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「天理教の女性観」(『神と人間との間』より)

明治十五年ころの話。

 大阪のある青年が、奇蹟的なたすけをいただいて、教祖のところへお詣りに行った。このとき、教祖は次のような話をした。

「くにとこたちのお姿は、頭が一つで尾が一つの竜やで。をもたりさまのお姿は頭が十二あって、尾が三つあって、先に剣のついている大蛇やで」

 言葉はそれだけだったという。青年は何が何やら分からず、茫然とした気持で大阪へもどった。この青年は後に、ある大教会の会長になり、天理教教会本部の役員になった人である。

「教祖のお話は、すっきり分かるような話ではなかった。しかしそれから五十年、六十年と人生を通っている間に、いろいろのことにぶつかり、なるほど、なるほどと一つずつ分かってきたのである

と語ってくれた(氏自身の解釈は語られなかった)。

 私がこの話を聞いたのは、昭和七年のことである。もちろん意味は分からなかった。しかしそれから四十七年の歳月がたって、私もいろいろ人生行路の出来事にぶつかり、そのつど、この言葉が脳裡にひらめき、私を導いてくれた。私は分かったなどとは思っていないが、私の頭の中には私なりに、一つの理解(もの)ができている。

 私は教祖のこのお話は、人間の男の性格、女の性格を教えられたものではないかと思っている。もっと突っ込んで考えるならば、生きとし生けるものの男的なるものの性格、女的なるものの性格、もっと突っ込んで言うなら、物質を構成している分子・元素・原子・電子・粒子、そのなかにある陰なるものと陽なるものの性格まで表徴されているのではないかと思っている。そして宏大無辺な宇宙に、この二つの性が流れているのではないか、と思うのである。

 これは、あくまで私個人のさとりである。そういう意味で読んでいただきたい。

 たしかに男は頭が一つで尾が一つの竜である。首尾一貫という。筋が通ることを大切にするのである。善悪、真偽、美醜というも、筋が通ることが大切なのである。頭が一つで、尾が一つであることが大切なのである。上へ向かって進むのである。明日をつくろうとするのである。

 をもたりさまは、女をシンボライズした(象徴した)神だと思う。

 この神は女であり、母親である。頭が十二あるというのは、人間を慈しみ、いろいろ心を配られる姿の象徴だと思う。その理で一年は十二か月としてあり、一日は十二時(どき)に分けられたのだと(天理教の)先人たちは説いている。(昔は一日が十二時どきであった)

 一年を十二か月に分けて、一月には一月のめぐみ、二月には二月のめぐみ、十二か月とりどりのめぐみをお与え下されて、人間を楽しませて下される。春には春の花、秋には秋の花を見て下され、人間に喜びを与えて下される。それで人間に勇みが湧き、人間が成長する。

 人間の女・母親も同じで、子ども十人あれば、十人それぞれ年齢も違い、好みも違い、目標も違う。母はそれぞれ子どもの心に応じて、それぞれの喜びを与えて育ててくれる。この理を象徴して頭が十二あるというのではないか。

 それで子どもが育つ。

 男は頭が一つで尾が一つであるから、万事一律平等である。都会も田舎も、男も、女も、老人も、子どもも、病人も、壮者も、一律平等の人間として取り扱う。それでも人間は育つけれども、それが本当の育てかただとは言えないと思う。

 人間には人間全体としての天の使命があるとともに、一人ひとり皆それぞれの使命もあると思う。男は全体の使命に生きようとする性が強く、女はそれぞれの使命を生かそうとする性がつよいのではないか。

 その男的なものと、女的なものとが、五分五分のバランスを保つところに、この世の存在の在り方があるのではないか。今の世界は男的なものがはこびりすぎている。

 さて女の性格の話はまだ終わっていない。

 をもたりさまのお姿は頭が十二あって、尾が三つあるという。尾が三つとは何を表徴しているのか。

 三は「火・水・風」の理に解く。世界では「天・地・人」の理に解く。いずれにしても自分のある現実の存在なのだ。男があって女があって子どもがある。それで三であろう。三は生きて動いている現実の世界である。

 尾は魚類でみるなら推進力をつくるものであり、方向を決めるものである。ライオンや虎の尾、鼠の尾、狐の尾、いずれも方向をきめる大切な道具である。しかも、をもたりさまの場合は、尾が三つあるという。

 燕の尾は一つだが、先が二つに分れていて、別々に使っている。それで左右上下自由自在に動けるのではないか(というより鳥類そのものが地の性だと思われる)。

 尾が三つあるということは、自由自在に方向を変えて進むことができるという意味ではなかろうか。

 今の世の中の飛行機でも、汽船でも、自動車でも、まっすぐに突っぱしって、急に方向転換はできないのである。頭が一つで、尾が一つの男性的志向から生れた文化であるためではなかろうか。もし女性的志向から生れたものなら、飛燕のごとく、胡蝶のごとく、自由に方向を変えて、衝突のないものを作られたのではなかろうか。

 次に、先に剣がついているという表現がある。これは何を意味するのか。性的に、女性は男性が何万何千万と慕い寄ってきても、一つしか受けとめないという性質がある。それを表徴したものであろうか。また男は絶交といって別れても、何かの機会に仲直りすることもある。女の場合は、切ったといったら生涯切りっぱなしである。それをいましめられたものか。もっとも切ることも、この世の営みの上で大切な機能なのだ。このところは私には分からない。

 男と女と、なぜ神は違ったものをつくりたもうたのか。

 われわれは、この質問の前に、次の質問を考えなければならない。即ち、人間はなぜ死ぬのであろうか、と。

 しかしこの質問の前に、もう一つの質問が先行するはずである。即ち、人間はなぜつくられたのであろうか。人間の目標は何であろうか、という問題である。

 これについて、天理教の教理では、次のように説いている。

 この世の元はじまりに、神がおいでになった。神だけでは、何のたのしみもない。それで神は人間をつくり、人間によふきゆさん(陽気遊山)を教え、そのよふきゆさんをする姿をみて、神もともにたのしみたいとお思いになって、人間をつくりたもうた。

 この教理から言うと、神の望みは、よふきゆさんの世界を見ることであり、人間の目標は、よふきゆさんの世界をつくることとなる。

 ここによふきゆさんの世界とは、どんな世界という問題が出てくる。私は永遠につくられてゆく世界だと思っている。たとえば男と女が結ばれて新しい生命がつくられ、そして永遠につづいてゆく。これもよふきゆさんの世界づくりの一つの例であろう。

 男と女という、違ったものが、一つになるということ、そのことが喜びではないか。そして、そこに新しい生命が生れてくる。それも一つの喜び、そして年とともに成長し、新しいものを作り出してくれる。そこに人間の喜びがあり、神の喜びがあるのではないか。

 生命力があふれて生れ、生命力がなくなって死ぬ。新陳代謝、死ぬものもあるが、生れるものもある。全体としてみるとき、この世はまた次の世につながっているのではないか。死あるゆえにこの世は常に新しく、生の充足があるのではないか。そう考えると、死もまたよふきゆさんの世界づくりの一つのプロセスとなる。

 男と女が別々に存在しているのではない。一対一の対になって存在しているのである。夫婦が単位になって、この世が成り立っている。

 男と女が違うといっても、人間として一つである。生物学の上で、男と女の違うのは、遺伝子の結合の上で、一部分の表裏によるという。男と女とは、まるっきり違った存在ではないのだ。人間としてなすべき根幹は一緒なのだ。

 ただ、新しい生命の創造、新しい喜びの創造、新しいエネルギーの創造、日々常に新しい世界の創造のために、相反するものの存在が必要なのだ。同質のものの共存からは、新しいエネルギーは生れてこないのだ。

 男は、頭が一つ、尾が一つの竜に表徴される。

 女は、頭が十二、尾が三つ、先に剣のついた大蛇に表徴される。

 竜は天に昇るもの、蛇は地に這うもの。天は思惟であり、明日をつくるもの。地は現実である。いかに現実の中にそれぞれの特性を生かしてゆくか。そこに女の道があるのではないか。それでは世界の国々の女たちがどんなふうに生きてきたか。どんなふうに生きているか。それを知りたい。

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