教典第9章「よふぼく」(3)

教会とは

親神様のご守護を頂戴し、教祖にたすけられた人々が、その御恩に応えたいと寄り集まって心を結びあい、親神様の思召に添いきって世界たすけへの道を歩む決意のもとで、設立を願い出たところに、ご存命の教祖からお許しを頂戴して成立します。

  • 道を求める人々が寄り集まる

  • 親神様の思召に添いきって世界たすけへの道を歩む決意を持つ

  • 願い出て、お許しを戴くこと

    • おつとめをつとめる場所(教会の場所)

    • おつとめの御目標(御目標様)

    • おつとめを芯となってつとめる人(教会長)

    • おつとめをつとめる日(月次祭日)

教会におけるよふぼくの役割

親神様、教祖を目標により集う人々が、ぢばの理に添い、会長を芯として、心を一つに結びあい、互いにたすけあい、談じあい、勇ませあって一手一つに信心の道を歩むことが欠かせません。

Ask not what your church can do for you. Ask what you can do for your church. 

三年千日について

難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向うの守護をして居る事を知らん。これ分からんような事ではどうもならん。ひながたの道通れんような事ではどうもならん。長い事を通れと言えば、出けんが一つの理。世界道というは、どんな道あるやら分からん。世界の道は千筋、神の道は一条。世界の道は千筋、神の道には先の分からんような事をせいとは言わん。ひながたの道が通れんような事ではどうもならん。どんな者もこんな者も、案ぜる道が見え掛けてはどうもなろまい。一日二日経ったらと言うたら、どんな事やと思て居たやろ。ちゃんとしてやる道は見るも同じ事。ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや。十年あとの道は、どんな事を説いても、いか程説いても、そんな事は無い、何を言うやらと言うて居たのや。国々の者やない。そこからそこの者でも分からなんだ。なれど十年経ち、二十年経ち、口に言われん、筆に書き尽せん道を通りて来た。なれど千年も二千年も通りたのやない。僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しのや。ひながたの道より道が無いで。

おさしづ 明治二十二年十一月七日


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