向こう岸に泳ぐ(続・射精論)
鳥居論を再開する。たぶんちょっと違う話になっていく気がしている。そもそもの始まりはこの記事。
さっきのツイートがこれ。
鳥居の感覚は持続しているけど、ちょっと変化が起こっている。
1月の始めに上野で友人とランチをして、帰りに横にある神社に初詣をしたのだが、その時、テキパキと神社内を動く友人に比べて、俺は作法がまるでわからなかったのだ。それでも鳥居をくぐっていた俺は一体何をやっていたのか。俺の鳥居をくぐる感覚がそもそも間違っていたのではないかという疑念がむくむくと湧いてきた。
鳥居をひとまず横に置いて、射精感を振り返る。
前から言っているように、向こう岸へ泳ぎ渡るような感覚がまずあった。
それは精子の旅の象徴かもしれないし、魚類から両生類への進化の記憶かもしれない。
撮影現場はそんな水泳の日々だった。
溺れたり、何度も泳ぎ切ったり。
鳥居をくぐる感覚を棚上げしても、この向こう岸に泳ぐ感覚だけは間違いがなかった。(つづく)