見出し画像

2022/11/07 〈遠くから見られること〉

 手を捧げる。連続的な手。一秒ごとにシャッターが切られる。水の中の手。干からびた手。その手が何かを作る。作るための手は一瞬ごとに切り取られながらもそれが連続体になる。水を打つ。手の限界。今ぼくは手のことしか書けない。
 すぐに出てくる言葉。湧水のように出てくる言葉。そこに連続性はいらないのか。連続することは延長し続けることであり、延長を切断しつづけるために手はあるのか。考えはどのように立ち上がる。批評的身体とは、自我を保ち続けること。ぼくは空っぽなまま作り続けるのか。
 手から手が生え、その手には六本の指がある。あるいは四本。手は何も説明しない。しかしこの手が書くということがある。手が感受したものが手の持ち主によって言語化される。感受したものを変換しないこと。水を飲むとき、水を飲むとは言わないこと。水がおいしいとは言わないこと。感受したものを、感受したもの、と言わない。言葉を使わないこと。その上で言葉を使うことこそが、小説を書くということなのかもしれない。自動的な身体に対抗する、自然の身体。言葉は一番最後にやってくるものだ。受け身でありながら、言葉を使う時、能動的になるのか。書く身体は、逃げ続けるためにある。しかしその方向は合っているのか。間違っていないか。誰もがすれすれのところを走っているのか。叫び声のような文章。写真としての瞬間的な言葉。写っていないものもそこで動いている。もしかすると写っているもの以上に。死んだ言葉も書く必要がある時がある。それが自覚できるのなら。もっと速く。もっと突然に。稲妻のように。雷鳴のように。一瞬が決定的になる。集中する必要がある。常にどこかへ伝わることを意識する。プロであるかどうかは、それのみにかかっている。暗さについては十分にわかったのだ。明るさ、手紙、外へ。文字、と言っていてはどこにも行けない。意味へ。伝達する意味へ。夢へ。夢の中の、知らない誰かが消えて、それを追うことへ。
 厳しく生きる。常に変化を作るためには、苦しまなければならない。一日中苦しむこと。しかし底に向かうのではなく、外へひらいた苦しみ。限界に向かっていくのではなく、書いている思考している姿が目の前の人に、遠くの人に、じっと見られていることを意識して。見られることについて。限界について。見られ続けることに耐えることについて。ものすごく遠くから見られること。その誰かを見ることはできないし、見るということも意味を変える見るについて。どこにも行かずに考えるきっかけをくれるのは、自分自身の言葉、自分自身が書くことによってのみだ。
 自分自身について考えるのではなく、誰かについて考えること。その人に伝えようとすること。その人に伝えながら、その人に一直線に向かうのではなく、他の誰かがそれを読んでも、読むに耐えることができるもの。苦しむことを目標にするのではなく、苦しまないで作り続ける方法を考えること。自由分裂踊りは、自分自身の身体にしか耳を澄ませていない。自分自身を無碍にするのではなく、自分自身から立ち上げて、他の誰かについて想像すること。それとも自分自身のことを全く考えなくてもいいのか。それは本を読んで苦しくなることと同じだ。自分自身を立ち上げる。どんなことなら書くことができるのか。何か壁のようなものがある。ガラスの壁、そこにないかのようで、前に向かっていくと必ずぶつかる、巨大な、分厚く、当たると激しく痛みを感じる壁。前へ進むこと。誰とも同じで、誰よりも特別な声。特別とは、世界に位置する固有点を持つ声のこと。誰もが障害者になる、誰もが貼り絵のように時間の経過とともに色を失う、だれもが禁欲することで性を高める。そうではない。固有点とは、部分のことではない。むしろ部分はいらない。全体であり、一体であり、ひとつの、それ以外にはない、位置である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?