見出し画像

2022/08/11

 全く虚無の地点で。気力が無化される地点で。いつまで書くことができるだろう。何も書けないという地点から始めること。どこまで行けるか。
 今何を考えている?
 なぜ、今何も考えていないのかについて考えている。前までは、僕の中にいる芸術家たちが勝手にしゃべって、それが調和的な交響として、僕に示唆を与えてくれた。今の僕は、そのエネルギーもないし、やりたいこともないし、でも「やりたくない時にもやるんだよ」って僕は言っていたから、それを言い続けていたからそれをあなたがしなくても、僕はするよ。
 四千字原稿という呼び方をやめてもいい。四十万字原稿、っていうのはどうかな。百日かかるね。十万字原稿だと二十五日だ。それで行こうか。
 字数をいちいち言わなくてもいいね。原稿を二十五日間書く。いや、四千字原稿を二十五日間書く。まあ、言い方はどうでもいい。問題は、昨日書いたものと今日書いたものと明日書くものをつなげるということだ。これまでは一本ずつ区切られていた。接続というものについて考えなければならない。

 手帳に書いたことを箇条書きにして、それに文章を添えてみよう

・直感に対する抵抗。(これは、もう僕の中で了解済みだが、直感とは経験なので(と書いてみて、本当に直感は経験だけに依拠しているのかというと違うだろう。直感によって、経験していないものを作ることができるのだから。つまりここで、僕は直感について考えたいと思っているらしい)、それに抵抗することが、創造となるのではないか。(かっこの中でその前までのものを否定して、かっこを閉じてから、閉じる前の考えを引き続き書くというのも変だね。問題は先へ行くことではなく、先へ行ってから後ろへ戻ることにも、思考の渦というものがあるということだ)

・俳優または有名人の出現について。(ここでは固有点についての考えの延長を考えようとしている。固有点についてはもう書いただろうか。しかし分かりきっていることを書くことで何が起こるだろう。形式的にものを書くことに似て、息苦しい。では別のアプローチで書くことは可能であるか。例えば、この目の前にあるパソコンの固有点について。パソコンでなくていい、モノの固有点について。それがアニミズムへとつながるかもしれない。しかし僕の身体は自らの固有点を見ることから始まる。モノは身体の後からついてくるかのように僕は捉えている。しかし「風景から思考を立ち上げる」ということが、その捉えを崩す。モノはまだ道具としてそこにあるが、風景は道具ではない。一本の木はどうだろう。一本の木は道具ではない。小さな細い木は道具になるかもしれないが、大木は風景であり、風景の中にあるモノだ。もしお前が風景の中にいて、その木を前にしたとしたら、お前はどこに立ちたいか。それが僕がここにいるということにつながる、そのための立脚点を、自然の中に見出すことは可能であるか? 写真を家の中で撮ることと外で撮ることは決定的に違う。N地区で撮ることとK地区で撮ることも違う。K地区はひらかれている。窓も多いし、その窓が開いていることも多い。田中泯が言っていた、鏡は苦手だ、なぜなら鏡によって主体性が奪われるから、ということ。「やっぱり、わたくしに「主体性」はないですね」と言った吉増剛造のこと。俳優または有名人、田中泯でもいいし吉増剛造でもいい、いいや良くない、彼らは創造をするから。じゃあ俳優や有名人は創造をしないのか。俳優や有名人は創造よりも、立脚点における世界との関わりが、特異である、ということが、何よりも重要であるように思う。シェイクスピアは残っても、その劇を演じた人たちは残らない。もしかすると演出家さえ、残ることは少ないだろう。なぜなら彼らが見るのは創造というよりも俳優たちの立脚点としての固有点の連関であるからだ。網目の広がりであるからだ。モノはそこで息をしているか。ああ、手製原稿は息をしている。本も息をしている(だから図書館の窒息させられた本たちは苦手なんだ。ここには大きな問題がある。そのことはまた後で書こう)。しかしコップは?テレビは?パソコンは? 違う、電子機器はまた特殊である。しかし特殊を考えることができなければ、つまり雑音を考えることができなければそれは批評にならない。え、お前はここで批評をやろうとしているのか。モノが生きていると言うとき、それに生命を与えているのは固有点を持った私なのではないか。私がいないとき、そのモノはどうなるのか。お前の部屋をここで見せたい。お前の言う固有点は、普通に言って主体性のことだろう。お前の部屋は主体性がある、と言うことができるだろう。全ての配置はお前によって統率され、それがどのような効果をもたらすかを、お前は知っている。しかしだよ、お前は同時に受動的であるよね。常に受け身であるよね。固有点って言っていることも、その環境に合わせるってことだよね。その環境の中で、自分の場所を見つけるってことだよね。
 違うよ。それが、固有点の移動、と私が名付けたものによって、解消される。つまり、固有点にい続けることは私にはできない。常に、間違う必要があるんだ。ここから三十センチ右斜め上に立ちたいと思ったのなら、そこからさらに右へ五十センチのところに立ってみるといい。それが間違いだ。間違いによって、場所あるいは環境に対する固有点の正しさが変わる。そう、ここで、正しさの中に間違いがあることで、正しさは正しさになるのだ、という名言みたいな言葉が出てくるんだよ。
 お前は一体何が言いたいんだ。
 今日は吉増剛造の『詩とは何か』をずっと読んでいた。この本は面白いよ。何度も読み返すことになるだろう。サイ・トゥオンブリーと言う画家の「線を描いていくときに、到達しない方角に向かって手を動かしていく」「すなわち、自然に動いてしまう手の動きに、その刹那刹那に抑制をかける。もっとも単純にその動きを否定するんじゃなくて、脇道の、道の未達成とか未接触みたいなところへ向かって手を伸ばしていくというか、表現の痕跡を伸ばしていく」と言う言葉。直感とは、既知のものを捉えることではなく、未知のものを捉えようとすることだ。そして捉えるというような、考えるという領域にあるのではなく、手を動かすこと、止まりながらとどまりながらも動かし、動かしつづけ、その速さの中に遅さを、遅さの中に速さを、って、その意味はまだよくわかってないけど、作り続けることだ。

・インクがしみて、原稿に長い間ペン先をつけていられない。(じわじわじわじわと滲みていくインク。それこそが書くことであると思ったのだった)

・鏡について。反射。

・息苦しさについて。例えば、一冊の本だけを読み続けることの息苦しさ。

・固有点と対固有点、そしてそこへ加わる異物としての世界の雑音。

・写真・映像と、文章との固有点における違い。

・ここにいるということから始まり、誰かがいるということにつながり、その場所があると言うことにひとまず帰着する。

・記憶障害の当事者になること。当事者について。

 反射するもの、ガラスや鏡、それに限らない光を反射するもの、水や光沢のあるもの、それを撮ることばかりしてきて、それが多重露光につながっていき、また一枚撮りの反射シリーズ写真に戻り、戻ると書いたが何か先へ向かっていて、こういう変化がない人は、一体どうするのでしょうね。作ることにおいて、変化がない人は、どうするのでしょうね。変化とはなんだろう? 誰もが量をやればいいとは思っているが、noteやツイッターで他の人の文章や絵を見ていて、なんだかずっと変わらない人がいるけれど、ツボを押すように、その人の固着した部分を突くことができたら、その人は変わるのだろうか。変わる必要がない、社会は変わり続ける人たちでできていない。変わらない人によって社会は成り立っている。病者たちがより苦しみ、より大変に生きている、と断言することはできない。社会人たちもしっかり生きているよ。でも僕はそのどちらにも属そうと思っていない。保坂和志が「創作とは、教室的な縛りの外に出て、自分だけの価値を創ることなのに、みんな、相変わらず教室の中で褒められる気持ちで創作をしている」とツイートしていたが、その価値もそうだし、自分の身体そのものを作り変えること、身体を作り変えることで場所の、世界の、知人友人に限らない人々の、地点を変えることになる。フィリップ・K・ディックを読まなければならないな。
 読みたいものがたくさんあって、でも読む体力がないとか言わないで、いろいろ試してみることだな。

 覚醒状態で書いているのは神のような気になって面白いが、やっぱりそれは内側を見過ぎていて、もしかすると今の虚無感は、と言っても、書き始めの時と今とでは、状態は違っていて、虚無感をほとんど感じていないかのようであるが、この虚無(だったもの)は、外を向こうとし、向いたことに関わっているのだろう。だから今僕は自分自身の顔や姿を撮ることがつまらなく(つまり自分で自分を見るということがつまらない)、手や脚を撮ることが面白い(手や脚は自分で見るというよりも人に見られるということが含まれている)のだろう。反射、あるいは鏡というのは、内側を見ることであり、そこを抜けきって初めて、外を撮ることができるし、書くことができる。だからKが言った、覚醒という言葉の先のなさ、というのは、外へ向いていないということを含んでいる。だが、ここで書いたように、覚醒ではなく内側を見ることと外を見ることは、おそらく往復する。そこにおいてこそ変化があるのだとしたら、変化のない人というのは、内側を見過ぎているか外側を見過ぎているかそのどちらも見ることができていないかであるということだから、それに合わせた指摘をすれば、変わるのかもしれない。それを誰かにではなく、自分自身にすること。中井久夫の自極と他極の図が、思い出される。そして、田村隆一を吉本隆明が、自分の外にあるものと内側にあるものを完全に結びつけて表現した、と評したという言葉。「本当に、空を飛ぶ鳥を心の中に入れてしまっているのだ。」

 断片を使って、文章を書くことで、抜け出ることができる時がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?