#すずめの戸締まり が大好きな理由と、鈴芽たちが戦っていた相手をめぐる考察
※冒頭のみネタバレ無しです
新海誠監督の新作『すずめの戸締まり』がいよいよ公開されました。
僕は『君の名は。』以前の作品群で心を撃ち抜かれ、新海さんには奇妙なシンパシーを感じながら作品を追っているオタクです。『天気の子』から3年間、待ちわびてきたのが今作でした。
小説→映画と楽しんだのですが、僕は非常に気に入っています。新海作品の中で一番のお気に入りになるかも、というくらい。
一方で、ですね。
スマートによく出来た物語とは言いがたい、という印象も確かにあります。疑問点にモヤモヤしてしまう人も多いのでは。
とはいえ、浮かんできた疑問点について僕なりに考えてみるのも面白かったですし、大体に対してはそれなりに納得のいきそうな解釈も浮かびました。
よって本稿では、今作についての感想(基本は肯定的)と共に、僕の疑問点や解釈を記していきます。
これから鑑賞する、あるいは鑑賞するか迷っている……という人に伝えるとすれば。
・テーマ性は非常に真摯だし好感
・話の筋がスッキリするかは微妙
・新海作品にありがちだったDT感やギャルゲー感は薄め、その辺が苦手だった人もいけそうでは
そして若干ネタバレになるのですが察しはつきそうなので。
地震の話ですし、東日本大震災を扱っています。
津波や遺体の描写はありませんが、被災地を思わせる描写は多いです。それがどうしても苦手という方は、避けた方がいいかもしれません。
※以下、『すずめめの戸締まり』の映画版・小説版のネタバレを含むことをご了承ください
※なお筆者は新海誠を依怙贔屓しがちなのもご了承ください、人としての好意も結構入っています
笑って燃えて泣ける、エンタメの強度
描かれた「命への賛歌」に泣かされる
小説版のときから予感していたのですが、終盤は泣けて仕方なかったですし、清々しい気持ちで劇場を出ることが出来ました。
本作で描かれたのは
「喪われてしまった営みや命に敬意を払いつつ、それらへの未練に区切りをつけて今を生きていく」
「今に窮屈さを感じて死に引きつけられていた少女が、生きたいと決意し過去の自分にもそれを伝える」
「多くを守るために我が身を犠牲にしかけた青年を、共に生きようと連れ戻す」
といった物語です。
つまりまとめるなら、
「あなたたちに生きていてほしかった」という死者への哀悼と
「あなたのいる世界に私は生きたい、だからあなたに生きてほしい」という生者へのエールです。
それを真正面から全力でやってくれたのが、とても嬉しい。
これだけで大満足です。
少女×椅子、凸凹バディによるコミカルさとワンダー
ヒロインのバディであり、先生や王子様といったポジションも務めるイケメン(CV. 松村北斗)が、そのイケメンな風体ではなく小さな椅子としてカタカタ跳び回る……という草太のコンセプト、非常に良かったですね。
「動く椅子」を実写で描くのは相当に難しいので、アニメだからこそのキャラクターでもあるんですよね。可愛い椅子とイケメン男性というギャップも良いですし、その気になれば忍者の如き大アクションもできるのに人前で動いてはマズイ……というジレンマも良い。『トイ・ストーリー』を思い出したりも。
それによる鈴芽との距離感もコミカルで楽しいです。専門家として鈴芽を導く役回りでありつつ、人前では彼女に運んでもらわないと何もできない。
「成人男性の魂が入った椅子」なので、鈴芽が座ったり乗ったりしたときの反応も可愛かった。
だからこそ。東京上空での、草太を犠牲にしなければいけないという葛藤が沁みます。そして東北の常世での、椅子へのキスがグッとくる。
ミミズという災害媒体とアクションの面白さ
本作において「地震を起こすエネルギーの象徴」として描かれていた「ミミズ」という現象。このビジュアルがとても良かった。
ひと目で禍々しさが存分に伝わりますし、平穏な街の上空に広がっている様子は「気づかれないまますぐそこに迫っている危機」の象徴としてあまりにも説得力。
「戸締まり」を行うフィールドも、広間(宮崎)→廃校(愛媛)→遊園地(神戸)と多彩で飽きさせません。特に夜の遊園地の活かし方!
そして東京では上空に広がるミミズの上へ。あの巨大ミミズの恐ろしさ、本当に良い画……
詠唱や口上が好きなオタクなので、戸締まりでの草太の口上(祝詞とかに近いかも?)も大好物です。
そしてラストの常世では、サダイジンVSミミズの格闘も描かれます。まさかここで怪獣プロレスじみたバトルが見られるとは思わず、けど新海さんのデビュー作(ほしのこえ)でロボアクションが描かれたのを思うと納得でもありました。
常世の精神的な背景や、鈴芽の旅の意味への考察
問:後ろ戸が廃墟で開く理由とは?
この問いへの答え、まずは制作上の理由になるでしょう。
新海さんは「人のいなくなってしまった場所を悼む話にしたい」と語っており、その方針と「異界から現われる脅威から現世を守る」縦軸が融合したものが「廃墟を訪れてはゲートを閉じる」展開になる。
ではそれが作中で、草太からどう説明されているかというと、
……というように。
「元々人が住んでいた土地から、人がいなくなること」がトリガーになっているようです。
作中でそれ以上は触れられていませんが、もう少し考えてみましょう。
(ちなみに僕は宗教学や民俗学には全く詳しくありません。また、独自に飛躍した解釈が多く含まれます)
説①土地の神の祟り
「産土」「お返し申す」といったワードから発想。
本来、土地や自然環境とは神の所有物(あるいは神そのもの)である……とう世界観、日本では馴染み深いじゃないですか。
そうした場所を人間が切り拓いて街に作り替えるのは、本来は神に背くこと。よって人間は信仰を捧げ祭りを行うこと等で、神に許してもらっていた。
しかし信仰を捧げる人間がいなくなると、開拓された土地のみが残ります。それで神の怒りによって後ろ戸が開き、人間たちに罰を与えるべくミミズが放たれる。
よって閉じ師は「この土地を神に返します」という手続きを行うことで、神の怒りを回避する。
……というのも外れではないと思うのですが、物語全体を思い返すとあまりしっくり来ません。あるかもしれないけど、メインではなさそう。
説②あの世からの引力
冥界からの引力みたいな概念あるじゃないですか。
(ギリシャ神話のタナトスとか日本神話のイザナミも思い浮かんだのですが、あまり合っている気がしないので固有名詞は当てられず)
作中では「現世(うつしよ)」「常世(とこよ)」のように語られていましたが。
「いま生きている人々、営みの続く場所」と「亡くなった人々、過去に取り残された場所」という対比が常に描かれていた物語でした。
(以降、前者を現世サイド、後者を常世サイドと呼称)
そして、常世サイドは現世サイドを引きつけます。
常世サイドが引きつける作用、現世サイドが常世サイドに引きつけられる心情、両方が描かれていました。
この前提を持ち込むと、話の構造が非常にスッキリしてくる。
人のいなくなった廃墟は街としての命が終わり、精神的に常世サイドに近づくので、常世からのゲート(後ろ戸)が開く。
そして常世(死者の世界)は現世の人々を引き寄せるべく、死と破壊を引き起こすミミズを放つ。
……というロジックが成り立つだけでなく。
鈴芽の心理の変化も、これで説明しやすくなる。
鈴芽の旅の本質は「常世からの引力を断ち切る」こと
『すずめの戸締まり』は鈴芽にとってどんな物語か。
「要石を抜いて草太に迷惑をかけたため、落とし前をつけるべく一緒に旅する話」というのも間違いではないですが、恐らく本質ではない。
その旅の途中で常世サイドからの引力に打ち勝ち、現世で生きていく希望と決意を手にする……という心の変化が本質だと、僕は思います。
鈴芽は旅の途中で「死ぬのなんて怖くない」と度々口にしていました。
終盤では、要石になった草太を復活させるために、自らが要石になろうとする。
自分の命を犠牲にしてでも誰かを助けたい……という姿勢を鈴芽は続けていました。
その姿勢が反転するのが、東北の常世で草太の精神に触れて「私だって生きていたい」「あなたと生きていたい」と叫んだときです。
(恐らくは)この決意を受けて、草太とダイジンに変化が現われます。
草太は鈴芽の望みに導かれるように、常世の深みから戻ってきます。
そしてダイジンは鈴芽のそばにいることを断念、要石に戻ることを決め、ミミズ退治へつながります。
危機が去ってから最後の仕事は、過去の鈴芽に会うこと。
この幼い鈴芽、母が亡くなったことを受け容れられずに被災地域をさまよい、常世に迷いこんでいます。母のいる場所(=常世)に魅入られていた、と言ってもいい。
その幼い鈴芽に対し、今の鈴芽は現世で生きるよう伝えます。そして自らも現世に戻る。
つまり「私はこの世界を生きていたい、あなたと生きていたい」と想うことがゴールです。世界は前と変わらず、しかし鈴芽にとっての見え方が変わっている。
「すずめの戸締まり」というタイトルが真に指していたのは、二人の鈴芽が後ろ戸を閉めたその瞬間。
ポスターに描かれている「行ってきます」も、今の鈴芽が常世(にいる母親)へとかけた言葉でしょう。
そして、この流れを一般化すると。
過去やifに魅入られて今を否定するのではなく、
過去に区切りをつけて今を肯定する、生きるに値する理由を確かめる
これこそが物語の本質であり、新海さんが込めたろうテーマだと、僕は思います。引いては、日本人の意識とも深くリンクする心情の流れ。
僕はあらゆる娯楽のゴールは「受け取った人に、生きていたいと思わせる」ことだと考えています。
だからこそ、それを直球で物語にした今作が非常に好きです。
浮かんでくる疑問点やモヤモヤ、それらへの回答
けどやっぱり、気になるポイントが少なくない映画です。
とはいえ、そうなっている理由も察しはついたので、納得感は強い。
という思考の過程を、これから記していきます。
ダイジンは何がしたかったの?
僕が物語を追う上で一番引っかかったの、これです。ダイジンの行動原理。
映画における役割は明確なんですよ。
マスコットとして画を彩りつつ、鈴芽たちが旅する動機となる。ダイジンがいることで保たれる楽しさは確実にあります。
しかし、敵か味方かがよく分からない。
要石の役割を草太に押しつけ、彼を椅子に封じたという点では敵っぽい。
鈴芽たちを後ろ戸へと先導していた点では味方っぽい。
なので僕は途中までかなり困惑していました。
ただ、ダイジンの目的を「鈴芽と一緒にいたい」に絞ると、かなりスッキリします。
ダイジンの正体は神の一種、役割は西の要石。しかし、それはダイジンにとって孤独な生き方だったのでしょう。だからそこから解放してくれた鈴芽に惹かれ、彼女に「うちの子になる?」と言われたことで愛着を持ちます。
鈴芽と一緒にいたいから要石には戻れないので、役割は草太に押しつける。草太に役割を全うさせるために、彼らを後ろ戸へ案内する。
そして最後には、鈴芽から草太への親愛を理解し、自分が要石に戻ることを受け容れます。
つまり、ある種の三角関係をやっていたとも取れますし、ダイジンにとっては悲恋のようでもあります。
……けど、この辺の説明、もうちょっと上手くできたんじゃないかなあ?
鈴芽、無鉄砲すぎない?
勢いがありすぎて心配になるんですよね、彼女。
主人公だから前に進む使命があるとはいえ、猪突猛進すぎる。ここにノリにくさを感じた人も多いのでは。
そんな主人公を通して描きたかったの、恐らくは
「助けてくれる人がいっぱい居る」という希望でしょう。
あるいは「そんな社会であってほしい」という願望。
愛媛、神戸、東京のどこでも、鈴芽は人に助けられました。
なんなら、お世話になっている人のそばから急に飛び出していったりする。
見ようによっては「アクションシーンを入れなければという都合のために、キャラを振り回している」とも取れます。その指摘も的外れではない。
けど鈴芽が出会った人々は、そんな鈴芽を追及することなく温かく接し、最後には笑って送り出します。
ご都合主義、という突っ込みもできるでしょう。
ただ、鈴芽のゴールや物語のテーマから逆算すると、人の優しさを強調することは合っていると感じます。
過去の鈴芽へ、今の鈴芽は現世の希望を語ります。
自分を好きになってくれた人の存在を語ります。
だからその途中で出会う人々は、鈴芽にとって優しい人々である必要がある。
環や芹沢も、鈴芽を故郷に連れていくだけでなく、鈴芽が過去の自分に「大丈夫」と言う根拠になる役割を持っていました。
つまり過去の自分への語りかけに、作中で過ごした時間の全てが乗っかっているような構成……と捉えることもできそうです。
そうはいっても話の組み立てとして不器用だとは思いますが、これはこれで新海さんらしい語り方な気もします。
「閉じ師」という職業の描写、あんまり上手くないのでは?
これは明確に良くなかったポイントだと思っています。
閉じ師が及ぼす影響は非常に大きいのに関わらず、その体制や方法が強固なようには全く見えないんですよね。架空の職業に大事なのは「その世界ではそうやって成立しているんだ」という説得力だと思うのですが、それがボロボロ。
登場する閉じ師のうち現役は草太だけで、後ろ戸を探す方法も効率的とは思えないので「それで日本の安全を守れて……いるの?」という疑問がどうしても浮かびます。
特典冊子の鼎談にて、新海さんが「人の目には触れない、大事な仕事」への思い入れについて語っていて、その発想自体は非常にいいと思うんですよ。
ただ、表に知られてないだけで、裏では強固なネットワークや方法論があるんだ……という描写はできるんですよ。本筋に絡めなくても、言及だけでもいいので。
しかも、仮にも震災を作中で描いているのであれば。地震(=ミミズによる被害)を防ぐ仕組みと破綻する理由は、非常に大事な要素になります。
しかもパンフレットで「作中の日本での地震は全てミミズによる」と語っているので尚更。
この一点で本作を嫌う人が出ても仕方ないくらい、デリケートな部分だと思っています。残念。
追記:閉じ師の本質は「神へ祈る」ことである、という解釈
MV的な演出、過去2作より減っているのでは?
これ、寂しいといえば寂しいんですよ。RADの歌入り曲の登場が減っている。
『君の名は。』での『スパークル』のシーンや、『天気の子』での『愛にできることはまだあるかい』『グランドエスケープ』のシーンはすごく好きなので。
今作でもそういうのあったら嬉しかったな、とは思います。
ただ今作の大事なシーン、音楽も含めてこの形で良かった~という印象は強いので、無理に入れなくて正解だったかもしれません。
あと新海さんも「ずっと洋次郎さんの歌に頼りまくりなのもなあ……」という意識を抱えていそうですからね。タッグ組みつつ、けど甘えまくるでもなく、みたいな距離感を探っているような。
過去の新海作品との比較
※以下、過去の新海作品のネタバレを含みます。
喪失を巡る少女の物語、そのリベンジ
『君の名は。』以前の作品を観ている人であれば、本作で『星を追う子ども』を思い出す人は多いのでは。
ジブリに寄せすぎて新海テイストが迷子になっていることもあり、ネガティブな評価も聞きがちです。僕もトータルではそんなに好きな方ではない。
ただ「喪失を受け容れるため、死者の領域に近づく」というコンセプト自体は好きだったので、嫌いではなく「勿体ないなあ」という印象でした。ラストの主題歌の流れ方とか大好きですし。
だから僕は『すずめの戸締まり』に『星を追う子ども』リベンジの気配を感じており、割と成功しているのでは……と感じています。これは素直に嬉しい!
破滅的な災害との距離感
本人も語っている通り『君の名は。』は震災の影響を強く受けています。
そして震災の影響こそ少なそうですが『天気の子』も災害を描いた作品です。
『君の名は。』は起きてしまった災害を巡り、犠牲になった人々を未来から救いにいく物語でした。災害があろうとせめて生きていてほしかった、という祈り。
『天気の子』は災害とヒロインの命を天秤にかけられ、雨が止まなくなってもいいから君に生きてほしいと決断する物語でした。災害と共存してでも一緒に生きようぜ、というエール。
そして『すずめの戸締まり』はというと、過去に災害は起きてしまったし、そこで亡くなった人は亡くなったままです。
震災だけじゃない、愛媛では「土砂崩れの影響で放棄されてしまった中学校」が出てきます。そこにあった営みは戻らないし、そこに区切りをつけることを是とする物語でした。
営みを終わらせてしまう災害への諦観めいた意識は、作品を追うごとに濃くなっているかもしれません。
繰り返される「一緒に生きよう」
とはいえ。『君の名は。』以降の3作で共通しているのは「大変なことが起こる世界で、あなたと生きていきたい」という感情です。
それは作り手と受け手のそれぞれにとっての特別な人、かもしれませんが。
僕はどうしても、新海さんと観客ひとりひとりとの絆について考えたくなります。
僕は新海さんの知り合いでも何でもないのですが、映画を通して「今を一緒に生きていこうね」と言われているような気に、どうしてもなってしまうのです。そこに何の根拠もないし、いちオタクの妄想に過ぎないのですが。
出会えた人を生きる希望とするような物語がまた観られて嬉しいですし、また観たいですね。
終わりに~生きてきた自分が最大のエールであること~
映画パンフレットを読んでも。新海さんが本作で「時間を越えた、自己同士のコミュニケーション」を描きたかったことは強く伝わってきました。
個人としての新海さん、作家としての新海さん、その両面でこのように感じる経験が増えてきたのかなと思います。
僕は20代後半に差し掛かったところです。これまでの自分が如何に無駄なことをしてきたか、疎ましくなることも増えてきました。これから自分がちゃんとした大人になっていけるのか、不安になることも増えてきました。
けど、これまでも一つずつ越えてきたんだから、これからも越えていける。
いじめられてばかりの小学校時代から約20年、迷走を続けた高校生時代から約10年、向いていないことばかり手をつけていた大学生時代から数年、毎日を生きてきたことに意味はちゃんとある。
この先の自分も、きっとそう思っている。
だから明日からも、また何度も悩んで落ち込んで終わらせたくなるけど、ここじゃない過去に甘えたくなるけど、少しずつでも未来に目を向けられる。
後ろの扉を閉めて、前へ歩いていける。
特別な誰かがいなくても、過去と未来の自分はついてる。
そんな風に思える物語を、ずっと探していた気がします。
観られて良かったです、『すずめの戸締まり』
……けど、やっぱりさあ。
「あなたと見る絶望は、あなた無しの希望など霞むほど輝くから」
って想い合える人が隣にいてほしいんですよ、いないのが寂しいんですよ。
『秒速5センチメートル』みたいな後味の作品、また作ってくれてええんやで、新海さん。
以上、読んでくださりありがとうございました!
拝領つかまつった時間を、お返し申す!
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