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2022/12/21

 体がこの空間に属しているという物理的な位置と、私という意識や思考が何か途方もない人の関係性の中にいるということ。言葉によって切断することは容易く、悪や異常者を切り落とせばこの世はクリーンになるという考え方は、もはや考えというより考えないことによってのみ実行される言葉の持つ最も強くそして最も短絡的な捌きである。一つの言葉は宇宙を持ち、その最も危険な力とは何ものも境い目がないとすることであり、定義の力、断絶の力よりもはるかに巨大である。しかしそれによって僕らの体は、目の前で踏みつけられる草花と同じものになる。「私は風に揺られ、人や動物に踏まれ、清掃者によって抜かれる。私はやがて枯れるか、燃やされるが、どちらであっても死なない。死ぬものなどこの世にはない。なぜならすべてが私であり、全能であるからだ」声というものは本来観測されるものではない。形なく質量をもたず霊媒である発音者すらも姿なく、空間に位置しながらもその意識と思考において、地球の裏側にまで届き得る。限界というものを設定することが私たちにとって何よりも重要なことだ。言葉自身が言葉を扱いうるということが、僕たちの自我の凝縮と繋ぎ目をつくる。僕たちの観望は果てしなく広い宇宙を前にしているわけだが、もしかするとそれは私以外の全てであるゆえに私となりうる全てであるのだ。そしてその全てとは言葉であり、文字として、そして文字を媒質とした意味として、それが空間と関係性にそれぞれ対応し、そこにさらなる対概念を位置させるとしたら、断ち切るという悪、全てをつなげる(等しくする)という善、の、最極端である。そのどちらも極端であるが故に誰もが認めやすく、過激なものが求められる時代において、悪は至るところで生まれ、それを処理するための善もまた生まれるのだが、その善はもしかすると悪を切断するのかもしれず、悪は何もかもに境い目がなくなる時代に境目を作るために強く屹立するのかも知れないわけだ。等しいものは、そのうちにあらゆる全てを崩壊させるのかもしれないのだから。
 さあ、一つの志向によって固められるのではなく、インプロヴィゼーションの複雑な自由さを持って、この文章を変形させよう。優劣、上と下、平等と不平等、それらの不均衡は人を形作る。人それ自身にあらゆる雑でバラバラなものが統合されるではなく在ることができれば、僕たちはそれ自身のなかで充足することができるだろう。
 写真においても絵においても、おそらく文章においてでさえ、この今というものを空間的に捉えることとあらゆる関係性として捉えることの二つが、複雑に混ざり合っている。舞踏もそうだ。ぼくはこれらの芸術について深く考えたいと思っている。それがぼくの手の間断のない動きに加わることを、ぼくは知っている。

(未完)

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