教典第5章「ひながた」(3)

たすけづとめ

「御苦労」について

教祖があるいは警察なり監獄へお出ましになることを「御苦労」と呼んでおります。われわれの気持ちも含めて「御苦労」と呼んでおります。それから秀司お祖父さんなり、あるいは眞之亮の父なり、その他側なる人達が、警察へあるいは監獄へ行くような場合には、われわれはこれを召喚されたとか、あるいは留置になったとか、かような言葉を使って、ひっくるめてこれをふしと言っております。とくに教祖の場合のみに、御苦労という言葉で、いわゆる高山布教をしていただいた。これは今度の編纂にあたりまして、とくにそういうような言葉を、意識して使い分けしておりますから、さようお含みいただきたい。

中山正善『第16回教義講習会 第一次講習録抜粋』pp.263-4

ある日のこと伊三郎父が教祖に、「われわれ子供を思うていただくなればこそ、こんなにも教祖にご苦労をおかけ申して、誠に申し訳もないことでございます」と申し上げられました。すると、
「わしは苦労でも何でもないねで、人に頼まれてしていることやったら、またやめるということもあるやろうが、人に頼まれてしていることやないもの、やめるにやめられんがな、苦労でもなんでもないねで」
とこうお聞かせくだされました。

桝井孝四郎『みかぐらうた語り草』p.133

激しさを増す迫害と教祖のご態度

「親神が連れて行くのや」
「ふしから芽が吹く」
御苦労は17,8度に及ぶ

最後の御苦労(明治19年2月)

 さて、夜も更けて翌十九日午前二時頃、教祖を取調べ、十二日の拘留に處した。その様子を、この時、共に留置された眞之亮の手記によれば、 教祖様警察御越しなりし當夜二時頃、取調べを受け玉へり。神憑りあ りし事、身の内御守護の事、埃の事、御守りの理を御説き被成れたの である。尚仰せ玉へるニハ、
 「御守りハ、神様がやれと仰せらるゝのであります。内の子供ハ何も存じません。」
申玉へり。
と。つゞいて午前三時頃、桝井と仲田の兩名が取調べられた。二人とも、御守護を蒙りし御恩に報いるため、人さんにお話するのであります。と、答えた。午前四時頃から、眞之亮を取調べた。眞之亮は、お守りは私がやるのであります。私は教導職で御座ります。教規の名文によってやります。老母は何も御存じは御座りません。と、答えた。これは、この前年に眞之亮以下十名の人々が、教導職の補命を受けて居たからの申開きである。
 その夜御一同は、そのまゝ分署の取調所の板の間で夜を明かされた。教祖は、艮(東北)の隅に坐って居られた。お側にはひさが付き添うて居た。眞之亮は、坤(西南)の隅に坐って夜を明かした。取調所の中央には、巡査が一人、一時間交替で、椅子に腰をかけて番をして居た。桝井、仲田は、檻にいれられて居た。教祖は、眞之亮の方へ手招きをなさって、
 「お前、淋しかろう。こゝへおいで。」
と、仰せられた。これに應えて、眞之亮は、こゝは、警察でありますから、行けません、と、お側に付いて居るひさから申上げて貰った處、教祖は、
「そうかや。」
と、仰しやって、それからは、何とも仰せられなかった。
 このような嚴しい徹夜の取調べが濟んで、まどろまれる暇も無く、やがて夜が明けて、太陽が東の空に上った。が、見張りの巡査は、うつらうつらと居眠りをして居る。巡査の机の上につけてあるランプは、尚も薄ぼんやりと灯り續けて居る。
 教祖は、つと立って、ランプに近づき、フッと灯を吹き消された。この気配に驚いて目を醒ました巡査が、あわてゝ、婆さん、何する。と、怒鳴ると、教祖は、にこくなされて、
 「お日様がお上りになって居ますに、灯がついてあります。勿體ないから消しました。」
と、仰せられた。
 夜が明けると、早朝から、教祖を、道路に沿うた板の間の、受付巡査の傍に坐らせた。外を通る人に見せて、懲しめようとの考えからである。その上、犯罪人を連れてくると、わざと教祖の傍に坐らせたが、しかし、教祖は、平然として、ふだんと少しもお變りなかった。
 夜お寝みになる時間が來ると、上に着て居られる黒の綿入を脱いで、それを被ぶり、自分の履物にひさの帯を巻きつけ、これを枕として寝まれた。朝は、何時もの時刻にお目醒めになり、手水を濟まされると、それからは、一日中、姿勢を崩さず坐って居られた。こうして、櫟本分署に居られる間中、一日としてお變りなかった。ひさは、晝はお側に、夜は枕許に坐って兩手を擴げお顔の上を覆ったまゝ、晝夜通して仕えつゞけたが、少しも疲れを覺えなかった。
 食事は、分署から支給するものは何一つ召上らず、ひさが自分に届けられる辨当とすり替えようとしたが、これは巡査に妨げられて果さなかった。又、飲みものは、梶本の家から鐡瓶に入れて運んだ白湯のみを差上げた。心のこもらぬものを差上げるのは畏れ多いと憚ったのと、一つには、教祖の御身の萬一を氣遣う一念からであった。
 教祖が、坐って居られると、外を通る人は、何と、あの婆さんを見よ。と言う者もあれば、あの娘も娘やないか。えゝ年をして、もう嫁にも行かんならん年やのに、あんな所へ入って居る。と言う者もあった。格子の所へ寄って來て、散々惡口を言うて行く者もあった。しかし、後年、ひさは、わしは、そんな事、なんとも思てない。あんな所へ年寄一人放って置けるか。と、述懐して居た。
 しかし、教祖は、何を見ても聞いても、少しも氣に障えさせられず、そればかりか、或る日、菓子賣りの通るのを御覧になって、
「ひさや、あの菓子をお買い。」
と、仰せられた。何なさりますか。と、伺うと、
「あの巡査退屈して眠って御座るから、あげたいのや。」
と、仰せられたので、こゝは、警察で御座りますから、買う事出来ません。と答えると、
「そうかや。」
と、仰せられて、それから後は、何とも仰せられなかった。
 分署にお居での間も、刻限々々にはお言葉があった。すると、巡査は、のぼせて居るのである。井戸端へ連れて行って、水を掛けよ。と、言うた。しかし、ひさは全力を盡くしてこれを阻止し、決して一回も水をかけさせなかった。
 或る日のこと、
「一ふしく芽が出る。・・・」
と、お言葉が始まりかけた。すると、巡査が、これ、娘。と、怒鳴ったので、ひさが、おばあさん、く。と、止めようとした途端、教祖は、響き渡るような凛とした聲で、
「この所に、おばあさは居らん。我は天の将軍なり。」
と、仰せられた。その語調は、全く平生のお優しさからは思いも及ばぬ、莊重な威嚴に充ちくて居たので、ひさは、畏敬の念に身の慄えるのを覺えた。肉親の愛情を越えて、自らが月日のやしろに坐す理を諭されたのである。
 又、刻限々々にお言葉があって、
「此處、とめに來るのも出て來るも、皆、親神のする事や。」
と。教祖の御苦労については、
「親神が連れて行くのや。」
と。官憲の取締りや干渉については、
「此處、とめに來るのは、埋りた寶を堀りに來るのや。」
と。又、拘留、投獄等の出来事に際しては、
「ふしから芽が吹く。」
と、仰せられ、その時その事柄に應じて、眼の前の出来事の根柢にある、親神の思召の眞實を説き諭して、人々の胸を開きつゝ、驚き迷う人々を勇まし勵まして連れ通られた。
 この冬は、三十年來の寒さであったというのに、八十九歳の高齢の御身を以て、冷い板の間で、明るく暖かい月日の心一條に、勇んで御苦労下された。思うも涙、語るも涙の種ながら、憂世と言うて居るこの世が、本來の陽氣ぐらしの世界へ立ち直る道を教えようとて、親なればこそ通られた、勿體なくも又有難いひながたの足跡である。

『稿本天理教教祖伝』より

教祖の身上を台にしてつとめ急き込み

明治二十年陰暦正月二十六日

十一に九がなくなりてしんわすれ
 正月廿六日をまつ
このあいだしんもつきくるよくハすれ
 にんぢうそろふてつとめこしらゑ

おふでさき 第3号73-74

今からたすけするのやで

さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

おさしづ 明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)

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