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高野友治語録(6)

私は運命とか宿命という言葉がきらいである。この言葉には、人間の自由を束縛するひびきがあるからである。
 ところで実際には、運命とか宿命というものはあるようである。はやい話が、白人の子に生れたり黒人の子に生れたり、黄色人種の子に生れたり、これは人間個人の自由選択のきかない世界である。牛に生れたり、馬に生れたり、虫けらに生れたり、これは人間を含めて生きとし生けるものの介入出来ない世界である。そうすると、運命とか宿命の存在を否定出来ないようである。
 それでも私は運命とか宿命という言葉はきらいである。そういう考え方もきらいである。私は運命の存在は認めるが、しかし運命はかわるものであり、かえるべきものであると思っている。そこに人間の生きる喜びがあり、生きがいがあると思っている。

『神と人間との間』pp.260-261

人間はあまりにも人間本位に自然を考えすぎているようだ。自然の中に存在するものは、すべて存在する理由があって存在し、それぞれの役割を果たしているものらしい。
 そうすると天井裏をかけ廻って、睡眠の妨げをする鼠は何の役を果たしているのか。それはわからん・・・
 ・・・自然そのものの大きい長い眼から見るならば、どうなるであろうか。自然に一つの心があって、その心にそうて自然は運営されているのではないか。その中に人間の営みもあるのではないか。その中に鳥の営みも、蛇の営みも、鼠の営みもあるのだ。
 その一つの心が分かったら、人間の心と、鳥の心、蛇の心、鼠の心と話合いが出来るのではないか。夢だといわれるかも知れんが、そんな世界が実現したら、この世は今よりも何倍もたのしくなるのではなかろうか。

『神と人間との間』pp.268-269

相反するものの共存という矛盾が、新しいものを創造するエネルギー源となる・・・
 相反するものの共存、それが自然の姿ではないだろうか。それが歴史を動かして来た原動力ではないか。実際問題として、相反するものの共存ということは嫌なことだ。呉越同舟という言葉がある。嫌なんだけれども、それがよく見られる現実ではないか。
 夫唱婦随の夫婦がよいとされるが、また鬼の亭主に仏の女房といわれる夫婦もある。逆に亭主が仏で女房が阿漕という夫婦もある。相反するものの共存、それが夫婦の本当の姿ではないかと思うのである。夫唱婦随といっても、夫婦がまるっきり同じ考えだということはないはずだ。
 夫婦は一心同体などといわれるけれども、もともと別なのである。人間として同じであっても、男と女の性が違うのである。身体も違い、人間としての役割も違うのである。性格も違うはずだ。相反するという言葉は適当ではないかも知らんが、そうもいえるのではないか。その相反するものが共存しているのが夫婦ではないか。
 相反するものが共存している以上、そこに矛盾があるのは当然である。その矛盾が結ばれて一つになるところに、新しい生命が誕生するのではないか・・・
 相反するものの共存ということが、自然の姿ではないか。
 天があって地がある。水があって火がある。夜があって昼がある。夜ばかりでも困るし昼ばかりでも困る。冬ばかりでも困るし夏ばかりでも困る。水ばかりでも困るし、火ばかりでも困る。共存ということが自然の心ではないか。
 相反するものを倒し、殺し、自分一人になっては、自分一人も立たなくなるのが天の理ではないか。
 共存のためには、相手の存在意義を十二分に認めてやらねばならぬのだ・・・
 善悪という。悪を殺せという。殺さんで悪を善にかえる道はなきものか。悪も役に立つ場合もある。毒が薬になる場合もある。用いかたの問題、導き方の問題ではないか。
 嫌な奴を倒すのではない。嫌いな奴の中に、自分を成長さすものを汲み取って行くのである。

『神と人間との間』pp.272-274

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