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2022/08/12

20:20
 書くことがふつふつと煮えたぎるように気泡の熱い破裂があればいいけれど、今のぼくは静かに雨の音を聞いている。そう思っていたら、気づいたら虫が鳴いていて、でも記憶は作動せず、ただ聞き入っているだけだった。ヴァレリーが『カイエ』を、すなわち自分のためのノートを、その電話帳のような分厚いノートに綴られた29冊に及ぶ内的作業を、発表するもの以上に重視していたように、わたくしもそのようなノートを書き続けたいと思っています。紙のノートに書くことは、紙の上に体を引きずることに他なりません。だから、体が飛んでいってしまうことはないのです。文字を傷と呼ぶことにはもう飽きましたが、地面には跡が残るでしょうし、それをひとは読むことになるでしょう。地質学者のように。「ウーズ(Ooze)」、水がしみこむ、ずるずると漏れていく、何かドロドロと渦が漏れてきやがった、という、吉増剛造がベケットを評した言葉、評した、というより、一つの鍵を示した、ぜひみなさんも『詩とは何か』をお読みください、地面というより地盤というものは、そうやって水がしみたりもするし、もしかすると揺れたり、割れたり、燃えたり、凍ったりもするかもしれません。少し大袈裟かもしれませんが、引きずるその体だけを見ているようでは、書くことは始まらないのです。もし、あなたが今、何かを書きたいと思っているのなら、指について考えることです。手について、腕について、それから自らを運ぶ自らの体について。あなた自身が、「あ」であるかもしれませんから。

20:37
 時間とともに、文字は綴られるわけですが、円城塔が言ったように、自動で小説を大量生成する機械になりたい(これはうる覚えなので、もし記憶に留めることになるのであれば、僕の中にある敵対に近い書くときの在り方の人格が、それこそ「生成」したのだということにしてください)のであれば、そういった人間自体だけに備わっているものは、無視あるいは軽視できますね。iPhoneがもたらした悪は、道具であるはずのものが、人間自体を限りなく無化するに近いやり方で、インターネット化してしまったことにあると思うのですが、どうですか。Twitterをひらけば、トレンドに目がいきますね、そのいくつかを押し、人のツイート、今炎上していることに関してのツイート、あるいは、何かをつくる人が、それにふさわしいとは言い難い、なんとも言いようのないツイートをしているのを見て、ぼくらはもう戻ることはできないな、と思います。戻れないのなら、先へ進むしかないのですが、その先というのも、言葉であって、過剰な言葉であって、実態(実体)を伴わない言葉であって、そうした肯定や否定の有象無象であって、ぼくらはそれらの人々の手を切断していくことでしか、現在を認めることはできないのです。

20:48
 中井久夫先生が亡くなって、追悼の意も込めて、『徴候・記憶・外傷』を読んでいるのですが、あまりにも面白い。今はその中の「トラウマとその治療経験」を読んでいます。ヴァレリーの『カイエ』のことをp111で知りました。「七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文」というのにも驚きましたが、「彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された膨大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。」にも感嘆する思いがありました(その後には「自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。」と続きます)。
 もしぼくらが何かをするのなら、その原動は触れることにあります。読むことも知ることも聞くことも見ることも、そこには含まれるでしょう。さて、そろそろ速度を上げていきましょう。

21:00
 どんな言葉を書いてもいい。こうして時間を書き、どのくらいでその文章を書いたのかを知ることも大事ですが、そうすると細やかな意識が働き、それは僕の意にそぐわないのです。細やかさは書くことにおいて不必要なのではないか、というのが、今のところの所感です。中井久夫先生のことを知らないのなら、あなたはそれを読めばいい。読まないのなら、あなたはそこで身を沈め、目を瞑り、想像すればいい。想像しないのなら、ここから立ち去ればいい。右下に文字数があらわれているのも、人と話して、自分が人に合わせようとしているのも、暴力を振るうことができないのも、中井久夫が書いていたことが、過去の僕そのものであると感じることも、そうしてあの人のことを言い表していることも、それを伝えることはできないし、伝える必要をもう感じていないということも、ぼくにとっては、本当に些細なことで、書くときは、もちろん書く前のわたしが日付印や時間を21:06こうして記すように、一つの点となりますが、その点も二次元というより四次元で、もはや点と呼ぶこともできないものでしょう。もっと踏み込んで、「到達しない方角に向かって手を動かしていく」、書くことで現実が薄れると感じることができるのなら、それは良い徴候と言えませんか。あなたは言葉が過剰なのです。言葉を打ち捨てなさい。ああ、打ち込んでも文字が遅れて表示される。このタイムラグもまた、書くことに巻き込んでいく。書いていませんでしたが、今日はnoteにそのまま書いてみているのです。いつもはegwordに書いてから、それをペーストしているのですが。あなたは今何を大切にしていますか。あなたが大事にしているものは何ですか。
 私はそんな質問よりも先に、読むということについて考えたい。

21:10
 たしかにこれは、これというのは現在時刻を書くことですが、こうやって区切ることによって書くことは切断されるようで接続されます。なぜなら文章というのは一つづきですから。どのような拷問も迫害も喜びになるのは、人は苦痛こそが生きがいだからです。それについてもっと考えてみたらどうですか。苦しみすぎると苦しいかどうかわからなくなる、というのも中井久夫先生の言葉でした。わからないものをわからないまま保つことは、創造につながりますが、それができない人たちは、それを保つことは耐え難いことなのです。保つ事柄自体も耐え難いのに、それに対処することもできないのですから。中井久夫先生の病を分析する眼差しは、Kが言うような、否定されうる言語化とは違うものがあります。もし、立つことができないのなら、手を添えればいい。それでも立つことができないのなら、抱くようにして支えればいい。それを体ではなく、最終的には言葉ですること。でもそれも言葉というよりも、温かくやさしい眼差しであり、ここにいることをみとめる力強い支えなのです。しかしもしかするとKは、その眼差しも支えも超えようとしているのかもしれません。

21:19
 どんどん文字があらわれるのが遅くなっていく。書くということが、こうして遅れてやってくると、何かがずれていく。そのずれもまた、面白いといえば面白いし、障害といえば障害ですが、障害もまた面白いですね。このまま書いていきます。もう密に関わる必要がないと感じている人のことも、僕が一生関わることがない人たちに対するのと同じように関心があります。関心というよりも、どうしたらどうできるか、というような、漠然とした、それでいて強い気持ち、というより意識です。ごめんなさいね。書くことはどんどん大きくなればいいし、その反対に小さくもなればいい。伸びても縮んでもいい。相反するものが互いに対立し、侵食し合い、とけ合えばいい。男であろうと女であろうと関係がないんだ。直感も論理も要らないんだ。もしそれを届けることができるのなら、それが実際に届かなくてもいい。おれはここにいて、お前もそこにいる。ここで書き、それを誰も読まなくてもいい。漫画ばっか読んでるんじゃないよ。でも、書くことはそんなちいさなことではないから、僕は手を動かし続けるだけだ。
 もしそこに何もないように感じるのなら、それを書けばいい。もし書く手がないのなら、声を使えばいい。 音声入力をすれば良い。ほらこうやってね。話すように書く。書くように話す。そこに読むことを混ぜる。そこに異物を混ぜる。不安になったら僕に電話しな。僕はいつでもあなたにヒントを示すことができるから。もし、その必要がないのなら、読みな。書きな。止まりそうになるのなら、止まることも含めな。じっと手を見ることも大事だけど、その手を切断することも大事なのは、前述した通り。今から打ち間違え魔物もそのまま描いていくよ。自動変換に変換を任せるよ。本棚が
あるというのは大事だな。
目を使わない
写真も
大事だけれど、巨大な目について
考えることも大事だな。打ち間違えることが怖くなって、って、そんなこともないのdケアでれど、もう書き続けることを止めることがkできないな。こやって書くことは、今日だけdにしような。後300いじくらい書かなきゃいけないけど、あ、遅れて表示される、入力される
文字の
kがめんを見るのではなく、目を瞑って
書けば、
dそどんなふうに
文字がああらわれているかは
わからないけれど、
打つことは早くなる。
いろんなことを
、いろんな間違えるをすることが大事だ。雨が降ってきた。
それも
台紙大事だ。ラインの着信音が聞こえた。
それも
大事だ。
明日は台風らしい。
それそんなことを
描いたら
日記になってしまう。
僕は
日記に興味はないと言いながらkにっきもかいているけれど。
書くことが、その指先だけを考えることになってくるのは、
この
文字入力の遅れることがd原因だな。この書き方は今回だけにするが、
それってさっきも書いたかな。
僕が今考えているのは、
書かずにおいておくということだ。書かなければ無残らない
ということを、どうにかし覆したい
らしい。
21:37

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