低い美術館の凄みを知ったからだった。
マドリッドにあるソフィア王妃芸術センターやティッセン=ボルネミッサ美術館の現代アートのコレクションの充実を見ていると、ヨーロッパにおける「アートの思考」が、ミルフィーユのように多層になっていて、かつ大きな広がりを持っていることが痛感される。
僕は、何度も何度も同じ美術館を見てまわるのが好きである。なぜなら一回の巡礼で「わかる」なんてことはないし、機会が違うと、別のことに「気づく」ことが面白い。
そのことを大切だと思っているから、本だけの知識や理解によって「わかること」が形成されるのではなくて、常に行動により自らを更新し続けようとする。その衝動に駆られる。
マドリッド、ポルト、チューリッヒ、バーゼルとまわってきて「気づいた」のは、マルセル・ブロータースとモホイ=ナジ・ラースロの作品が、どの美術館にも、ちゃんとある一定量コレクションされているということだった。
日本では、大美術館に何人、入場者が動員されたかの話ばかり。彼らの重要性の認識は、実にとぼしい。
しかし、ブロータースにせよ、モホイ=ナジにせよ、彼らは明らかにアートの「確実な基準」のポジションにあることをヨーロッパの現代美術館は示している。クンストムゼウムバーゼルの壁にかかっている絵が、モホイ=ナジの「透明絵画」の一つだったのだと、気づいた。
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