見出し画像

2022/10/05

(意味のあることを書かない)

 ずっと昔に、と過去を振り返ってみても、私には過去というものがわからないから、その意味で今この瞬間に生きているといえる。今この瞬間とは、例えば誰かを殺してしまった瞬間(私にはその体験がある)、自分が死にそうになっている瞬間(その経験は誰にでもあるだろう)。そして瞬間は分散する。たっぷりの水がミストになって広がる様を思い浮かべるといい。森は広がる、植物やきのこ類が水分をたっぷりと吸う。私たちの動きにはそもそも、水が必要である。火というものは人間の中に喩えとして生きているに過ぎない。
 彼らが近親者の死を語ったからと言って、私たちは自らの死を語る道筋を作らない。言葉というものは、同じように使えてしまうから、どんな話に対しても、ほぼ無限に自由に自分が語りたいことを接合することができる。しかしそれは間違っている。あなたたちの言葉は、それぞれ全く違ったふうにできている。その違いを、私たちは自らが話すよりも前に、聞こうとする努力をしなければならない。
 もしそこに椅子があり、あなたに座る余裕があるのなら、どのように座ることができるかをまず考えてみて欲しい。私は一人だから、そしてこの部屋にいる私も、一人だから、一人ではないとあなたが思うとしたら、それは信じることによるもので、信じる力を失ったとき、やはりあなたは一人だ。あなたはその椅子にどんな風に座るだろう?
 しかしその椅子には一冊の本が置いてある。それは橙色の装丁の『ファン・ゴッホの手紙』か? それともあなたが読み途中で止まったままの伊藤亜紗『記憶する体』か? 吉増剛造『火の刺繍』? 横尾忠則『原郷の森』? 違うそれは   だ。
 ああ、私たちは空白というものを考えることができない。私たちは改行については考える。しかし空白は、そもそも存在することが難しい。君は空白を見たことがあるか。空白があるというのは、そこにそれがあることを信じることだ。
 さあ、思考が立ち止まろうとしている。そのまま三十年止まってしまうこともあるのだよ。死ぬ直前まで止まって、死ぬ瞬間に気づくということもあるのだよ。それでも君はそれを放置するの? 書くことは自らを立ち上がらせる。なぜなら書くことは絶えず自らに気づくことであり、気づくとき私は二人かそれ以上になり、気づく私は外に向かわせる力を持つからだ。
 私は何度も同じことを書いているか? ずっと同じことを書くことは、私たちにはできないはずだ。Kが書いた文字の物質性のイメージは、文字が肉文字でそれが腕を作り上げ、その肉文字の腕がおぞましくぞわぞわぶわぶわと動き、A氏を殴り殺す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?