見出し画像

高野友治語録(5)

だから、神と人間とは、深い関係はあるが、同質とか、継続とか分離ということは考えられない。そこで、私は、神と人間とは違うと考えるのである。
 したがって、人間が神になろうとしたり、神の真似をしたり、やたらに神の世界に入ろうとすべきではなく、人間は人間として、人間の本分を全うするよう努力すべきだと思うのである。
 神の世界と人間の世界は違うのである。

『神と人間との間』p.45

しかし人間は弱い存在である。まだまだ未成人の域にあるようだ。それで、親なる神のふところから、なかなか離れられないのである。離れ、抜け出して、新しい「よふきゆさん」の世界づくりを神は期待されるのだが、人間はそこまでゆかんのである。
 親なる神は子供の出世待ちかねる、とおっしゃる。また、無理にどうせといわん、とおっしゃる。それでも世界だすけを急がれているのである。「よふきゆさん」の世界づくりを急がれているのである。
 実際問題として、人間は、神のふところに抱かれながら「よふきゆさん」の世界づくりをやって来たし、やっているのだ。
 人間ねむっている間は、自分が自分でないのである。神のふところに抱かれているのである。起きているといっても、現実ばなれした空想の中に生きている人がいる。神の世界への憧れである。
 正直なところ、人間にとって、「よふきぐらし」の世界づくりは難しいのである。人間は神のふところに抱かれて、神の与え給うお恵みをいただいて生きている。しかるに、自分で働いて自分で食わねばならないとか、新しいことを考えて、よりよく、より強く生きねばならないとか、自分以外の他のものとの共存互恵を考えねばならないとか、天災地変の困難の中を生き抜かねばならないとか、となると、人間の営みは辛いのだ・・・
 人間の世界は辛いといえば辛いのである。親なる神は、その中にこそ楽しみがあるのだと教え給うのだが、人間は辛いとすぐ親のふところに帰ろうとするのだ。辛さから脱れようとし、親を思うのだ。

『神と人間との間』pp.49-50

戦争と平和、それに対する宗教家の役割などの問題を問われると、私はいつも横の幸福おちうことを強調したくなる。
 横の幸福とは、縦の幸福に対する横の幸福である。縦の幸福とは、わが家わが身の幸福から始まって、親孝行、ご先祖への奉仕、下へさがっては子どものしあわせ、孫のしあわせ、ご一家ご一門の幸福、わが党の幸福、わが郷土の幸福、わが会社、わが国土のためなど、自分を中心にした縦の系列の思考をいう。
 それに対して横の幸福は、世界人類の幸福、なによりも先に、世界の人類の幸福を考える思考を意味する。
 世界の人間はひとしく神の子と考える。さすれば世界の人間はみんな兄弟姉妹である。寝てもさめても兄弟の幸福を第一に考える。世界の人間がみんなそんな考え方になったら、この世の中に謀反はなくなり、ほんとうの意味の平和が出現するのではないかと信じ、ひとにも説き、かぼそい実践と言われるかも知れぬが、実践してきたつもりである。それが宗教家の、戦争と平和に関する質問に対する答えだと思っている。

『神と人間との間』p.84

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?