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2022/10/20「書けないことについて」

 書く手、はあるけれど、小学生の時の卒業式の練習中に膝をキーボードに見立てて無意味な文字の連なりを打ち込んでいたときみたいに、いくらでも書くことができるそれは、ただ、手、が動いているだけで、それが無意識から言葉を引っ張ることはあっても、書く意識、はそこにはない。
 あなたは誰よりも書いている。しかしそれは、どこにいても同じ踊りをする自由分裂踊りの一種であり、病者のアート、すなわち外へ繋がることが決してない自己完結された精神の牢獄探求である。それをお前はもう、書く、とは言わない。書くことは、外と内側を繋ぐ結び目として、そしてそのほどきとしてあるものでなければならないから。
 書けない、と私は言う。私はもう見るものにも感じることにもすべてにもやがかかっていて、体も半透明になっている。書こうとしても、文字の制御が機能しない。文字も、制御の力も、私がいない今、ないに等しいのだ。そこから私は、現代に生きるほとんどすべての人が書くことはできていないのだと、自らの状態を招いている原因を、個人的なものから全体的なものへと拡大する。原因は、SNS的なものにある。何もかもが取り替えがきく仮想世界を現実とすることによって、本当の生の現実の肉脈を止められてしまった。そのために血を垂らすこともできなくなった私たちは、瞬間的快楽を増幅させるために、論理を第一とし、書くことをゲームの勝利のための武器とする。わたしたちはどこにでもペヤング獄激辛味的な瞬間的過剰性を見出すことができるだろう。それは私たちが薄れているからであり、極限すれば、書けない、からだ。
 それでもあなたは書くことができる。なぜならあなたには、あなたがいることを知る人がいて、そのひとがこう言うからだ。
「私は外の光が見える。もう少しで手が届く。ここは暗く、それに慣れた私たちはそれを暗いとすら思わないけれど、あなたはそれを暗いと言い、私の声に耳をすませるから。私は外の光が見える。もう少しで手が届くよ。それがあなたに伝わっていることを、私は知っているし、その手は、あなたの手でもあるのだから」

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