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湖の上の女


 目をつむっても開けていても何も見えない。目の前にあるものは何色ですかと言われれば答えられる、どんな形かも言える、いつかの記憶と結びつくこともあるだろう。けれど私には何も見えない。

 見る、ということが、あなたには普通とは違う意味を含むことがあるのですね。

 あらゆるものは二重になっていると考えることができるでしょう。私は二重で、あなたも二重、この場所も二重、私とあなたの関係も二重。

 二重が繋がることで、その重なりは透き通る。

 彼女は湖の上を歩いている。裸足で、水の上には粘土のように足跡がつく。じわじわと戻る。彼女は裸である。左腕が肘のところで切断されていて、断面は赤いようであるが、血は出ていない。欠落は社会との繋がりになる。澄んだ歩き方だ、と湖のそばの小屋の窓から老人が見ている。持つところが油でべっとりとした双眼鏡を使って、湖の女の、主に脚を見ている。動きの中にこそ身体は立ち上がる。女の脚が止まる。老人は双眼鏡を女の顔の方へ持っていく。視線は陰部や胸を通過するが、老人の目には止まらない。陰部や胸が意味するのは、違いはあれどそのものとしては同じでしかない女性性である。老人は顔のそれぞれのパーツを瞬時に切り替えるように見る。これもまた人の持つ差異でしかない。しかしその差異に私たちは特別なものを見る、のか。女が口を動かしている。彼女はこう言っている。「時間とは祈り」
 老人にはその動きが読めたのだろうか。言葉とは音声に過ぎないのか。老人の場所から女の場所までは距離がある。老人が(水の上ということを考慮せずに)歩いて向かえば、4分はかかる。その時間を、双眼鏡という道具が超える。しかし、それはレンズを通した女でしかない。そこに本当の女はいない、か? 夜空の星々は、本当の姿であると言えるか。
 老人に、女の言葉は伝わらなかったのか。「時間とは祈り」とは、どういう意味なのか。 女はまた歩き始める。さっきまでなかったはずの腕が、見事にうつくしくそこにある。これはどういう事態だろう。植物のように生えてきたのか。植物はなぜ成長するのか。五十三年前の映像を見て、そこに映っている婦人を、今に照らして、まだ生きているか、死んでいるかと考えるのは、「私」というものを、その名で単純化し過ぎている。五十三年前の私と、五十三年後の私は全く別物だ。容姿が似ていて、記憶が連続性を持っているから、それを同一性とする。論理における一般的な強さとは、鈍さだ。
 女は老人に視線を向ける。しかし老人とは、小屋にいる老人ではなく、湖を中心とした、その正反対の山のふもとの滝を見つめている老人である。手のひらが皺皺であることに、昨晩気づいたのだった。若い頃通っていた滝に、もう一度あたることは可能だろうか、と老人は思った。水は私たちの身体に影響を与える。私たちがそもそも水であるから、神聖な水や、良い気が入った水、というものが生まれうる。神がかった人間の水分は凄まじいものだ。私は凄まじい、と本気で信じることができる者には生気があふれ、目も表情もぎらついている。しかしそこに持続性があるか。そして内容はあるか。
 女はその老人を見ている。小屋にいる老人は、その女を見ている。見るというものは混沌としていて、千人いれば千通りの見るがあり、それが写真によって簡単に結実するようで、そもそも見るは写真のようにはできていない。
 女が女であるとどうしてわかるだろう。見た目が女に見えるからそう書いているが、もしかすると男かも知れず、あるいはどちらの性でもないかもしれない。そこにいる人が、私が知っているものでつくられている、あるいはそのあり方でいると考えることはどういうことか。もしかすると彼女は、女でも男でもなく、人でも機械でもなく、わからないもの、かもしれない。生の皮を剥ぐとはそういうことだ。人間を解剖したい欲求は、記号をめくることである。リストカットの画像を見ると、情報を通り越して体がぶわあっとなる。犯罪や殺戮は、情報の皮を剥ぐことだ。
 それ、は、うっととまり、手、を動かし、手といっしょに腕はぶるんと震え、肘は角度を内側に閉じ、二の腕はすっと締まった。

(未完)

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