小説の印税で十億円以上稼いだあと、森博嗣はエッセイで何を言っているのか
1990年代から2000年代にベストセラー作家として一時代を築き、2010年代に入ってからも『すべてがFになる』のTVドラマ化、アニメ化がされている森博嗣は、しかし、もはや本人としては隠居状態を自認している。
大学に勤務していた工学研究者であった森が小説を書いた目的は、鉄道模型をはじめとする趣味に使える時間と場所とお金を確保するためだった。
つまり、金もうけが目的だった。
そして莫大なキャッシュを手にし、大学を辞した森は、2008年いっぱいくらいを境にして、小説その他の執筆業を「ビジネス」から「趣味」にきりかえていく。
森が書いた新書『科学的とはどういう意味か』(幻冬舎新書、2011年)には、「隠居に近い立場になったのは、47歳のときだ」と書いてあるので、1957年うまれだから2004年にはもう隠居に入っていたことになる。
けれど、もっとぐっと小説仕事を減らすのはその少し先だ。
2000年代後半以降、ざっくり言って2010年代は完全にご隠居モードに入ったとみればわかりやすいんじゃないかと思う。
『TRUCK&TROLL』(TOKYO FM出版、2010年)では、2009年は小説の仕事をセーブしたおかげでこれまでになく自由な時間ができ、ストレスもなく、素晴らしい一年だったと言っている。
なにより良かったことは、繰り返すが、小説をあまり書かなかったことである。(中略)
それから、ファンのメールにリプラィしなくて良くなったこと。良くなったというよりも、そう勝手に決めただけだが、これが(ファンの人には悪いけれど)素晴らしいことだった。182p
大学の常勤仕事も辞めたが、そのころにはすでに10億円以上印税で稼いでいたという。
10億円というのが、税金を払ったあとの額なのか前なのかはわからない。
どちらにしても、アーリーリタイヤ状態だ。
今まで築きあげてきたアセット(今まで書いてきた小説作品)が十分稼いでくれたし、これからも勝手に稼いでくれるので、働かなくても良い状態になった。
「お仕事」として、「ビジネス」として小説を書き、ファンサービスをしてきた森博嗣は、当初の目的を達成したので、「趣味」または違う目的でエッセイを書いている。
つまり同じ「小説より売れない」でも、エッセイを書く意図が変わっている。かつては作家としてのプロモーションのため(顧客とのリレーションを築くため)。
2010年代以降は、本当に伝えたい情報を、意見を、「方法」を伝えるために、書いているのだ。
でも、小説では詳細な論理は展開できない。単なる「雰囲気」あるいは「意見」のエッセンスが伝わるだけだ。読んだ人は、その一瞬だけ納得した気分になるようだ。ただし、「場面」「言葉」というデータが一つ頭に入っただけで、考え方の「方法」が理解されたわけではない。それでは応用・活用することはできないだろう。そう常々感じているから、多少効率が悪く(印税も期待できなく)ても、やはり本書のような文章を書き続ける必要があるのではないか、と今は思っている。
本を多く読むことは、必ず自分のためになる。そして、その本というのは、小説ではない。物語ではなく、情報や意見により耳を傾けるべきである。(『科学的とはどういう意味か』幻冬舎新書、2011年、106p)
こういうフェーズに入った森が、以前までの本から変えた点としては、エッセイに関しては本のタイトルを森が決めていないことが多い、ということだ。
そのむかし、小説は書く前にタイトルを3か月くらい考える。タイトルが決まれば自然と内容も定まる。と言い、タイトルにすごくこだわっていた人間だったのに。
小説だけでなくて、エッセイのタイトルも、2000年代までは凝っているものが多かった。けれど最近はエッセイ本のあとがきを読むと「タイトルは編集者が決めた」と書いている。
『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(新潮新書、2013年)だとか『常識にとらわれない100の講義』(大和書房、2012年)だとか、率直に言ってタイトルがださい。わかりやすいけど、ださい。
ださいタイトルにするとどうなるか?
今までの森博嗣の本の客層とは違う層に届くことになる。既存のファンは、「うーん……『ダウン・ツ・ヘヴン』の隣に『素直になるための100の講義』なんて本は書架に並べたくない」と思うか、そもそも「森博嗣も変わったなあ」と思って買わないか、嬉々として買って並べるくらいの信奉者かに分かれているだろう。
ただし近著のエッセイのタイトルでも、『TRUCK&TROLL』(TOKYO FM出版、2010年)や『つぶやきのクリーム』(講談社、2011年)は「私たちの好きだった森博嗣」感にあふれているし、森が自分でつけているので可。
『創るセンス 工作の思考』(集英社新書、2010年)は微妙。
そんなとこだろう。
■10億円以上稼いだ森博嗣はエッセイで何を書いているのか? 何が変わったのか?
――森さんはファンを意識されますか?
森 全然しませんね(笑)。ホームページを開設しているのは、何かサービスしないと……という気持ちからですが、書くときは(ファンからは)遠くにいます。(『森博嗣のミステリィ工作室』、講談社、1999年、186p)
それから、ファンのメールにリプラィしなくて良くなったこと。良くなったというよりも、そう勝手に決めただけだが、これが(ファンの人には悪いけれど)素晴らしいことだった。毎日大変良いムードである。(『TRUCK&TROLL』TOKYO FM出版、2010年、182p)
森博嗣は、バイトとしての小説執筆を終えた。
だからそれまでの彼の小説のファンは、むかしほどファンサービスをしてもらえなくなった。
もちろん「講演の類いは引き受けない」と言いつつファンクラブの会員相手にはしているから、まったくなくなったわけではない。
でも、減ったことはたしかだ。
本を買ってもらうためのプロモーション活動は、本を買ってもらう必要がなくなればやらなくなる。当たり前のことだ。
しかし、おおっぴらに言われると、さびしい気はするだろう。むかしからそういうスタンスをオープンにしていた作家だったとはいえ。
たとえるなら、キャバクラに熱心に通っていたサラリーマンの中年男性がいたとする。男のお気に入りのキャバ嬢は、いつもその男の内腿にそっと手を置いて「サービスですよ……」と甘い声で言ってくれていたとする。
その娘が十分にお金を稼いだので店を辞めることになった。
出勤最終日に顔を出した男が、嬢から「もうサービスしなくてよくなりました。今までありがとうございました。とてもすがすがしい気持ちです」と言われ、もちろん甘い声もエロい妄想をかきたてるような手の置き方もされずにバイバイされてしまったような、「いやー、愛想だとはわかっていたつもりだったけど、いざ『あれは営業努力としてやっていただけのもので、あなた自体に興味関心があったわけではありませんし、今後は応援してくれなくてもかまいません。これまでとは違う人を相手に仕事をしていきたいと思います』って面と向かって言われたような感じがしてなんかへこむわー」状態に近い。
言いすぎである。
初期森のWEB日記の文体と、近作の文体を見比べてみてほしい。
1996年から97年までの日記をおさめた『毎日は笑わない工学博士たち』幻冬舎、2000年はこうだ。
森も自分の作品を必ず2回くらいは声に出して読み通します(こんなことやっているから校正に時間がかかる)。声を出さないと確認できないニュアンスってあるし、文章も朗読するとリズムがわかりますね。(143p)
それが『創るセンス 工作の思考』(集英社新書、2010年)になると、こうだ。
作品を一つ発表し、そのつど観測する。いろいろなものを書いてみて、データを収集する。そのリサーチの結果を、次の作品に活かす。ビジネスならば、ごく当然のやり方だ。僕は小説家というよりは、メーカだった。一人だけのベンチャ企業である。176-177p
そもそも、実際に誰かから評価をされても、それで自分の感情が影響されるようなことは、過去になかった。褒められてもそんなに嬉しくないし、貶されてもそんなに悔しくない。それはやはり、自分の評価の方がずっと正確だという確信があったからだ。194p
親しみやすさが違う。
後者の文章を読んでいると、BtoCのビジネスで成功したひとがその秘訣をBtoBの非公開セミナーで話すのを聞いてしまったような……あるいは友人に「こうやって囲い込んで、ハメて、抜け出せなくするっていう戦略なんだ」と言ったのと聞いてしまったような……そんな感覚になる。
「こんな言い方、ユーザーが聞いたら怒るだろうな」と少しヒヤヒヤする。
『小説家という職業』では森が創作について語っている。メシのタネにしてきた小説を書くときのノウハウを見知らぬ第三者に公開するなんて常識で考えれば愚の骨頂だが、自分はもう稼ぐ必要もないのでしゃべることにする。みたいなことが書かれている。
こういうのを読むと、僕はますます森博嗣のことが好きになる。
正直、むかしむかし公式サイトで書いていたWEB日記のノリは、ファンにコビを売っているようで、僕は嫌いだった。だからリアルタイムでは、ほとんど読んでいなかった。
けれど実は昔から、彼にとってファンはその「数」こそがもっとも重要なファクターだったことは、今あらためて読み返すとハッキリとわかる。
ただ、声の総数、つまり、ネットのヒット件数などの「数」は、全体傾向を把握するには、とても参考になると思います。(『森博嗣の浮遊研究室2 未来編』(メディアファクトリー、2003年、131p)
2011年刊の『科学的とはどういう意味か』にも同じことが書いてある。
もう少しわかりやすく書けば、評判と売れ行きが比例しない。
それでも、一つだけ指標となるものを見つけた。それは、掲示板の意見であれ、書評サイトであれ、とにかくそういった「声の数」は、だいたい本の売れ行きに比例しているということだった。ネットでは、こういった数を簡単に検索できるから、全体数の集計も一瞬で可能だ。152p
ファンひとりひとりの主観としては、アンケートに答えたりメールを送ったりすることによって「私の声が届いた」と思っている。
だが森にとっては、定量化された声の傾向だけがデータとして意味を持つ。
ひとつひとつの声の質や内実は、むかしから問題にしていなかった。
キャバ嬢や風俗嬢と、彼女たちにハマる客の関係と同じだったのだ。
重要なのは売上であって、一個人からの評価ではない。
ひとりひとりが貢献できるのは、ただ数字をあげることの手伝いだけである(もちろんそこには数字に貢献できることの喜びはある)。
そういうようなことをさらさらっと書いている森博嗣というひとのファンでありつづけるのは、どうなんだろうか。
僕がもし初期から本気で好きな作家であったなら、とくに作中のキャラクターに自分の実存をかけて、自分のきもちを投影して読んでいた過去があったなら、ちょっとショックを受ける気もする
しかし、こういう環境に至った今の森博嗣が語るからこそ、根っからのファン以外が価値を感じるコンテンツになりえている本もある。2010年代の森博嗣が書いているエッセイ(実用書)は、そういうものだ。
・実用書を売るうえで重要なことはプロフィールと提供価値(バリュープロポジション)である
そもそもビジネス書をはじめとする実用書の商材としての特徴は何か。
実用書を商品として世に出す場合、重要な点は、著者のプロフィールと、その本が提供する価値がなんなのか、ということである。と、ビジネス書作家で出版社を経営している木暮太一が言っていた。そのとおりだと思う。
著者のプロフィールはなぜ重要か?
だって、ダイエットに成功したひととかすごいプロポーションのモデルでもなんでもない、たとえばカンニング竹山さんみたいな体型のタレントが「こうすれば痩せる」みたいなダイエット本を書いたら、誰も買わない。
プロフィールに書いてある情報は「こいつが言っている内容を信頼していていいのか」という信頼にかかわっている。
森博嗣の場合は、かつて旧帝大の工学部助教授であったことと、小説で10億円以上稼いでセミリタイヤ(「引退」とは言っていない、と何度も言っている)状態に入って悠々と趣味の工作に没頭した日々を送っている、ということが現在のプロフィールだよね。
そういうひとが、プロフィールにふさわしい中身の本を書いているか?
書いている。
『科学的とはどういう意味か』は理系のアカデミックポストにあったひとが書くならなんの問題もない(本人は「僕は科学者じゃない」と冒頭から断っているけれど、世間的に重要なのは「イメージ」である)。
『小説家という職業』も問題ない。
むしろ「そんなに稼いだ作家が書いた小説家になる方法の本なら、読んでみたい」と思わせる(世の中の実用書の売上は、こういう下世話な欲望に支えられている)。
これは小説の売れ方とは、ちょっと違う。
小説は必ずしもプロフィールは必須ではない。
あった方がプラスに働くこともあるが、悪名が立ちすぎるとマイナスに働くこともある。覆面作家もよくいる。
でも実用書ではプロフィールは必須だ。本の内容の説得力にかかわるからだ。
ちなみに完全に余談ながら、こういう性質があるために、文芸評論は売れない。小説も書いたことないくせに何言いやがる、てな話に必ずなる。その代わりハクを付けるために、20世紀では哲学を引用して頭をよさそうに見せる、という手法が流行った。だけど小説と哲学に何の関係があるのか。哲学を引っぱって来て小説を語ることにどんな必然性があるのか。もはや21世紀の大半の人間には意味がわからない。
話を戻す。
森博嗣のエッセイは、プロフィールと本の提供価値がガッチリ合っている。
だから、ふだん実用書を読んでいる読者には届く。
「小説は読んだことがないのですが……」という読者も着実に増えている、と森は書いていた。
逆に「ボクは犀川と西之園のかけあいが好きなんですよ!」みたいなことを言っていた本読みの女や、久保帯人の『BLEACH』にも通じる森の中二病ポエム(的な世界観)が好きだったひとは、最近のださいタイトルの実用書は買わないだろう。
買わない方が幸福かもしれない。
今の森博嗣は、90年代や2000年代に相手にしていた層とは違う読者に向けて、発信していると思っていい。
作家としての活動の初期から「森のまわりには小説なんか読まないという人が多い」と語り、自分もそうだ、と言っていた森が、ある種、もといた世界にかえって発信しているのが2010年代の森なのだ。
・主張は変わったか? Noである
では、今までとは言っていることが変わったのだろうか?
というと、同じ人間だから、変わらないところも多い。
『毎日は笑わない工学博士たち』(幻冬舎、2000年)には、「小説家になりたい」という人間が送ってくる質問への森の返信が書いてある。
1)小説家になりたい→誰も止めない。自由だ。
2)どうしたら良いか→書けば良い。他に方法はないと思う。
3)どうやって思い付くのか→考えると思いつく。考えないと思いつけないだろう。
4)どんなものを書いたら良いのか→できれば他人が喜ぶものが良い。(17p)
これは2010年代に入ってから出た『小説家という職業』でも同じようなことを言っている。
「小説家になりたかったら、小説を読むな」という、冒頭に書かれたメッセージばかり同書はとりざたされているようだが、つべこべ言わず書けよ。書かなきゃわかんないことがいっぱいあんだから。せめて10作か20作書いてから質問しに来い。という核となる主張は、昔から言っていることだ。
変わったのは、ファンサービスとして書く部分が限りなくゼロになり、出版業界に対する配慮もかつて以上になくなったことだけだ(現代日本の書籍流通のしくみは終わっている、といったことを書いている)。
・しごくまっとうな、いいことを言っている。が……
もっと具体的に、森の書いていることをみてみよう。
すごいいいことを言っている。
森のメッセージを整理してみると、こうだ。
①みんな具体的なエピソードやディテールに執着しすぎ。もっと本質を抽象化して捉えるべき。
森は「抽象的に考える」という表現を、よく使う。
これだけだとなんのこっちゃな言い回しなのだが、『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(新潮新書、2013年)に説明があるから例示を引こう。
マニュアルというのは、どんな場合にどう対処するかが具体的に書かれているので、それに従えば、みんなが一本調子になる。
一方、「お客様を大事にしなさい」と抽象的な教育をしたとしよう。これは、言葉でいえば一瞬で終わりであるが、そこから店員たちは、具体的にどうすれば良いのか考えなくてはならない。だから、具体的なマニュアルに従わせる場合よりも、時間がかかり、効率が悪く、また少なからず各自の能力を要求することになるだろう。だが、もしこの抽象的な指示が「理解」できた店員は、自分の意思で客に対応する。そういった「質」というのは、客から見た場合、上手くすれば気持ちの良いものに感じられる。75-76p
「具体的な指示」「具体的なマニュアル」しか見ないと、そもそもの目的がなんなのかを見失う。そもそもの事業の目的や理念なんてものは、抽象的なものだ。そういう意味で「抽象的に考えろ」と言っているわけだ。落語の世界で言えば「了見」というやつだ。
この「店員のマニュアルどうすべきか問題」は、サービスマネジメントについての研究で、よく扱われている。百貨店のノードストロームとか、クレドが有名なリッツ・カールトン・ホテルとか、サポートセンターの神ぶりで知られるザッポスなんかは、ビジネススクールのケーススタディの教材(ケース)にもなっている。
具体的な細部にこだわりすぎて全体をみうしなわないように、そもそもに立ち返って考えましょうね、ということはロジカルシンキング/クリティカルシンキングのクラスではDay1で言われることだ。
問題のイシューを押さえろ。言いたいこと、考えなきゃいけないことをso what?しろ(「で、何なのか?」を考えろ)。と。
このへんは森の言う「抽象的に考える」と一部重なっていると思う。
②大事なことは発想。「どうやったら思いつくかって? 考えれば思いつく」
しかし、森は「論理的な思考」なるものは、「抽象的に考える」ことの前提くらいのものだ、と言う。
『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(新潮新書、2013年)は、発想についてもだいぶ紙幅を割いて書かれている。
この「発想」すなわち、「思いつく」ことは、実は一般に認識されている「考える」とは、まったく違った頭脳活動なのである。39p
発想というのは、論理のジャンプのような行為であって、筋道のないところへ跳ぶ思考ともいえる。当然ながら、それは「非論理的」である。40p
したがって、短期的な努力や練習によっても、すぐに「思いつける頭」になれるわけではない。長い時間をかけて、少しずつ自分が変化するしかない。48p
ようするに、抽象的思考は論理的思考と具体的行動がセットにならなければ、問題を解決できない。この三つの中で、抽象的思考だけが、手法というものがないため、教えること、学ぶこと、伝達することが難しい。166p
とはいえ、発想≒抽象的思考ができるようになるための「手法のようなもの」も、いちおうは書いている。
・なにげない普通のことを疑う。
・なにげない普通のことを少し変えてみる。
・なるほどな、となにかで感じたら、似たような状況がほかにもないか想像する。
・いつも、似ているもの、喩えられるものを連想する。
・ジャンルや目的に拘らず、なるべく創造的なものに触れる機会を持つ。
・できれば、自分でも創作してみる。110p
だそうだ。発想が重要だ、あたらしい切り口を見つけるのが大事なことだ、というのは、今日ではそのへんのオッサンのスピーチでも言われているような凡庸なメッセージでしかない。
新しくなくていい、古い切り口を見つけろ、なんて言うやつはほとんどいない。
そして発想法というものは、何冊かその手の本を読んでみればわかるが、だいたい似たり寄ったりのことしか書いていない。
森が「手法のようなもの」として挙げていることも、たんに情報として見れば、よくあるものだ。
しかしそもそも「発想のしかたに関する情報」をいくら集めてもしょうがない。
とにかくやってみながらコツをつかんでいくしかない筋合いのものだから。
スポーツや武道と同じく、発想だとか文筆だって、訓練は必要だ。
「やりかた」だけ知ってもやらなかったら身につくわけがない。
やった人間にしか見えない風景が、必ずある。
にもかかわらず、「この発想法の本は○○と同じようなことしか書いていなかった」とか「あたりまえのことしか言っていない」と批判する手合いは絶えないのだけれど。
③つべこべ言わずにとにかくやれ。やってみないとわからないことが多い
そういうわけで「やれ」と。
やれば発想も浮かんでくる。
というのが森の考えである。
どうすれば思いつくんですか?
考えれば思いつきます。
考えなければ、思いつきません。
てなことは、むかしからよく言っていた。
「小説家になりたければ、書けばいい」という身もフタもないことを書いている『小説家という職業』をはじめ、「○○するにはどうしたらいいんでしょうか?」「やればいいのでは?」ということを、森はむかしから、ずーーーーーーーーーーーーーーーーっと言っていたのだ。
でも、なんだかんだいいわけをつけて、やんないのがほとんどの人間である。
僕が通っていたビジネススクールでは、最初のうちは「論理的な思考のしかた」とか「戦略の立て方」だとか"考える"方法(考え方)を学ぶ。
けれど応用・展開科目に入ると、「ほんとにできんの?」「どうやったらできる?」という"実行"フェーズのエグくてシビれる意思決定や人間関係の行動について、ケーススタディなどでゴリゴリ疑似体験させたり、自社課題についてリアルな変革プランを出させるような科目が増える。
もちろん、入学するときから卒業するまで(したあとも)「実践しろ」ということをうんざりするくらい言われる。あるいは実際に「やった」(起業なり、自社変革なり)ひとと触れあう機会を死ぬほど用意して、「こいつにできんなら俺でもできんじゃね?」とか「こうすればできるのか」あるいはしくじった失敗談にも山ほど触れさせながら、背中を押しまくる。
「考える」より「やる」こと、やりぬくことの方が、千倍くらいたいへんだ。
だから、ビビってやらないひとが多い。めんどうくさいし、ストレスもかかる。
やらないひとが多いということは、何かをやりはじめたひとに対して抵抗する力が大きい、ということだ。
それがさらに「やり抜く」ことを阻害する。
だからこそ、やる/やりぬくために必要なことを学ばせられるし、「やれるんじゃないか?」と思わせて一歩踏み出しやすくするような環境を、お互い触発させあってふんばれるような環境をつくっている。
よく森博嗣は、多くの小説の読者は情報として流して読んでいるだけだが、自分はリアルに「体験」するように読む、だからすごく時間がかかる、と言っている。
ビジネススクールでのケーススタディも似たようなものだ。
「『人件費をカットする』とか簡単に言うけど、お前ほんとにそれできんの? ずーっとお世話になってきた職人がいるのに、このひとほんとにリストラできるの? なんて言って辞めてもらうわけ?」「この場所にいたとして、どうやったらひとが動くかリアルに想像しろ。机上の空論を並べるな」と延々詰められる。くりかえすが、「考える」より「やる」方がはるかに大変だ。
その「大変さ」をリアルに、自分ごととしてイメージしないかぎり、ケーススタディに意味はない。森は近著でくりかえし「本を読んで勉強した気になっただけでは何も変わらない。行動しないと意味がない」というようなことを言っているが、ビジネススクールでも同じことを刷り込まれる。
「評論家になるな」と。
基本的にビジネスの世界では「評論家」という呼称は「口だけ番長」と同じ意味であり、揶揄と侮蔑が込められている。
僕は「文芸評論家」などと名乗るときは、自分を卑下して言うか、媒体的にそう言わないとおさまりが悪い場合だけしか言わない。
無責任な評論家ポジションからの物言いは、本当に恥ずかしい。
評論業なるものは、耐えがたきを耐え、しのびがたきをしのんでやる類いの仕事である。
やるひとは、えらい。
価値をうむのはそれをかたちにする行動であって「考え」だとか「アイデア」なんてもの自体には、そんなに価値はない。
……なんて、ドヤりまくってすみません。
ほらね、知らないひとから口で言われても「はあ?」ってむかつくだけでしょ?
だけどその裏に実績がある人間なら、尊敬されるわけですよ。
森博嗣のように。
④トラブルや失敗は起こるのが当たり前。それを前提にとにかくやれ
「やる」ことの重要性とつながることだけれど、たとえば森は『創るセンス 工作の思考』(集英社新書、2010年)に書いている。
「予期せぬ問題は必ず起こるものだ」という経験則は、実際にものを作ったことがある人ならば身に染みてわかっていることであり、それはもう「工作の第一法則」といっても良いほど普遍性を持っている。それらの問題をその場その場で解決しつつ、ものを作り上げていく。この経験を重ねるうちに、問題に対してどう対処すれば良いのかが、だんだん感覚的にわかってくる。もちろん、それは具体的な解決策ではなく、問題に向き合う姿勢のようなものだ。そして、それこそが工作のセンスであり、技術者のレベルを決めるものになる。43-44p
まずやってみる。
で、やってみると、思いもしなかったミスやトラブルが発生する。
それを前提にして動く。
失敗なんて、して当たり前。
そこからどうやって立ち直らせて物事を運んでいくかに、すべてはかかっている。
森が「技術のセンス」と呼ぶ
①上手くいかないのが普通、という悲観
②トラブルの原因を特定するための試行
③現場にあるものを利用する応用力
④最適化を追求する観察眼。
これらはすべて昨今のビジネス書で重要性がよく説かれていることだ。
たとえばティム・ハーフォードの『アダプト思考』という本には、中長期的な戦略立てるとか予測するのなんてムリだから、そっちも大事だけどもそれより「適応」(生物学的なニュアンスが多分に含まれている言い方)するのが重要だ! とある。
ベンチャー界隈でちょっと前にバズったフレームワーク「リーン・スタートアップ」も、同じような発想だ。
いきなりドカンと投資したり労力かけたり予測に力を割くんじゃなくて、ちっちゃく始めて仮説検証しながら、つまり失敗をいっぱいしながらやれ、ということを説いている。
もともとリーン・スタートアップの元ネタはトヨタ生産方式/リーン生産方式の「カイゼン」にあるわけだから、やりながら修正していけ、というのはべつにあたらしくもなんでもない。
考え自体(があたらしいとかふるいとか)よりも、やるかやらないか、の方が重要でありかつ難しい問題だ。
森が言っているのは、仕事ってのは暗記科目でもあるまいし、やりながらだんだんわかってくるもんだ。
という至極まっとうなことだ。
でもまあ、心が折れやすいひととかすぐ諦めちゃったり辞めちゃったりするひとも多い。
そりゃ、ひとは失敗なんかしたかないわけだし、トラブって誰かにブチキレられたり、揉め事を調整しなきゃいけなくなったり、失敗者の烙印を押されたりするのはイヤに決まってる。めんどくさい。だからこそほっといたら人間は、居心地のいい場所、考えてなくていい作業、ラクな方に流れたがる。やらなければ、失敗することもない。
この「失敗を前提に動け」ってのも、言うほど実行するのは簡単ではない。
だからこそ、「やったひと」と「やらないひと」「やれないひと」の差がめちゃくちゃ付く。
「やったひと」からすると「なんでやらないの? やることなんてだいたい決まってて、あとはミスりながらでも進めるしかないじゃん」というふうに見える。
よく「失敗したらどうするの?」と言うひとがいるが、ほとんどの場合は失敗を糧に、また何かやればいいだけだ。
だが、「やらないひと」「やれないひと」側は「いや、あのひとは特別だから」or「私は○○なので、ちょっとできません」「あいつらのせいでウチの組織はダメなんです」といいわけし続け、やりたかったことややるべきことを何も成し遂げずに一生を終える。
もちろん人生なんてひとそれぞれだし、何を大事にするかもひとりひとり違うのだから、それはそれでいいと思う(それ以前に赤の他人の人生なんて、知ったことではない。興味もない)。
ただ、森博嗣は「やる」生き方を選んだだけだ。
・夢を見たいお年頃/タイプ/タイミングで読むにはキツすぎる
最近の森博嗣がエッセイで言っていることは、社会人を10年くらいやるとめちゃくちゃよくわかる。
なにがしか成し遂げたいことがあるひとにかぎるけれど。
現実で何かやりぬいて成果を出すことは、大抵の場合、たいへんだ。
それがまだわかってないひとたち、チートができると信じたいひとたちにとっては、「やれ」とかさあ、そんな当たり前のこと言わないでもっと役に立つ情報くれよホントは隠し持ってんだろ? と思うんだろう。
だけど、仕事で考えなきゃいけないポイントとか知らなきゃいけない情報なんて、そんなに多くない。
それでも考えることも情報を得ることすらできないひともいるけど、そういうひとはどうしようもないので、知らん。
くりかえすが、考えるフェーズのことよりも、考えたことを実行していくフェーズの工数がやたらと多かったり、予定が狂いまくったり、人間関係でストレスがあったり、失敗が続いてつらかったり、そういう「やる」部分における苦労の方が多い。
もちろん、いくらやってもできないような、要領がわるいひともいる。どんな能力でも個人差はある。
そうなると逃げたくなるときもあるし、逃げちゃうひともいる。
逃げが入っているひと、逃げたいタイミングに手に取るには、最近の森博嗣のエッセイは、キツい。
読者を鼓舞するわけでもドリームを与えてくれるわけでもない。
ただ「現実はこうだし、やるしかないに決まってる。やれば? それしかないでしょ」と突きつけるだけだから。
最近の森エッセイは、読者が抱えている問題や目標に対して、シビアかもしれないけれど意味のあるソリューション(のヒントになるツール)を提供している。
対してむかしの森の小説は、不安や悩みやストレスを抱えている読者に対して対処療法的に逃避できる物語の時間を与えてくれたと思うし、今もあたらしい読者に対して、それを提供しているのだろう。
前者でどうにかできちゃうひとは、数少ない。エッセイよりも小説の方が何倍も売れるのだし、エッセイを読んだところで実際に行動にうつしてみるひとは、すごく多く見積もって10人に1人くらいだろう。
つまり森の小説の読者の100分の1もいないだろうし、やりぬいて結果を出すひとは1000分の1もいればいいほうだと思う。
だからこそ、森のかつての小説は、必要だったのだと思う。
コーピングの手段として、ひととき浸れる物語が。
……なんて他人事みたいに言っているが、かつての僕にとってはそういうものだったのかな、と、自分でも感じているから、こう書いている。
少なくとも、僕にはもう、いらないけれど。
サポートいただいたお金は次の調査・取材・執筆のために使わせていただきます。