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2022/08/14

19:06
 緑色の映像。武映画の青のオマージュだろうか。外傷性患者の絵は治癒するにつれて赤から緑系統の色に変わっていくという。身体が受け付けることができない色がある。お前は絵を描くとき必ず十八色使うんだよな。いや、ある色を全て使うだけだよ。
 でも緑と黄緑を使うとき抵抗があるんだよな。対して赤色を使うとき、お前の体の内側が発火するな。
 ああ、おれは文章を書く時も、全ての色を使おうとする。だから全く色彩を使わないか、全ての色彩を使うかで、その中間というものがない。ここにどんな命題が潜んでいると思う。そこにガラスの反射や、鏡に奪われる主体性の問題を含ませることはできるか。
 俺は何人いるんだ?

19:11
 S兄弟に僕の映像を撮ってもらってわかったのは、姉は僕を僕としてではなく人として撮り、弟は僕を僕として撮ったということだ。これはどちらがいいという話ではない。姉は『映像の世紀』が好きで、弟は異常なものが好きである。『映像の世紀』は世界あるいは権力に対する普通の人々あるいは普通の人々を従える革命家の話が基本で、異常が主ではない。弟は舞城王太郎や高橋源一郎や笙野頼子を読んでいる。僕と近いのは弟だが、姉の面白さもあるが、この話は昨日原稿に書いて、途中でつまらなくなってやめた。

19:21
 思考がないように感じるのは書いていないからで、書いていないということは思考が見えないということだ。僕らの頭や体の中にあるものは何かを作ったり書いたりすることでしか見ることができない。それは本当であるのか。またはそれは文字と言葉と人間の関係を単純化し過ぎているのではないか。

「文字に書くというのは、書きつつイメージが文字に引っ張られていくことでもあるから、単純に「頭の中にあることを文字に書いていく」という風には言えない」
保坂和志『小説の誕生』p79
「言葉には本当は底なんかないのだがみんな底があると思って言葉を使っている。言葉を言葉たらしめている核とか、自分の喋る言葉が相手に通じたり物事を指し示したりすることができる根拠とか信用とか、そういうものを言葉それ自身が持っているなんてことは全然なくて、だから言葉は底が抜けている。」
同p89
「足の裏が地面に触れていることが一度も意識から消えないように、自分が何かを語りたいその何かにだけ注意を向けきれずに、「文章を書いている」という意識がついてまわっている」
同pp99-100

 紙の上で体が文字を引きずっていく。それは海から砂浜にかけての場所かもしれない。思考から文字あるいは体が身を引きずって砂浜に出ていく。砂浜は紙であり、あまり書きたくはないがディスプレイでもあり、跡が残るものが文となり、それを追い続けることが文章となるが、それは砂の上のものであるから、追うたびに消えていくかもしれない。書くことでそれは残る、と誰もが信じている。確かに書いたものを読み返すことができるのだから。しかし僕が四千字原稿でやっていることは、書きつつあるということとそれを読み返すということでは、書きつつあるということだ。残らなくていい、何も残らなくていい。文字はどんどん消えていけばいい。書くことは体を感じることで、それは文字の筆跡から感受することで、感受というと体だけではなく心も意味することになるが、そうやって心から魂ということにもなるかもしれないし、こうして書いてみて、僕は魂というものを信じていない、なぜなら私というものは拡散して、もう戻らないということがあるから。私が拡散しても、もちろん体は残る。その体に魂があるというのか。その人自身が感じることもないし(なぜならその人はいないから)、その周りの人あるいは誰でも多少でも関わることがあれば、やはりそう感じることはないように、誰もが認めることができないそこに、魂というものがありうるのか。僕は言葉について考えている。つまり、魂は、形を失ってもなお、そこにあることができるのか。体がある=魂があるとはならないだろう。死人には魂はない。しかし死人は死んだ後魂だけになって浮遊する? なら私が拡散した人の魂は、その過程の中で私の拡散すなわち崩壊を体験しつつ消えていった人の魂は、やはり浮遊するのか。それとも魂もまた拡散することがあるのか。受精し受胎することでどうして魂が宿るのか。形のない言葉、文字ではない言葉、声としての音のない言葉、頭の中でも意識されないであり続ける言葉。全人類が死んだ後にも、言葉はあり続けるのか。そのことを考えながら書くということ。舞踏のように、映像には決して残らない芸術、形として残らない芸術は、拡散せずあり続けるのか。そう考えることは、やはり形としての文字に頼っているのではないか。わかるか。俺はここにいるということから始めなければならない。

19:50
 同じ本を読み続けることができないのは、その本が同じであり続けるからだ。しかし一部の特別な本たちは、読みつつある中で変わっていく。今読んでいる本でいえば吉増剛造の『火ノ刺繍』や中井久夫の『徴候・記憶・外傷』はそうだ。変わりつつあるぼくの体(変わりつつあるぼくの代わりに、と打ち込んでいてハッとした)とともにその本も変わっていく。一冊の普通の本を読むことは、形を意識することになる。僕は形のないもの、あるいは形がないかのように変わるものを求め、そういうものを作りたい。だから一つの分野だけをやることがつまらないし(小説だけ、絵だけ、写真だけ)、反射するものを撮っているのは、変化が内化しているからかもしれない。しかし僕は形があるということがいかに大事であるかを知ってもいて、

「質料すなわち物質や身体の側が要するにディオニュソス的でヤバいものであり、それを形相すなわちカタが抑えつけている。」
千葉雅也『現代思想入門』p 119

それを知り、身につけるためにぼくはいろんな人と現実で関わっているらしい。そこにいる人たちは皆病を持ち、苦しみ、そこから脱しようとし、あるいは脱することができず固まってしまい、そこが居場所になっている。そこから出ていく人はとても少ないように思う。

「滑らかな語り口ではなかったが、裕福な家庭の育ちのよい子だった彼が学校で何人かの同級生に着衣を脱がされ、性器をもてあそばれたことを知るのに時間はかからなかった。(略)そして初対面の私に外傷体験を語ったことに、私は長期入院による受動性を見た。」
中井久夫『徴候・記憶・外傷』p101

 僕らは誰もが当事者になる。誰もが病にかかるかもしれないし、誰もが犯罪者あるいはその被害者になり、それらを特殊だと思う人たちも、老人になる。僕らは現実で、どの当事者にもなりうるし、なることができるということを知らなければならない。そしてそれは知るだけではダメなのだ。それを知り、それを踏まえて、自らを作り直さなければならない。それが書くという根源的な歩行となる。

20:17
 もし息苦しいのなら、窓を開けて空気を入れ替えてみよう。本棚の並びを変えて、今読んでいる本を中断して、あたらしく反応する本を読み始めてみよう。毎日やることの順列を組み替えてみよう。昨日を明日だと思い、今日を昨日だと思ってみよう。言葉があることで可能になったことを、際限なく試そう。
 一冊のノートを買い、無尽蔵にあふれ出る文字を書き続けよう。

 インプロヴィゼーション。

20:22
 書くことがない書くことがないのなら書くことがないと書けばいいそうも書きたくないのならやはりそうも書きたくないと書けばいい、メモ帳か小さなノートを持って外へ出て風景を見るといい、風景描写することができるのはそこに風景があるからで、それは当たり前のことのようでとてつもないことで、僕らには常に外がある。部屋にこもりたいのなら、あなたには外というものが強すぎるくらいにあるということだ。目を瞑れば見えてしまうんだろう、坂を登ると小さな橋があって、そこから浅い川を見下ろすことができる。その橋を渡れば農道のような田舎道だ。そこに言葉を添えてみる。思考を、思跡として連ねてみる。あるいはかき混ぜるように。歩きながら本を読んでみてもいい。つまり、読みながら風景を見ること。それが小説だ。そう、『小説の誕生』を今日読んで、ああ、ぼくも形というものや切断ということや言葉の底のなさというものを身につけつつあるな、とわかり、それがなかった頃に書いた小説は途中で狂気への道を突き進むことで破綻したが、もちろんそうした危険な道を通ることにはなるだろうが、いま試すことはできるな、試してみたいなと思い始めている。もう長く小説を書いていない。小説の定義は、僕にとって身体の反応によってなされる。しかしそれすらも壊すこともできるのではないかとも思っている。保坂和志が坂口恭平の『土になる』を読んでそれを小説と呼ぶ必要はなく面白いと言ったように。小説のように面白い、とまで言ったかどうかは忘れた。身体性は何よりも重視し、重要であると思っているが、それが定義するもの、何であれ定義というものの持つ息苦しさを壊したい、そこに風を吹かしたいと思っている。風だよ、風景には風がある。風景は記号化できない。緑色の風景の下には、赤色が潜んでいるかもしれない。その色、それも何色とは言えないし、たとえ二色であったとしても、それらの重なり方、混ざり合い方は、記号的に捉えることができないものだ。

「ミロの絵は下書きがきちんとされていた。デザイン。マティスは赤の下に青を塗っていた。絵というよりは色。セザンヌはデザインや、絵や色ですらなかった」
山下澄人のツイートから

 ぼくは批評を始めている。つくるだけではぼくは足りない。批評することはつくることではない、少なくとも今は。おそらく吉増剛造が詩をさまざまな分野に変容させながらも詩であり続けているように、批評を立ち上げたのちにさまざまな今やっているつくることに混ざりながら異物をつくることになる。アルトーの大量のノートが、どの分野の定義にも収まらないように。そのものとして。
 僕は書くことから逃れることができないのではなく、逃れることが書くことから逃れることができないのだ。
20:42

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