bitter sweet――やなせたかしの歌や詩が、僕らの心に染み入る理由


 2ちゃんねるやNAVERのまとめサイトで「アンパンマンは深い」「やなせたかし先生はすごすぎる」というものをよく見かける。

そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか

 やなせ先生が作詞した「アンパンマンのマーチ」には、ひたむきさとものがなしさが同居している。
 多くのネット民と同様に、僕も幼少期に聴いていたときには、そのことに気づかなかった。先生ご本人も、そりゃそうだ、というようなことをおっしゃっている。

アニメのテーマソング「アンパンマンのマーチ」は「手のひらを太陽に」と並ぶ国民的愛唱歌です。
「あれは相当むずかしい歌なんで、意味はわかってないと思う(笑)。でも、ほんとうの意味というのは、なんとなく通じてしまうんだね。ノスタルジーを歌う童謡とちがって現在の歌だから、小さい子どもにもわかるんです」月刊MOE』二〇一二年三月号11p)

 僕は一九八二年生まれなのでTVアニメ「アンパンマン」が始まったときには六歳。僕には五歳下の弟がいて、弟につきあってよく観ていた記憶がある。「愛と勇気だけが友達だなんて、アンパンマンは友達がいないのかな?」などと、誰でも一度は思いつくようなことを、無邪気に弟に向かって話していた。こどもなんてそんなものなのかもしれないけれど、今になってやなせ先生に、そして弟に謝りたいきもちになる。あさはかでした。
 ここで僕は、やなせ先生について、音楽活動を中心にみてみいってみたい。
 音楽活動? ああ、作詞のことね。「アンパンマンのマーチ」とか「手のひらを太陽に」とか。と思うひとが大半だろう。
 たしかに作詞家やなせたかしとしての活動も膨大な量がある。アンパンマン関連の作詞だけで二〇〇曲を超える。どの詞も、やなせ先生らしい、あかるさと哀切さが、わかりやすくつづられている。
 でもそれだけではない。
 コーラスグループ・ボニージャックスの事務所に三年ほど在籍していたことがあり、ボニージャックスといっしょに仕事をしてステージで司会をしたり、構成をやったりしていたことがある。『題名のない音楽会』に出て、オーケストラの指揮をしたこともある(指揮なんて、まったくの未経験で出演したのだ)。
 また、老齢期に入ってから作曲もはじめた。きっかけは二時間半のミュージカルをやることになり、シナリオ、演出、美術は自分でやるとして……劇中で使う歌の作詞・作曲を頼むとお金と時間がかかる。というわけで「自分で作曲もやるか」と思いたち、楽譜が読めないし書けない、楽器も演奏できないうえに音痴を自負している状態にもかかわらず、作曲をはじめた。口で作曲し、浮かんできたメロディを録音する。それを採譜し、アレンジする女性との共同ペンネームとして、そのときから「ミッシェル・カマ」名義を使いはじめた(名前の由来は「なんかカッコイイ!」からミッシェル、カマは益子焼の窯場を見学したとき、窯太郎という焼き物の名手の名前が気に入ったから)。
 もちろん、ご自身でも歌う。先生は音楽活動を素人の手慰み、ヘタの横好きだと謙遜されているが、ほとんどうまいへたなど超えている。楽しさが、歌えることのよろこびがつたわってくる。「手のひらに太陽を」にある「いきているから うたうんだ」を地でいっている。
 それらも含めて、音楽とやなせたかしの関係を掘りさげてみようと思う。作曲や歌と、詞の世界を。
 どうしてやなせ先生の歌や詞は、僕らの心に響くのか。

■遅咲きの老齢クリエイターがもつ自由――作曲家、歌い手としてのやなせたかし
 いきなりだけれど、僕は遅咲きのクリエイターが好きだ。
 三〇代、四〇代になってから、自分も知らない才能を開花させたひとたちが好きだ。
 たとえばTCG(トレーディングカードゲーム)専門会社であるブシロードの木谷高明社長。
 たとえば「リアル脱出ゲーム」をつくった株式会社SCRAPの加藤隆生氏。
 木谷さんは証券マンあがりで、『ギャラクシーエンジェル』や『ミルキィ・ホームズ』、『ヴァンガード』といったコンテンツ・プロデューサーとして知られるが、その才能に気づいたのは三八歳のときだった。加藤さんもリアル脱出ゲームを思いついたのは三二、三歳のときで、それまでは音楽と文筆(作詞やライター業)が自分の仕事だと思っていた。謎解きの才能があるなんて、思いもよらなかったという。
 われらがやなせ先生も、『アンパンマン』がヒットしたのは六○歳近くになってからだ。もちろん絵本『やさしいライオン』や詩集『愛の詩集』のような代表作はそれ以前に書かれているけれど、それにしたって、一〇代や二〇代でスターになったわけではない。
 遅咲きのクリエイターの何がいとおしいかと言えば、地に足がついていること、世の中をナメていないことである。
 たくさんの失敗を積み、無数の出会いと別れをくりかえしていることから来る、死生観の深みがある。次にやることはヒットしないかもしれないが、だったらなんだ、またいろいろやりゃいいじゃないか、という大胆さがある。
 そして、「次」をやることなく業界から、現場から、この世から去って行ったひとたちへのいたわりがある。
 見向きもされなかったころがあるから、まわりの評価が変わっていろいろなひとが近寄ってきても、冷静だ。好きなことをきちんと通すような仕事のしかたができる。
 彼らの作品には、長い時間をかけて山をのぼったあとのような、自由がある。つきぬけている。空が、ひらけている。と同時に、地に足がついている。足に感じるジンジンとした痛みを、忘れることはない。
 やなせ先生の歌は、まさにそういうものだ。
 作曲活動は『アンパンマン』の成功からさらに干支がひとまわり以上してから始めたものだ。なんといっても、八四歳になってCDデビューである。だから、つきぬけ具合はハンパない。『アンパンマン』はキャラクターも世界観も秀逸である。しかしやなせ先生の音楽活動はもはやそういうレベルのしろものではない。
 技術的に歌がうまいかといえば、うまくない。曲が音楽的にすぐれているかといえば、そういうわけでもない。先生いわく、「音痴のぼくが歌える程度にしてあるから、ごくシンプルだ」(『人生、90歳からおもしろい!』)。
 しかし圧倒的に自由さを感じる。
 観た/聴いたことがないひとは二〇〇七年八月四日に行われた”やなせたかしとアンパンマンコンサート”の一場面を録画した「【生きる】やなせたかしの歌い描き【伝説】~アカシヤの木の下の犬」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm767842)を観てほしい。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm767842

うんちする犬の物語を、悲哀に満ちた歌を口ずさみながら描きあげていくその精神世界は、唯一無二のものである。
 以下、しばらくほかの音楽を引き合いに出してやなせミュージックについて語ることにするが、聴いたことがないミュージシャンの名前を出されてもピンとこないという方は、次の節まで読み飛ばしていただいてかまわない。
 村上龍が七〇歳、八〇歳になっても生涯現役をつらぬくキューバのオルケスタのミュージシャンたちにみいだしてきたのとおなじ快楽が、やなせ先生の音楽にはある。晩年の高田渡やアントニオ・カルロス・ジョビンはライブ中に演奏しながら自分が気持ちよくなって寝てしまうこともあったという。それはつまり、老いの力を得て、生活の時間と芸術の時間がまったくの地続きの境地に至ったことを意味する。やなせ先生の音楽も、自然体でやなせワールドである。日常と表現が一体になっている。
 それは湯浅学や根本敬が「幻の名盤解放同盟」としての活動で発掘してきた、「天然の勝利」としか言いようがないディープ・サイケデリアとおなじものだ。聴いていて「ああ、俺はなんてつまらない些事にとらわれていたのだろう」と解放されていくような気持ちになる。涅槃とは、こういうことを言うのかもしれない。九〇年代に出ていたら『いいなぁアキ(安芸)』や『ノスタル爺さん』といったやなせ先生のCDたちは、モンドミュージックの名盤として扱われていたことはまちがいない。
 また、音数の少なさと「おいしいね」の反復からなる「おいしいねソング」(アルバム『ノスタル爺さん』)などの曲は、意図せずしてほとんどレゲエ/ダブ的な浮遊感を放っている。リー・ペリーのようにぶっ飛んだ独特の時空間がたちあらわれ、流れていく。
 まったく邪気のないシド・バレットというかピーター・アイヴァースというか腐っていくテレパシーズというか……、マニ・ノイマイヤー(グルグル)やクラウス・ディンガー(NEU!、ラ・デュッセルドルフ)に近い、あっけらかんとした異世界がにじみ出ている。
 苦労の山をのぼりきったあとにある自由を謳歌する。それが作曲家・歌い手としてのやなせ先生の特徴である。
 つづいて、作詞家としてのやなせ先生についてみてみよう。


■わかりやすさ・複雑さ・深さのひみつ――作詞家としてのやなせたかし
 やなせ先生の作品の特徴はこうだ。
 わかりやすい。でも表面的なやさしいことばづかいとは裏腹に、複雑な感情がゆたかに描き込まれていて、深い。
 これには、おそらくみなさんも賛同してくれることだろう。
 言いかえれば
「わかりやすさ」
「複雑さ」
「深さ」
 この三つを組み合わせる方法論があるということだ。
 それはいったい、どういうものだろうか。
 やなせ先生は『人生、90歳からおもしろい!』のなかで、こう言っている。

 ぼくの場合はどうやって作詞しているのか実はよく解りません。
 机にむかって、紙にいろんな言葉を書き散らしているうちに、不意にまとまって歌が頭の中に流れだしてきます。
 なんか自分ではなくて、耳のそばに誰かいてささやいてくれるような感じです。(同書一一五頁)

 作詞というのは自分とは別の何者か、たとえばお化けのようなものがつくってくれるような気がする。(同書三一〇頁)

 つまり、どうつくっているかなんて「わからん」とおっしゃっている。
 そんな、ご本人もわからない作詞のひみつに、がんばって挑んでみたい。
 どこまでいけるだろうか?

・影響関係からの推察――くりかえしと失われてゆくものへの視線
 やなせ先生は『アンパンマンの遺書』によれば、井伏鱒二と太宰治がお好きなようだ。小説家として名高いふたりだが、「本質的には詩人」「文体が詩のリズムをもっている。それがここちよくぼくを酔わせた」という。
 しかし日本文学を研究しているわけでもない僕には、井伏や太宰からの影響の類推は、手にあまる。
 そのほかに言及はないだろうか。
『痛快!第二の青春』によれば、野口雨情や北原白秋といった「赤い鳥」系の詩人が作詞したレコードが幼少期には家にあったという。西条八十の「かなりや」や野口雨情の「赤い靴」は鮮明に覚えている、と語っている。「かなりや」は「いえ、いえ、それはなりませぬ」という否定の言葉がくりかえされるのが、新鮮でよかったそうだ。
 これには影響があるような気がする。

1・2・3・1・2・3 1・2・3
サンサンサン ひかりがサンサン
ジャムおじさん(「サンサンたいそう」)

 やなせ詞には、くりかえしが多い。
 また、「赤い靴」は異人さんに連れられていってしまった女の子が描かれており、「かなりや」は歌えなくなったカナリヤについての歌である。不在のかなしみがある。すぎさりしものに対するいつくしみがある。

 人生は 短い
 昨日の少年少女も
 明日は 爺さん婆さん
 またたく間に 過ぎてゆく
 それなら 楽しく生きよう
 すべての人に やさしくして
 やがて煙になって 消えていくのさ(「ノスタル爺さん」)

 とはいえ、影響関係から迫るのは、なかなかにむずかしい。
 もう少し作品に即して、やなせ詞の奥義に足を踏み入れていってみよう。

・擬人化と気持ちと風景――わかりやすさのひみつ
 わかりやすさは、やなせ先生ご自身、心がけているとつねづね語っているものだ。

「難解な言葉を使うことによって、リズムが壊され、暗誦して口ずさむ心地良さを台無しにしている。普段使っている、気取らない日常の言葉の中から選択することが良い詩への第一歩だと思いますね」(『やなせ・たかしの世界 増補版』サンリオ、四一頁)

 具体的にはどういうことをしているだろうか?
 代表的な方法は、キャラクター化である。やなせ先生といえば言わずもがな、キャラクターメイカーとして知られている。詞においても、土地やボールを擬人化(キャラクター化)している。

 野良時計の下で
 アキちゃんと 逢いました
 アキちゃんと いっしょに
 焼き茄子アイス 食べれば
 キスした唇「こげくさい」アキ(「いいなぁアキ(安芸))

 青空の 青の中を
 白いボール君が とぶ
 君は 元気だ
 熱い心を のせて
 燃えながら
 とべ・とべ・とべ・とべ!
 ボール君 とべ!(「とべ とべ ボール君!」)

 擬人化すると、たいがいのものはわかりやすくなる。抽象的なものでも、具体化されるからだ。性格ができ、動かすことができ(焼き茄子アイスを食べる、など)、感情や心情(「熱い心」など)をもたせることができる。

 絶望のとなりに
 だれかが
 そっと腰かけた
 絶望は
 となりのひとに聞いた
「あなたはいったい誰ですか」
 となりのひとはほほえんだ
「私の名前は
 希望です」(「絶望のとなり」『やなせたかし童謡詩集 希望の歌』一二頁)

 先生はキャラクターづくりに関して、こんなことを言っている。


 しかし、ぼくがキャラクターの達人かといえばそんなことはない。商品のキャラクターデザインなどはまったくの不得手である。
 ぼくの場合、何かしらドラマがないと、キャラクターは作れない。
 だから、形ではなくて、まずスピリットの部分を考える。(中略)
 キャラクターを思いつくきっかけは意外と単純で、今日食べた天丼はおいしかったなあと思ったところから、てんどんまんが生まれたりする。(『やなせたかしの世界 増補版』サンリオ五〇頁)


 スピリットから考える――まるでネイティブアメリカンか沖縄のユタ(シャーマン)を思わせるような、ものいいである。ただキャラクターにするのではなくて、ドラマをつくる。そしてその大元になるのは「天丼はおいしかったなあ」という自分の気持ち、実感である。実感ベースでできているから、親しみやすい。
 またやなせキャラのいまひとつの特徴は、風景とともにあることだ。

 つめたい雨も 雪の日も
 ひとりぼっちで 花をまもる
 花は私で 私も花よ(「リンリンのダンス」)

 そうさ空と海を越えて 風のように走れ
 夢と愛をつれて 地球をひとっ飛び(「アンパンマンたいそう」)

 ある風景のなかにいるからこそ、イメージがしやすい。世界のひろがりを感じられるものになっている。
 擬人化、気持ちから生む、風景とともに描く――これが「わかりやすさ」のひみつである。
 やや余談めくが、ひとつ。
 やなせ先生がアンパンマンの絵を描くときには、夕陽をはじめとする叙情的な風景のなかを、画面の右側から左側へ向かって飛んでいる絵が多いような気がする。こういう絵をみると、僕らは複雑な印象をうける。
 なぜか。
 ふつう、時間の流れというものは左から右に向かって流れるように表現される。横スクロールのアクションゲームでは、たいがい左から右へ進んでいく。しかしアンパンマンたちは、明るい表情をしながら、右から左へと飛んでいく。これによって、表情は前向きなのに、まるで現在から過去へと向かっているような感覚をおぼえるのだ。未来へ向かっていくような顔をしているのに、同時にノスタルジーを感じさせる。
 やなせ先生の詞にも、こうした複雑さが随所にみられる。
 次はその「複雑さ」のひみつを考えてみよう。

・だじゃれと喜怒哀楽の同居――複雑さのひみつ
 やなせ先生の詞には、だじゃれやかけことばのような、ことばあそびが多い。

 ジグザグはねる 野うさぎと
 いっしょに はねては
 いけないのかな カーナ
 たのしいことは
 悪いことなの カーナ(「わからないカーナ」)

 ごめん ごめん ごめん ごめん駅へ行こう
 電車が着くたびに ごめん ごめん ごめん(「ごめん駅でごめん」)

 この特徴は、音楽としてリズムをよくするというだけではない、やなせマジックに通じている。

 マキマキ マキマキ マギー
 花のたね マキマキマギー マギー
 たまねぎマギー 風の旅 マギー
 知らない土に うずもれて マギー
 泥にまみれて がまんして(「たまねぎマギー」)

 たとえばこの詞には、「花のたね」という未来にひらくものの予感と、「泥にまみれて」というさびしさやつらさが同居している。やなせ作品のなかでもとくに愛されている作品には、相矛盾するような感情が、ひとつの作品のなかに同時に存在する。

 悪魔の声が ささやくよ
 おまえは悪魔の子
 正しいやつは みんな敵
 青いハートは 悪いハート
 そうよわたし ロールパンナ

 ああ とつぜんかわるのよ
 ふたつのこころ
 燃えるように 赤い ハートが光りだす
 ああ 悪い ゆめは消え 夜が明ける(「ふたつの心」)
 
『アンパンマン』でも屈指の人気キャラクター・ロールパンナちゃんが二重人格であることが典型である。

 時は はやく すぎる
 光る星は 消える
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで(「アンパンマンのマーチ」)

 ぼくらはみんな いきている
 いきているから うたうんだ
 ぼくらはみんな いきている
 いきているから かなしいんだ(「手のひらを太陽に」)

 代表作「アンパンマンのマーチ」にも「手のひらを太陽に」にも、やはり、前向きさだけではない悲しみ、切なさが同時に描きこまれている。
「手のひらを太陽にすかしてみれば」のフレーズが浮かんだのは、仕事もないのに徹夜で詩ともいえないようなものを書いているときだったという(『人生なんて夢だけど』)。退屈だから仕事場にあった懐中電灯を自分の手のひらに当て、子どものころのレントゲンごっとを思い出して遊んでいたら、血の色がびっくりするほどあかくてきれいで、見ほれてしまった。そのとき浮かんできたものだという。仕事がないことのくるしさやくやしさのなかで見つけた、命のともしび。
 こういう複雑さは、大半の童謡や幼児向けの作品には見られない。ふつうの童謡は、感情を描き込んでいても「楽しい」なら「楽しい」、「悲しい」なら「悲しい」、ひとつだけだ。けれどやなせ先生の歌は、ひとつの曲のなかに二つ以上の感情がいっしょにある。ひとつしか描き込まれていないな、という詞でも、曲とあわせて聴いてみると、曲調が明るいのに詞はさびしげであったり、その逆だったりする。
 こういう複雑さに、ぼくらは惹かれる。そしてだじゃれやことば遊びというものは、ひとつの単語に、二つ以上の意味を持たせようとする技である。
 どうして明るさと悲しさ、前向きさとさびしさの同居に、ひとは惹かれてしまうのか。
 ウソくさくないからだ。
 陽のきもちだけ、陰鬱なきもちだけ、なんてことが、あるだろうか。どんなにくらいきもちのときでも、一日のうちに何分かはそれを忘れる瞬間があるはずだ。たとえばそういうことだ。
 いつか終わりがあるからこそ、生のかがやきはいとおしい。たとえばそういうことだ。
 善と悪がキッパリ分かれた勧善懲悪の物語は、どこかいんちきくさい感じがする。
 きれいごとだけでは、世の中そういうものじゃないだろう、と思ってしまう。
 やなせ先生は、戦争を経験され、たくさんのご苦労を味わってきたからだろうけれど、現実のきびしさを、よくわかっていらっしゃる。そのうえで、でも……と、理想を語る。だから説得力がある。
 ひとびとの心を打つフィクションには、理想だけでなく、社会がどんなものであるかという実感が、ともに描かれているものだ。人間の醜さを見すえたうえで語られるひたむきさだからこそ、納得できる。
 やなせ先生の発言としてよく引かれる一説を、少し長くなるけれど、ここでも引用しておきたい。


 子供の時から忠君愛国の思想で育てられ、天皇は神で、日本の戦争は聖戦で、正義の戦いと言われればそのとおりと思っていた。正義のために戦うのだから生命をすてるのも仕方がないと思った。
 しかし、正義のための戦いなんてどこにもないのだ。
 正義は或る日突然逆転する。
 正義は信じがたい。
 ぼくは骨身に徹してこのことを知った。これが戦後のぼくの思想の基本になる。
 逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとしれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点になるのだが、まだアンパンマンは影もかたちもない。(『アンパンマンの遺書』岩波書店、六一頁)


 思想の押しつけはしない。正しく思えるものでも、変わってしまう。敵だと思っているものは、悪ではないかもしれない。その懐疑が、やなせ先生の作品には宿っている。
 やなせ先生の詞から感じる「複雑さ」のひみつは、ひとつの作品、ひとりのキャラクターのなかに二つ以上の感情が同居していることにある。涙と救い、喜びと痛み、苦しさと勇気……。それは、現実の甘くなさを、過ぎ去っていった命の重さを、信じていた「正義」が反転した衝撃を知ったうえでなお語りたいと思う夢や希望である。
 こうして、わかりやすいけれど、複雑な詞ができあがる。
 さて、最後に「深さ」のひみつについて考えてみよう。

・人生について問いかけること――深さのひみつ
 僕たちが「深いな」と思う作品の多くは、読者に問いかけをしている。
 たとえば村上春樹がそうだ。最新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』(新潮社)から引いてみる。


 ふと立ち止まってあたりを見回し、私はいったいここで何をしているんだろう? そう思った。人生の目標みたいなものが見えなくなっていた。(同書三〇〇頁)

 人の営みはなぜそこまで入り組んだものでなくてはならないのだろう?(同書三四三頁)


 いちばん極端なのは『ねじまき鳥クロニクル』で、ほとんど毎ページ、なにかしらの問いかけがある。そして答えのほとんどは、読者にゆだねられている。作者が正解を示すことはしない。だから読者は好き勝手に、(批判者であってさえ)嬉々としてみな感想や推理、考察を語る。
 その問いかけは、キャラクター同士の会話でなされたり、登場人物の自問自答であったりする。だがあたかも読者に問いかけているような疑問、それも人生に対する問いを投げかけている。
 こうした問いかけの多用は、村上春樹に限らない。ジャンルを問わない。一般文芸でも、ライトノベルでも、どんな人気作品にでも見受けられるテクニックである。


「高須くんは、どこに向かってるの? 行きたいところはある? それがなけりゃ前進できないぜ」(竹宮ゆゆこ『とらドラ!』電撃文庫九巻八五頁)


 兄貴、俺たちはどうして生まれてきたんだろうな――。
 兄貴、俺たちでも幸せになれる日が来るんだろうか。俺たちが語り合える日が来るんだろうか。
(東野圭吾『手紙』文春文庫四二〇頁)


 基本的にはインタラクティブなメディアではない文章表現ができる数少ない読者とのコミュニケーションツール、キャッチボールのしかたが、問いかけである。読者によるコミットを促す手段が、問いかけである。
 もちろん、やなせ先生も使っている。

 なんのために飛ぶ めざす遠い空
 ふしぎな いのちの 星が燃える
 暗い夜よ バイバイ
 消えてゆくよ バイバイ(「なんのために飛ぶ」)

 私は誰? 知らない
 私は誰? 知らない 知らない
 私は誰? 私は誰? 私は誰?
 知らない 知らない 知らない(「ドキン・ドキン・ドキンちゃん」)

 なぜ問いかけられると「深い」と感じるのか。
 問われると、考えてしまうからだ。

 美しの丘 どこにある
 ゆくてに まつのは 悪魔か 愛か
 知らないけれど あこがれる
 まぼろしのママ とおいふるさと
 美しの丘 どこにある
 さがして今日も また 続く旅(「美しの丘」)

 人間は、一方的に与えられたものより、自分で思考を投入したもののほうを、いとおしく思う。どんなに稚拙であっても、自分でつくったものはかわいい。問いかけられ、考えることによって、その作品は読者の一部になる。問いかけてきた相手に感情移入し、わがことのように想い、考えてみることによって、読者が作品の一部をつくりあげるのだ。
 自分に引きつけて考えたものほど記憶に、印象に残る。
 だからやなせ先生は問いかける。自分の考えをおしつけるのではなく、読んだひとが自分の頭で考えてくれるように。

 なぜ たたかうの
 なぜ あらそうの
 地球が こわれそうなのに(「いのちは続く」)

 深さは「問いかけ」からうまれる。
 先生と僕らの対話が、深さをうむのだ。
 わかりやすくて、複雑で、深い。
 やなせ先生の詞に使われているテクニックは、以上のように整理できる。

■まとめ――僕らがやなせ先生の営みをうけついでいくために
 やなせ先生が長い時間をかけてつくりあげてきたものから学びとって、こどもたちへ、次の世代へうけついでいくために、僕らができることがある。

・つらいことを経験したあとに、自由をうたうこと。現実のきびしさを知ったうえで、理想を語ること。きれいごとだけでなく、ただの居直りでもない姿をみせる。そういうものをつくる
・キャラクターや語りには、実感を込める。イメージしやすいように、風景を伴って表現する
・たとえ自分が正しいと思う考えであっても、押しつけるのではなく問いかける

 なにより、考えすぎるよりは、動いてみること。
 へたっぴでも、歌っていい。そのたたずまいが伝えるものが、かならずある。
 

 ぼくらは みんな いきている
 いきているから うたんだ(「手のひらを太陽に」)


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