心はいまだ 越せず
いまだに夢に見る場所と、人がいる。
もう数年は訪れてもいないし会ってもいない。そろそろ「数年」とは呼べなくなる。もちろん連絡も取っていない。最後に会ったのが数年前だったし、最後に別れた時もあんな別れ方をしたので、おそらくこれからも会うことはないのだろう。
ひょっとしたらもう一生会うことはないのかもなあ、と思う。
そうやって「二度と会わない」つもりで距離を取った人たちが、僕にはそれなりの数で、いる。
その理由はおそらく三つだ。
僕が冷たい人間だから、ということと、僕が器用な人間ではない、ということ。
それと、僕がその人にとって有益な人間ではなかった、ということ。
理由はこのどれかか、あるいはこれらの全部だ。
そういう夢を見て起きた時は、しばらくは「現在地」と「現在」に戻ってくることに時間がかかる。たいていは真夜中だったり明け方だったり夕方だったりするが、数年以上もの時間を数分で戻ってくるのに、テレビをつけたり、iPhoneでTwitterのタイムラインを追ったりヤフーニュースを見たりして、浮力とも引力ともつかない時間の力に引っ張られて、ようやく「今とここ」に帰還できる。
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エコーズ、という、もうかなり昔に解散したバンドの曲に、「東京」という曲がある。
そのバンドのボーカルは辻仁成という人だったから、辻仁成という人のことはある程度知っている人が多いと思う。
そのエコーズの最後のアルバム「EGGS」の中に収められている最後の曲が、「東京」という曲だ。
交際相手が変わるごとに引っ越しをする男の曲だ。
「別れるたび 部屋を変えたのに 心はいまだ 越せず」
歌詞の一部を引用すると、まさにこの一行に集約される。
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その人の声や言葉、その状況などはつぶさに思い出せるのに、不思議と、顔だけがあまり思い出せない。これはいつもそうだ。
僕は人を認識するときに、特に異性などは間違いなく真っ先に顔で判別し選別し淘汰するのに、ひとたびある種の心の中の深いところに入ってしまうと、もう顔がぼんやりとしか思い浮かばない。
電話に出るときの声が意外に低い声だったとか、左腕にしている時計が意外と大人っぽかったとか、どんな咳をするとか。困ったときにどんな表情をするとか。エレベーターで人が出入りする時、扉を押さえる所作とボタンさばきが早かった、とか。
声や話し方、気配やたたずまい、そんなことばかり覚えている。
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インターネットという便利なものができて、今やgoogleやfacebookがあっという間に個人情報を収集して、人名で検索すると、ある程度社会的あるいはネットに関わる生き方をしている人のことは、どこにいても知ることができるようになった。
ほとんど思い入れもない、その当時の交友関係の一人をfacebookで検索すると、あっという間にその頃の人間関係の人脈がひとつながり見つかった。
しかし、未だに夢にみるその人の名前は、そのつながりのどこにもない。
名字も変わっているのかもしれない、と思って下の名前を注意深く見てみるが、やはりどこにもいない。
ただ単にfacebookをやっていないか、その人も僕と同じようにその人間関係から離れたのかもしれない。
facebookなどは同窓会名簿と同じで、粘つくだけで面倒なだけなので、「名前だけ存在を表明しておいてあとはまったく使わない」ようにしている。
そう僕がそう思ったように、facebookなどは「使わないのが賢明」なので、それはすごく正しいことだし、こちらも仮に名前を見つけたところでどのボタンもクリックするつもりはない。
ただ、時々探してしまうことを止められない自分がいる。
テレビのニュースで、殺人事件の加害者と被害者、交通事故の死亡者、全焼した住宅の死傷者……、当時住んでいたそのあたりで起きた事件や事故を見るたび、その名前を探している自分がいる。
もうよっぽどのことがない限り訪れることもない場所なので、今となっては別世界のことのように思えるし、ときに現実ですらないようにも思えてしまう。
「アバター」という、現実ともうひとつの世界を行き来する映画があったが、それにちょっと似ている。
もしかして、全部まぼろしだったんじゃないか、と時々思う。
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たぶん、こうやって時間が経ってしまうと、もはやその記憶の夢は、もはや誰も訪れていない「時間の廃墟」であるのだと思う。
おそらく僕は、そういう「時間の廃墟」を次々と作り、その都度忘れて、自分でも昔のはろくに思い出さないくせに、そのくせ「最後に住んでいた時間の廃墟」を時々訪れるのだと思う。
#引っ越し
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