しかし人間は弱い存在である。まだまだ未成人の域にあるようだ。それで、親なる神のふところから、なかなか離れられないのである。離れ、抜け出して、新しい「よふきゆさん」の世界づくりを神は期待されるのだが、人間はそこまでゆかんのである。
親なる神は子供の出世待ちかねる、とおっしゃる。また、無理にどうせといわん、とおっしゃる。それでも世界だすけを急がれているのである。「よふきゆさん」の世界づくりを急がれているのである。
実際問題として、人間は、神のふところに抱かれながら「よふきゆさん」の世界づくりをやって来たし、やっているのだ。
人間ねむっている間は、自分が自分でないのである。神のふところに抱かれているのである。起きているといっても、現実ばなれした空想の中に生きている人がいる。神の世界への憧れである。
正直なところ、人間にとって、「よふきぐらし」の世界づくりは難しいのである。人間は神のふところに抱かれて、神の与え給うお恵みをいただいて生きている。しかるに、自分で働いて自分で食わねばならないとか、新しいことを考えて、よりよく、より強く生きねばならないとか、自分以外の他のものとの共存互恵を考えねばならないとか、天災地変の困難の中を生き抜かねばならないとか、となると、人間の営みは辛いのだ・・・
人間の世界は辛いといえば辛いのである。親なる神は、その中にこそ楽しみがあるのだと教え給うのだが、人間は辛いとすぐ親のふところに帰ろうとするのだ。辛さから脱れようとし、親を思うのだ。