失礼考
多様性が認められる世の中になってくると、どうしても世界は複雑になります。
あるところの常識が別の場所の非常識であったりします。
だからお互い知らず知らず、誰かに失礼な態度をとられたり、あるいは自分が誰かに失礼な態度をとってしまったりと、そんな場面は多くなったように思います。
そんな時に思うのは「相手の失礼さは自分の責任ではない」ということです。
失礼な態度をとる人が目の前に現れたとして、それは別に自分の責任ではありません。
もちろん自分が呼んだとか、引力とか縁とか運命があるとか、そんなことも考えることができます。
それでもやっぱり相手の失礼さは自分のものではありません。
失礼の結果を怒られないことはないと思いますが、失礼を気に病む資格があるとすれば、それを働いた本人だけのように思います。
平均化訓練に置き換えて考えてみると、ある人が気に病むことがあるとしても、それはその人が抱えるものであって、他の誰も代わりに気に病むことはできないということになるかと思います。
僕の課題は他の誰にも解決できないし、僕も誰かの課題に踏み込むことはできません。
前向きな関係が築けていれば、課題を分かち合うことはできるかもしれないとも思います。
それでもなお、人には誰にも踏み込めない部分はあると感じます。
ならば平均化訓練は孤独なものなのか。
それが意外とそうでもないように思います。
体操において孤独なのは皆同じであって、そこはまったくフラットだなと思うからです。
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