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給水塔のある街

ふと我に返る。あれ、おれは誰で、何をしていたんだっけ・・・たまにこうやって意識が完全に飛んでいることがある。いや、寝ていただけかもしれない。
最近は毎日が凪いでいるように感じる。決まった時間に起きて定刻で働いてまた決まった時間に寝る、みたいなルーティンワークとはまた違う、何もすることがないからこその、部屋や街を薄ら雲が覆って寒くも暑くもないのにどこか居心地が悪い感じ。実際のところはやるべきこともやりたいことも沢山あるのだが、やっぱりなんとなく無気力でやる気が起きない。そうして結局何もしないまま夜が更けて朝になり、寝て起きたら窓から斜陽が差し込んでいる。

本当に何もしていないと気が滅入るから散歩をする。ピクミンブルームというゲームを始めてみた。数年前に社会現象を巻き起こしたポケモンGOと同じ原理で、スマートフォンの位置情報を使って自分が歩いた道、歩数などを記録してピクミンを育てたり花を植えたりすることができる。これが散歩の動機に丁度良くてすっかりハマってしまい、3月4月は暇さえあれば当てもなくそこらへんを歩いていた。

歩きながら歌詞や次の曲の構想を練ろうとするのだが思ってるほど考え事に集中できない。初めて歩く道でなんだか素敵な弁当屋を見つけたり全く看板が読めない寿司屋があったり民家の前で急にネギの無人販売があったり、楽しすぎてしまう。結局歌詞を考えるのは諦めてイヤホンで聴こうと思っていた音楽を聴く。音楽を聴くには散歩は最適だった。
こうして給水塔や温室といった曲は一向に歌詞がつかないまま数か月熟成される(腐る寸前だが)こととなった。


給水塔はその名の通り多くの民家に安定した水圧で水を届けるために聳え立つ塔であり、日本では戦後から団地や工場などに多く建てられてきた。近年では技術の進歩に伴い数が減っているが未だにモニュメントやランドマークとして残されているケースもある。

去年の夏ごろに何故か電車で多摩のあたりまで行ったのだが、その時ふいに住宅地の真ん中にスラっと立つ異質な塔を見つけ、気になって地図アプリで調べたところ、それが給水塔であることが分かった。(おそらく)給水塔の無かった平成の新潟市で生まれ育った私にとって、給水塔という存在をちゃんと認識したのはそれが初めてだったように思う。ノスタルジーの文脈で語られることの多い存在であるが、私の目には新しく映り、大いに好奇心を掻き立てられた。
それから給水塔が気になって近所に無いか調べてみたのだが、電車を乗り継いでそこから歩いて何キロ……みたいな場所にしか無く、完全に諦めた訳ではないが何もしないままそのことを暫く忘れていた。

それから冬が来て年が明けた、桜の気配をも感じる3月の中頃、ピクミンを育てたい一心でひたすら東へ歩いていた私とそれは運命的な邂逅を果たすこととなる。細い道を抜けた先、大通りの向こう側にまるでキャトルミューティレーションをしている途中みたいな円盤が住宅地の真上に見えた。もしやと思って信号を走って渡るとそれは集合住宅の後ろに隠れ、少し横にずれた先で建物の隙間からその全貌が見えた。確かに給水塔だ。google mapに表示されていない給水塔が徒歩圏内にあったのだ。


給水塔は団地やその周囲の街一帯を温かく見下ろすように、静かに立っている。この街で暮らす人たちはその陰に入ったり出たりしながら学校に行ったり仕事に行ったりしている。近くのセブンイレブンで学生服を着たグループがたむろしていた。そんな光景を横目に音楽を聴きながら、自分はよそ者だなと思った。
ピクミンブルームの中では自分が今までに歩いた場所が記録されて靄がかった地図がすこしずつ晴れていく。しかし現実には散歩をして知らない場所を歩くたびに、自分の領域が広がるどころか、自分の外にある世界の大きさを知ることになる。私(たち)はまだ何も知らずに生きているんだ。