見出し画像

2022/11/10 〈戦争〉

 ぼくはみんなが好きだ。
 肌色の、肉とは思わせないような肌の隆起。造山活動の力と、なめらかな色。ずっとそれに触れながら、もう一方の手で本のページを操っている。昔から霊、魔術、宗教、に取り憑かれていた。僕にできたのは、それらを言葉とすることで、光を作ることだった。
 手を、あなたに向ける。あなたは僕がいることで、色と形を変える。僕も同じように変わる。
 もしあなたがそこにいなければ、私は走り続けることができなかった。あなたは僕を発狂にまで追い込み、そこから抜け出たときに、山となった。僕には皮膚が四種類ある。一枚ずつめくって、胸に触れてください。乳首からは血が出ています。それはあなたがスコップで私の心臓を掘り続けたからです。
 僕の周りには神がいて、神、と書くことは、言葉、と書くよりも絶対だ。だから僕は文字を書く時、そのすべてが神でできているかのようにして使う。そして次の瞬間、神は消失する。なぜなら文字は、読む者がいないとき、つまり、信じる者がいない時、なくなるからだ。
 それでも僕はずっと信じていて、だから霊にも悪魔にも取り憑かれ、逃げるために走り続けることになったのだ。
 固まっていたものをほぐすと、その場所に広がって、場所やそこにいる人などのあらゆる影響を受けながら、形をなくす。芸術家は、そこに自我を凝縮させる。
 自由連想で文章を書いている人を見かけたが、それは昔の僕だった。今の僕には、彼が陥っている状態を理解することができる。それを彼に説明するようなことは、しないが。
 インプロヴィゼーション。

 思考をどんどん変貌させる。絵を描く、写真を撮る、小説を書く、映像を作る、ことで僕はここにいることができる。つくる手を止めたら、僕は死にたくなる。僕は「自殺したい」と呪文のように言い、あなたにその状態のまま、つぶやくように言って、ごちゃごちゃといろいろなことを言ったそれを、うんうんと聞いた後あなたは

 軽率に言葉にするな

と言った。

 僕は走り続けたいと思っているし、そのために努力したい。今のままではまだまだ足りない。壁打ち練習としての原稿を、試合にするためには、まずよく本を読み、その中に入り込み、そこから出て、その中と外の二つの空間のような塊のようなよくわからない(言葉でできていない)ものを行き来しながら書かなければならない。ギターをひとに聞かせるために録音しながら弾いたら、いろいろな気づきが生まれた。村上春樹の小説を読んでいるからと言って、村上春樹のように書くことは危険だ。僕は自らの文体を作らなければならないし、自分の文体はもうできつつあると言うこともできる。集中すれば、そこにフランシス・ベーコンの描く肉体のような概念を立ち上げることができる。手を止めて考えることも大事だが、手を動かし続けながら考えることも大事だ。確かに自由連想によって、引き出すことができるものはある。自由連想とは、記憶を無視して、無意識を取り出す作業だ。だからそうして書かれたものは、剥き出しのままのもので、公開できるものではなく(誰かに読んでもらうようなものではなく)、絵にとってのスケッチのようなものとして、自分だけのためにあるものだ。ではアルトーの書いたものはどうだろうか。結局僕は、一冊の本だけを読むことはできなかったわけだが、というのは、今読んでいる村上春樹の小説を読んでいるだけでは、僕の肉体は充ち足りなかったからだ。でもそうであるからといって、また併読本を増やしたら読み切ることができなくなる=一冊に真剣に向き合うことができなくなるから、僕は併読する本をアルトー・コレクションに限ることにした。全四冊あり、その一冊目、『ロデーズからの手紙』を続きから読むことにした。これを書いて、読む力が残っていたら、数ページ読むだろう。
 本を誰かに薦めることはできない、と今の僕は思っている。一見、薦めてその人がその本を読むことがあるかのような時がある。でもその人が読んでいる本は、薦めようとしたその本ではなくなっている。僕の書いた文章も、そのようなものとして、読む人に届く。
 読む人がそこにいる。それを僕はずっと考えている。それを考えずにそこにいることがわかることができたら、僕は次の段階に進むことができるのだろう。アルトーの手紙は、手紙の相手に書いているだけではなく、より極限的な相手に向かって書いているようで、そこから僕は学ぶものがある。言葉の音律を意識して書くことは、体が欲している文字を、音を使うことであるが、それは考えていることに矛盾しない。それはどういうことなのだろうと考えている。僕はイメージや記憶というものが稀薄だが、肉体の中にある音や概念は豊富らしい。意味はそこでは水をいっぱいに吸った満開のバラのようなものだ。思考は絶えず書くことによってのみ進む。なぜなら書かれた文字は、私の外部になるから。書かずに考えるだけのひとは、外部を持たないゆえに思考の網が広がることしか起きない。真の展開とは跳躍だ。僕は再びアルトーを数ページずつ書き写したいと思っている。
 うつくしい人がいたからといって、僕の男としての性は反応するが、人としての僕は反応しない。なぜならそこには兆しがないからだ。肉体は痛みを叫び、身体は苦痛に喘ぐ。僕らがここにいるということだけで奇跡だ。だからといって、それをあなたたちに伝えようとは思わない。私は常にドアを前にしていて、言葉を作った人のことを考えながら、ずっとドアを開けている。開けるその動作は、創造的に外へ作用する。もちろん内側へも。僕は昔から、何事も、心から誰かのせいにしようとは思わなかった。どんなに酷いことをされても、僕はその人のせいとはどうしても思えなかった。それはおじいちゃんが「新しい靴を家の中で履いたまま玄関に降りちゃいけない」と父に言い父はそれを僕に伝えた、その境界をなくしてしまう行為を、無意識でしてしまっていることを意味するかもしれない。しかし僕にはどうしてもそこにある形にこだわることはできない。形のないものが好きだ。だから知識も情報も名前も、僕には重要だとは思えない。
 自由連想的書き方は、無意識を引っ張り出す。しかし私は、その書き方は言葉だけになってしまうから良くないのではと思い始めている。海が紫の平穏をうみ静かな樹木の三千岩色の結びの粒、と自由連想的に書いてみたそこには

 海

 紫

 樹木

 岩

 粒

というような、一語の持つイメージの広がりはない。いくらでも書き続けることができるそれは、やはりそれを伝えるということがないから、その言葉の広がりの意識が含まれていない。いくらでも書くことができるそれは、今の僕からすると、何も書けていないに等しい。

 神田橋條治の『心身養生のコツ』を読み始めた。僕の調子がさらに良くなるためには、この本がおそらく欠かせない。数年前に一度読んだことが僕の中に残っていたのか、僕はここに書かれていることに近いことを無意識に実践していた。しかし元々素地があったのだろう。ブックオフで知らないすごい本を探すとき、本が発しているものを感じ取っていたように思う。人の声を聞いて、瞬時にその人が自分の精神や心にとって良いか悪いかを見定めていたのも、書くとき使う言葉の選び方も、買う商品を、情報ではなく直感的な感触で選んでいたのも、この本に書かれていることの実践であったと言える。僕は神田橋條治の信者であり、中井久夫の、坂口恭平の、吉増剛造の、信奉者だ。もちろん、そこに絶対を作らないことが、創造であり、芸術であるのだが。僕は今毎日が楽しい。

 久しぶりにこの分量の文章を書いて、やはり量を書く必要があることに気づいている。絵も、昨日の映像日記でおそらく言ったように、一日一枚では少ない。写真は、三、四十分、百枚前後を撮れば十分だが。

 書くことがなくなってきた。まだこの分量に慣れていない。十日くらい毎日書けばまた感覚を取り戻すと同時に、書く時には感覚を使わないのだということがわかる。今日はこのくらいにしておこうか、とも思ったが、それなら埋め合わせるように残りの650字を一気に書いてみよう。量を意識するためには、量を書いてみなければならない。空っぽに思える文章でも、そこには量を入れることができる容器がある。じっくり書いてみたこの文章の冒頭は、読み返すととても残念な感じだ。書いてしまったものに大幅な推敲をしないことも、量を書くことの練習になる。
 今、というより昨日から、僕は調子が悪くなることが面白い。それを改善する方法があることがわかってきたからだ。僕はさまざまな出会いや経験の中で進んでいく部分と、自分自身の努力などの結びつける力によって、例えば次はこれを読もうとふと決めて読んでみること、それを読みながら書くことで考えたことに突き動かされることで、前へ進んでいくことがある。僕は今とても楽しい。今関わっている全ての人に感謝している。このままうまく行くだろうと思っている。でも、たぶん、そう遠くないうちに、戦争が起こる。
 虐殺、強姦、破壊、それによる苦痛。
 虐殺、強姦、破壊、それによる死。
 僕は自分自身に実感がない瞬間があるのは、僕の個人的な問題である部分と、時代の状態の部分があると思っている。時代の中核の部分が僕の身体に一致している。実感のない時代には戦争が起こる。正義だけの時代には戦争が起こる。ひろゆき的な正しさの世界には戦争が起こる。おそらく僕らは言論弾圧されるだろう。ゴッホの絵にトマトスープを投げつける時代には、人の顔を銃弾で血まみれにする殺戮が起こる。暴力は、実感の希薄を安易に救う。私たちはそれに加担している。僕らはそのことにもっと自覚的にならなければならない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?