JBBY新・編集者講座第5期これからの児童書を支える力とは?筒井大介「絵本づくりの極意とは?」20200123

※現場で取ったメモです。意訳・要約・省略あります。その点留意してお読みください


■自己紹介


フリーランスで本作りをしています。イーストプレスに移ってその後フリーです。いろんな出版社に企画を持ち込んで絵本を作っています。今日はなぜかお声がけいただきまして。絵本づくりの極意とは? って書いてるんですけど今日極意が聴けると思って聴けるヒト手を挙げてもらっていいですか? 残念ながら教えられないですね。できれば教えてほしいですけど。ほんとはオファーいただいて考えたときに、今までの自分がつくってきた絵本のなかからいくつか持ってきて、こんな苦労があったんですよみたいな話しようかと思ってたんですけど、考えてても盛り上がらなくて。そういう機会あるんですけど。今日はやめてしまって。たった今これから絵本を作るにあたって何を考えればいいのか、どうしたらいいんだろうというのをずっと考えてるんですけど、それをお話したいなと。
答えめいたものは今日はないので申し訳ないなと。

■絵本は解放

具体的な本をいろいろ持ってきてるんですけど、その前にどういう絵本を作りたいのかというと、お配りした資料というか雑文にモチベーションが書いてあるのでそれを合わせてお話したい。自分が作るものは、そもそもの大前提として絵本て色々読まれ方使われ方をすると思うんですけど、一貫して解放だと思っています。子どもに何かを教えたり、絵本の使い方として子どものなんらかの衝動、欲望を抑える、制限する方向じゃなくてどう外して肯定して解き放つか。そういう媒体であって欲しいと想っています。なんでかというと僕らここに集まって静かに聞いてくれてますけどほんまはよくわかんない衝動とか矛盾とかに満ちた存在の人たちなんですよね僕も含めて。反社会的な衝動も持っているかもしれない。僕らはそれを押さえながら生きているので、どこかで帳尻を合わせないと苦しくなってしまう。それを解放するもののひとつが絵本だと。
自分は絵本にそういうものだとして出会ったわけです。教育画劇に入るにあたって絵本のこと何も知らなかったんです。追い詰められて朝日新聞の求人記事を見たら書いてあって受けたら受かってしまったんです。当時はあんまり絵本おもしろくないなと。なんでおもしろくないかというか窮屈、あるべき良い子像をさまざまな角度と切り口で提示してるんじゃないかと。当時はより気持ちもとんがっていたので、そう感じて。嫌やなと。そこで長新太の絵本に出会ったらわけわかんないパワーに満ちた、子どもが描いたみたいな絵だし、これはすごい気持ちいいな、胸が空くような思いがした。そこに影響を受けているわけです。
読者対象の話とかなるんですけど、「大人向けですよね?」って言われて「え?」と思うんですよね。「うるせー!」と思ってますけど。大人向け、子ども向けというのを掘ると時間が一時間半くらいかかりますけど、アイデアや何がおもしろいという気持ち、そのメカニズムがシンプルに作られていれば絵とかはそんなに関係ない。そこを押さえさえすればむしろいい。僕は基本的にそう思ってます。言われるとここ数年、思い至ったことですが、子どものころの自分みたいな人たちから上は問わない。その先言ったような息苦しさ、窮屈さを僕自身、子どものころからずっと感じていた。親、厳しいし。あんまり会社や学校でも馴染めない。毎日なんか嫌やなと。はっきりした言葉は持っていないですけどそんな気がしていたんです。そんな気持ちを抱えている子どもたちいっぱいいるだろうと。自分としてはスクールカーストという言葉がありますけど、そういう状態は当時もあって。だから自分はスクールカーストの上のひと、明るくて運動ができる人ではなかったのでつらい状況ですよね。今はより極端になってるんじゃないかなと思うので、そういう子どもたちに読んでほしいなと。
解放を感じてもらうために色んなやり方をしてきましたけど、基本的には作家の内なる衝動を刺激して刺激して爆発させる。そういうやり方をしてきました。ミロコマチコさんの『オレときいろ』みたいな絵本は「もっといけるやろ」と言い続けた。「こんなもんやないやろ」と。アイデア面だったり作画面で120%以上のものを出してもらう。

■東日本大震災と絵本

今ね、それだけじゃ足りないなと。これから絵本をつくっていくには。僕がずっと考えているのは、生きづらさについて。2011年3月11日の震災以降特に生きづらい世の中。いろんな状況があると思うけど同調圧力。自分もこうしなきゃいけない、みんながしてるから。そういう傾向がどんどん強まっていって、そうじゃない人っていっぱいいるはずだけど追いやられている気がして。震災の存在は大きい。考えることがすごく増えてしまって今に至る。震災と絵本は密接に関わっている。表現する人の気持ちにも関わっている。だから表現が変わる。それを考えないと俺はこのさき絵本作れないなと。
で、これをつくった。『あの日からの或る日の絵とことば』という本。311にまつわること。オファーの仕方はこの本読んでいただくとまえがき、企画趣意書。オファー段階で付けてました。作家になんて言ったかというと、311について個人的であるほどいいです。こんな話してもしかたないだろうと思うようなことを、と。原発反対とか、僕も東中野のポレポレで展示をやったりしましたけど、それは大事なことですけど、大きなスローガンですよね。正しいことだけど、震災にまつわるもっと個人的な気持ちや落ち込み、逡巡を話さずに来ているわけです。311の絵本の変化をそう思っていたので、その変化について考えてみたいのと、変化があるのは人の心に影響があったから表現も変わったんだろうと。みんなに個人的なことを書いてもらおうと。当時の気持ちを絵と言葉にしてもらった。この本にはあの日以降の僕らがこんなことを感じてこんな風に考えて生きていたということのごくごく一部ではあるけどその感覚が、この作家たちのそれ以降つくるものに明確なかたちでないにしても反映されているだろうと考えています。
2010年代の絵本を考えるときに資料的な意味でも、震災は抜いて語れないので、重要な資料になったんじゃないかと。ほんとにね、気持ちを赤裸々に書いている人から、鈴木光司さんなんかはテキストと絵のパートがあって、両方絵でNO NUKESと。それに尽きるからさ、と言われましたけど、さまざまです。たしかにこの気分わかるとか、日々年々変わっていくのでこの感じわかるとか、この前はピンとこなかったけど今はわかるとか、これをやった上で、震災以降の絵本。
震災と関係なさそうなものだけど関わっている絵本をどういうふうに作ったか。どういう絵本かを見ていきたいと思います。

■町田尚子『ネコヅメのよる』

町田さんブレイクして絵本屋さん大賞の1位になってましたけど。全然読んでいただいたらわかるように猫がある晩出かけていってうじゃうじゃ猫がやってきて空に現れるのが猫の爪でしたというそれだけの話。震災関係ない。でもまず企画の成り立ちから言うと今でこそ猫の人ですけどそれまで猫の人じゃないんですよ。こわい絵本。『いるのいないの』とかね。あれで人気が出た。むりやり猫いっぱい描いてるんですよね、昔の本観ると。いろんな猫。ある意味猫絵本と言ってもいいくらい。町田さんこんなにむりやり猫入れ込むんやったらそんなに描きたいだったら猫の絵本つくったらいいんじゃないですかと。どういう風につくりましょうか、と。ネコヅメのよるってタイトルはだいぶあとについて、仮題は「しらきはね」って。ミロコマチコさんの描いた鉄道絵本の名作にあやかりたい気持ちがあって。で、猫絵本ていっぱいありますけど、基本的なつくりかたは猫あるあるなんですよね。それだけだと単に猫のスケッチなんですよね。それをおくはらゆめさんの『まんまるがかり』だとそういう要素を抽出してつくっている。最初はこれも至るところで寝ている猫を描くみたいなところからスタートして今に至ったんですがその過程に震災が関係していて。月を見るというアイデアは、町田さんは飯立村にボランティアに行ったことがあって、ペットが置いて行かれたと。犬猫その他にごはんをあげについていった。飯立村は人がいない草っ原で放射能は目に見えないからきれいで、月がきれいで「猫の爪みたいだね」っていっしょにいった人が言っていた。それがネコヅメのよるのアイデアになった。この空が飯立村の空とは言っていないですけど。飯立村のそのときの空、町田さんがそのとき見たのは放射能に汚染されているけど絵本に描かれている空には放射能はない。知ってないと感じないことですけど、表現がなしうるひとつのあえて最近むかし使ってなかった「希望」と使うんですけど、ありうる希望の表現のひとつかなと。町田さんはそんなこと考えてないと思いますけど。
町田さんの作家としての強みは、リアルな絵だけじゃなくて、この絵本みてもわかりますけど映像的な演出するんですよね。構図が巧みで、猫の視点を使ったり俯瞰視点を使ったり。映画的な演出がうまい。現代的な作家。

■石黒亜矢子『えとえとがっせん』

震災がらみでもないけど、石黒さんも震災後にブレイクした作家。岩崎書店の怪談絵本だったり、こわい、つよいという表現が急激に好まれるようになったと思っていて。内容これもさっきみたいに地震関係ないです。室町時代の絵巻を元ネタにしています。依頼の時点でそういう依頼にしています。依頼したのは2014年くらいだったと思うんですけど、石黒さんは引っ張りだこになりつつあって、なんにもなしに「やりましょう」では進まないだろうなと。なんか企画を提案しようと。で、ダメでも仮に「そういうんじゃないけどこういうのだったらできる」と言ってくれるかもしれないから。石黒さんの一番の特徴は伝統のアップデートだと思っていて。浮世絵とか絵巻物を現代的なセンスで描く。たんに今の人が昔みたいなものをうまく描いてもアップデートではない。石黒さんの見てきたマンガ、アニメなどのエッセンスとともに描いているのでアップデートされている。であれば、ベタに絵巻物をリニューアルしませんかと。十二支に狸とか獣たちが戦いを挑んで元のやつは負けるんですね。こんなんどうですかとメールしたら、実は十二支って好きなモチーフだしこれからも描きたいと思っていたんですよ。そういう返事が来たらしめたもので、内容は大幅に変えて結末も狸たちが勝つようにしたいと思ったのでそう決めて。楽しく悪ふざけしながら作った話です。あとは描いてもらうだけ。けっこうスムーズに作りましたけど。
これは読み聞かせしたくない。ラップしてるから。十二支と山の獣たちが。ふざけて思いつきがやっているわけではなくて、元の絵巻物のなかで十二支たちが歌合をするんですね。共通のお題に沿って和歌を披露して判定して優劣を決めるゲームですよね。それが元の話ではかなりあるんです。最初は省いて対決する話にしたんですけど、元のエッセンスを残したいなと思ったときに、いま歌合ってどうやろと思ったときにラップで対決してもらおうかという配慮のもとに入れられた頁なんです。けっこうずさんななんとなく韻踏みましたみたいな僕が一生懸命考えたんですけどねそこの部分は。
僕が石黒さんに対して思っている伝統のアップデートをここでもやっているということですね。
バカバカしい話なんです。でもさっきから生きづらさとか窮屈さと言っていることと関係していて、これは権力をコケにする話なんです。選ばれないやつが選ばれて粋がってるやつに反抗して勝って、最後はお前らが十二支になれって言われるんです。でもそれを断るんですよね。その権力には乗らない。最後、しょうもない…って言っちゃダメですね、新しいグループを立ち上げると。ふざけてますよね。でもそういうことなんですよね。新しいもの、既存のものではないことをね。もともとの権力に乗っからずに自分たちの価値観、権力者の言うことなんかきかんでええんやというのがはからずも出ちゃう。見てそんなこと感じる人もいないですけど、そういう読み方ができてしまう。単に楽しめばいい絵本がそういう意味を持ち得るのはいいことだとは思っていないんですけど。悲しい世の中だなと思っています。

絵本の中であんまり考えてなかった、絵本やりはじめてからしばらくは意識せずやってましたけど、今は子どもの本においてこんな世の中だからこそなんとかして希望を提示しなきゃと思っていて。
簡単な言葉で言うものではないんですけど。ていうのは、絵本において希望のある未来像をイメージしづらい時代になったと思っています。なので、これから絵本を作ると考えたときに生きづらさとそれに対してどういう風に表現していくかを考えざるを得ない。
作家の内なる衝動を爆発させるだけではなくもうひとつの軸がないとだめだなと。それは震災以降ですね。

■こんな子きらいかな

同時に考えて、徐々にかたちにしてきている途中。まだそんなになってないですけど、試みのひとつがこの三冊の小さなシリーズ。岩崎書店から出している『こんな子きらいかな』。これは社会とか地域コミュニティ、なんらかの集団になじめないあぶれてしまうようなそういう子どもたちに向けて、考えなきゃいけないだろうと。最初に言ったような、子どもたちの自分のような子どもたち。昔の自分に向けてみたいな気持ちもあります。

ようやっとこれが本題なんですよ。お手元に「初めて人前で話したこと」というのを配ってるんですけど、崖書房という京都にあったお店が閉まった年に夏葉社から『ガケ書房の頃』という本が出ました。名著なんですけど、最初の方にこの文章が出てくるんです。幼稚園入学から小学校卒業まで人前で全然しゃべらなかったという信じがたいことが書いてあるんです。しゃべらないということもそうですけど、クラスにおける存在の仕方がいいなと。ふつうといういいかたも嫌ですけど、もしかしたらいじめられるかもしれないと思う。小学生だから容赦ないと思うんですけど、そういうことはなかったと。変な奴くらいの認識だった。まわりがよくないと生来の明るさも発揮されないだろうと思いますので、いい空間、いい集団だったんだろうなと。そういうところがうまく絵本になるといいなと思ってやましたさんに依頼した。


■『やましたくんはしゃべらない』

いまだといろいろな解釈があって、しゃべらないと自分で選んでいるのか、ある一定のシチュエーションのときにしゃべれないという場面性緘黙なんじゃないのかと言われましたけど、ゲーム的な感覚だったと。そのアイデアから絵本描いたことない人と絵本作るわけですね。どうやって作ったのか。まず絵本のテキストをつくらないといけない。やることはっきりしてるんです。プロットは苦労しない。小1の入学式のシーンがあって、そこからしゃべらないエピソードをつらねて、初日しゃべらない。こういうキャラクターだと。もとの話見てもらったらわかるけどラジカセで作文のことを流すシーン。クライマックスは卒業式。じゃあそれどういうテキストにするのと。地の文とせりふを組み合わせて進行するとかね。山下くんの心の声を中心にして進めていくと決めました。これね、クラスメイト目線で進めている。高橋さんという女の子の目線で進んでいく。最初は山下くんがおもいきり心の声を述べていました。「自分の名前いわなあかんの」とかね。この調子で進んでいくんですよ。うるさいんですよね。『しゃべらない』という絵本つくってるのにすげえしゃべるんですよ。全部自分の気持ちを事細かに説明するみたいに。それがよくないなと思って。だって『しゃべらない』ことが重要なのに。毎ページ心の声があるとね。自分の気持ちを語ってしまう、説明してしまうので絵本に謎がなくなる。クラスに絶対しゃべらない子がいるというクラスメイトの気持ちも想像してほしいし。あいつなんでしゃべらへんねやろと思いつつ付き合う。登場人物の気持ちや作家が言いたいことをすべて語ってしまうのはよくない。絵本は何回も読まれることを想定するので、一回読んだら答えが書いてあったら一回でいい。抽象化して別のことに作り替えないといけない。じゃあどうしようというときに、やっとクラスメイト目線を使おうと気づいた。そんなに賢くないから一回失敗しないとわかんないんですけど。それで高橋さんというキャラクターをつくりだした。実話をもとにしているだけで創作部分もいろいろある。その代表が高橋さん。
それまでの段階では絵のイメージはそんなになかった。強めの絵、偏屈そうな絵を前面に押し出したいみたいな気持ちが山下さん自体にあったらしいんですけど、高橋さんを出すことによって、高橋さんはどういう人だろうと。周囲の人たちを観察しているかもしれない。そういう想像をするわけです。高橋さん目線で見えている世界に近い絵を描いてくれる人という基準で選んで中田いくみさんという画家に頼んだ。子どもの表現というか繊細に描かれる人なので。いい子そうとかじゃない、ちょっと偽悪的な振る舞いを子どもがすることあると思うんですけど、そういう想像させる印象を表現させるのもうまいなと思っていたので、高橋さんの目を通して子どもたちが織りなす世界を描いてもらいたいと。
そこからは中田いくみさんにラフを描いてもらってスピードアップしていきましたけど、大きな問題があって。テキスト量は少ないですけど構造は複雑で。他の人たちの言葉と高橋さんの声が共存している。それを混在しながら明確に分けたいということですよね。読者が混乱しないように。もっとうまくやりたいなと。フォントを変えるとかはあんまりやりたくない。混在しているのが好きじゃない。絵本の約束事を読者に押しつけている感じがして。あ、じゃあ書き文字だわと決めたわけです。高橋さんは。岩崎書店の娘さん、当時中二だったかな、に書いてもらいました。絶妙な小学生の女の子のような子供っぽさと繊細さと若干の大人っぽさがほしくて相談したら「聞いてみるわ」と言っていくつか五十音全部描いてもらったサンプルを送ってくれてそのなかから選んだ。
普通だったらハブられてしまうかもしれない子がこういう風に存在している世界。世の中がそうなればいいなあと。でもここにそういう世界があったと思った。
この絵本もっとポイントあるのですがこれくらいにしましょうか。
ちなみに山下くんの声は山下さんの汚い字で書いてもらいました。

■いじわるちゃん

これをはじめとして『こんな子きらいかな』は3冊出して。オーソドックスなやつはたんじあきこさんの『いじわるちゃん』。たんじさんはかわいい絵を描かれる方ですけど、しゃべるとダークな面…言い方考えないといけないですけど、かわいらしいだけではない要素を持っている人。その本来もっている作家性がよくあらわれている本だなと。
簡単に言うといじわるな、むちゃくちゃなんですよね。とにかくまわりの触れるものみなというやつですよね。いやがらせをどんどんしていって暮らしている女の子なんですけど、それがいやがらせがこうじておばけにまで見放されて、ぽつんとひとりになって、今まではいじわるしてたんですけど、ベタなつくり方してるんですけど、後半はへこんで帰ってくる。泣いている。いじわるしてた相手みんなに会って、そうするとみんなやさしいんですよね。そしたら急に泣きたくなって、みんなが撫でてくれたりする。読んでる人の気持ちからしたらごめんねみたいなことになると思うんですけど、深呼吸してにやりと笑ったのでした、という終わりかたをする。改心して反省したほうがいいと思う人もいると思いますけど、そこで謝ったらこんなおもんない本はないわけです。最後のためにベタな展開は効果的だなと。絵本の型の典型例を使ったけど最後で裏切る。うまいなあと。
内容的にやっていることで考えることがあるなと。周囲にいじわるしまくっているけど、すごくきらいという評判みたんですけど、いじわるちゃんのいじわる、いじめを肯定してるのかと思う人もいるかもしれないけど、これは本当にいじめだろうかと。いじわるちゃんはたったひとりで多数にいじわるを表現しているわけですよえん。いつもひとりなんですよ。だからそれで考えるのは、いじわるちゃんは、いじわるだからひとりなのか? それとも、なんらかの原因があって孤立して精神的に追い詰められたのかわからないけどいじわるちゃんと言われるような行動を取るようになったのか? それは示されていないですけど、考えたいところです。ものの見方はひとつだけではないですから。実際どういう子なんだろうと。
それから、最後のにやりに触れますけど、別に単にほらちょっと意外やろというどや顔してやっているわけではなくて、絵本とかってすぐにごめんねと言ったりするんですけど、実際どうですかね、われわれ。そんなにすぐ謝りますかね。変わんないですよね、人って。ここにおいてもいじわるちゃんがそういう過程を経てにやりと笑うのは人間やなと思うんですけど。人間、そんなに単純じゃないんですよね。ここにおけるいじわるちゃんもいろんな考えができる。変わってないかもしれないし、変わってないように見えてほんの少し変化の萌芽があるのかもしれないし。理解できない、しないで終わりたいんですよね。他人が何考えてるのかなんていくら親しくてもわからない。絵本作るときに友だち同士わかりあえますとかそういうことをやってもだめとは言えないけど、わかんないけど、まあまあ、いいかと思えるものを作りたい。他人がなんだってわかんない他者として尊重して付き合えばいい。絵本における人間関係はそう描かれるようになるといいなあと。その方が絶対ラクだと思っているので。親友でも恋人でも本心はわからないですから。それは悲しいことではなくて。
今の息苦しいなと思う世の中にあってもいいと思う絵本ですね。

絵本の演出上のポイント。
このぽつんとしたところね。お化けの子すら逃げ出させてひとりになる。ぽつんとしたページ。いじわるちゃんのテンションの高さを表現する前にどう解釈しようともできるページを入れることによって読者はいじわるちゃんのことを考えると思うんですね。
はっきりこれこれを表現しているというのははっきりとはない。でもそれを入れることでただのさわぎまくったうるさい人、ではない何かを想像するかもしれない。キャラクターを立体的に感じてもらうための演出。
余談になりますが、僕、落語が好きで。立川談志が好きだったんですけど、男子の看板ネタに「らくだ」があって。これ、らくだやなと。死んだ男を回想しながら進むんですけど。乱暴なね。後年の談志の演出で、そういえばあいつ雨の日ぽつんとしてたけど何してたかな?と。たんじさんとその話したわけではないですけど。

■ごろう(福永信)『ごろうのおみせ』

これだけ重版していない。でもこれがいちばんいいな、売れてほしいと思ったんですけど「なんだかわけのわからない絵本ですね」とか書かれていて、でしょうね、と。
ごろうってプロフィール見たら分かるんですけど、まったく話題にならない覆面作家なんですけど、福永信なんですよ。「俺、ごろうで出すわ」って言い出して。ごろうが描いてるんやと思ったらメタ的な楽しみができるのでいいなと思いつつ、岩崎書店は老舗ですから、「ごろう作」とかダメと言われるだろうと思ったら「いいよ」と。
かいつまんで言うとごろうは小学校やめて、空き地で店をひらく。空き地と言っても何もない。何も売るものがないから落書きしたら壁に○とか描いたらそれが売れちゃったという話。売れるものだからどんどん描いたら売れた。いいね!と。そんなによくないと思うんですけど。あるとき○描こうと思ったら△しか描けない。一生分の○を描き尽くしたから。なかなかふざけてますけど。次は□。それも売れてごろうの手が止まった。□も描いたから。しかたないから学校に戻る。そしてまたやめて、小学校をひらいた。
ふしぎな話。
散々読めばわかるとおり、小学校やめた主人公。自分で商いをする。不登校の話じゃないですけど、小学校行きたくない子、行けない子、行ってるけど本当は嫌で仕方ない子、いっぱいいると思うんですけど、行かなくてもなんとかなると。まずそういう気分を少しでも味わってもらえたらと。そう思えるだけで、行けなかったり、行ってもつらいと思ってる人たちの気持ちが少しでもバカバカしい話で軽くなるといいなというのがひとつです。
あとこの○を売ったりする。これもポイントと思っていて。たんにこんな○買っていくんやと楽しんでもらってもいいんですけど、物事の価値とか、他人にとってどうでもいいようなことが自分にとって大切ということもあるしその逆もある。○や△に何をみいだすかはそれぞれ勝手にすればいい。なんなん?と「ぴったり!」と言う人もいるけどそんなにぴったりじゃない。でも楽しんでいるからいいんですけど。それで全然いいんやと思ってくれたらいい。
学校にごろうが戻ると○と△と□描けないけどバレてないし問題ない。もしかしたら劣っていることじゃないかと思ってることでもたいしたことないんだという見方もできる。子どものころのできないというコンプレックスって今思うとどうでもいいんですけど当時は大問題ですから。バレてないし問題ないと福永さんが描いてくれたのはいいなと。
謎の終わりかたと思うかもしれないけど、思い起こすのは『えとえとがっせん』のラストですね。やめたり拒否したりして自分の場所をつくる。またなんか適当にやり散らかして学校に戻るかもしれないけど、自分たちの場所をつくってやっていく。既存の価値観や場所を飛び出している。で、自分の場所を作る。いい終わりかただなと。
実ははじまりの絵とおわりの絵をまったく流用してるんですよ。ループしてるとも捉えられる。
あと大きなポイントがあるのは、ねこがつかず離れるしてるけど、ごろうには友だちがひとりもいない。小学校行ってたけど。絵本の中では描かれていない。絵本て友だちをだいたい肯定しますね。友だちがたくさんいるとかできたとかそういうのを礼賛する。別にいいんですけどそういうメッセージを発しがち。僕の個人的な経験から言えば、友だちいてよかったね、より、友だちなんていなくてもなんとかなるって言ってくれた方がよっぽど希望があると思っているので。自分の担当の絵本では簡単に、安易に友だちがたくさんいるとかそういうことをイコール良いこととして無邪気に礼賛しないようにしたい。
なじめないなって思ってる人にとって友だちがいっぱいいるのがいいって苦しいんですよね。少なくても僕はそうだった。だから別の視点で友だちというものを考えたいなあと。『ごろうのおみせ』というバカバカしい絵本からすごいいい話をしてしまったなあ。
まあ別の見方をしてくれてももちろん全然いいんですけど。
雑多な人がいっぱい出てくるんですよね。『ごろうのおみせ』には。世界はたぶんそういうふうにしてできているはずなので、いいなあと。
以上、三冊が自分がこれからこの生きづらい、しんどい世の中に子どもの本を作るというときにやっぱりどうやって今とこれからを生きる人たちに本を提示していこうかというときに自分なりに考え始めた最初のほうのものということです。
2冊は重版したこともあり、第二期もできることになった。
とは別に震災の311の本にも書いてますけど、生とか死とか、そこに意識的に取り組んでみようかと思って、死をテーマにした絵本シリーズを立ち上げているところです。

■希望の提示

もう時間なので終わりますけど、今日何度か希望みたいな言葉を使ったと思います。最近自分でそういうこと言いながらびっくりしてます。そんな安っぽい言葉くそくらえと思っていた。それは甘かった。震災前ですけどね。ぬるっとしたしんどいことありながらもぬるっとした日常が続いてこんな感じなのかなと思っていたらどうやらそうじゃない。どんどん世の中がしんどくなっていくなかで、だからこそ子どもの本に携わる人は、少なくとも僕はどんなかたちでもなんとか希望を提示しないといけない。でもそれは簡単にできることじゃなくて、明日はよくなるとかいい加減なことは言えないので意地でも考えて行動もしつつ絵本作りにおいてもどういう希望を提示できるか。それが問われてると思ってます。最終的に解放に行きたいので、もちろんやり続けながら合わさったりする、いろいろやり方があると思うんですけど、どういう本を作っていくべきかを模索しながらやっていきたいと思っています。


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