星の光という贅沢

高齢化が進む中山間地は日本中どこでも見られる光景だろう。
だから見慣れてしまっていて別に気にもとまらない。
僕のいる場所もそんな状態で、どこもかしこもお年寄り。
集落全体で110戸ほどに250〜300人が暮らしているが、平均年齢はどれくらいなんだろう?
65〜70歳に収まっていれば若いほうだと思う。
日本の農業従事者の平均年齢は66.8歳(2019)。
いや、60代はまだ若い気がする。中山間地を見渡せば。
団塊の世代が70歳なので、集落の平均年齢はきっとそれくらいだろうか。
僕のいる地域では団塊の世代が元気なので。

年々荒れた田畑は増えていく。
農業で生計を立てている家などほとんどない。
110戸の集落内で4、5軒。そのうち若い世代が農業をやっているのは3軒。
あくまでも農業だけの話で、山林に手が回っている家は無いように思う。
農地は維持できても、山林は…。
徐々に集落としての体力が落ちていっているのはここに来て7年の僕にも分かる。
どこかに子供が産まれたという話も聞かない。
そもそも子育て世代がいない。

限界集落となり廃村となることも現実味を帯びてくる。
今の60代から下の世代が劇的に数が少ない。
60代までの世代で持っているようなものだ。
僕は仕事柄あまりご近所づきあいをする時間は無いけれど、時間が無いのは言い訳で、本当はご近所づきあいと距離を置いているのかもしれない。
そう思い当たる節がある。
例えば以前から考えていることに、祭の矛盾がある。

例大祭というのは秋にやる。
豊作を感謝し、神様に収穫物をお供えする。
僕はそういう祭があまり好きじゃ無い。いや、なんだか寂しい。
豊作を感謝する理由が、今の集落にはほとんど感じられないからだ。
多くの家は農作物の豊作を願ったり、喜んだりすることはもう無いだろう。
それでも、大きな旗には豊作祈願と書かれ、恭しく神事が執り行われ、祝いの席が設けられる。
神様を載せて走る山車は引手が少なくなって簡略化され、境内をぐるっと廻るだけ。昔は村中を走ったし、そのさらに昔は別のお宮からここのお宮まで走ったらしい。神事は農耕と結びついていて、暮らしは農耕と共にあったので、信仰心は生活に繋がっていた。

暮らしと農耕が繋がっている側にいる僕としては、意味を失い、形を残している祭の存在は複雑だ。
農耕がいかに廃れたのか、それを考えさせられてしまう。
祭の中で奉納する神楽とも、素直に向き合えなくなっている。
以前は好きで練習に参加していたけれど、いつからか意義が見出せなくなってしまった。
このまま祭を続けながら農耕が廃れていくのを見ていくのだろうか。
それでは神楽を楽しく奉納する気持ちになれない。
そのうちに足が遠のいてしまった。
その反動でか、より農業に打ち込むようになってしまった。神楽や、本来あったであろう祭に思いを馳せながら。
神事と農耕を結びつけ、農業は崇高な行ないであったはずだと思い込み、その幻想からも、農業からも、離れられない。
何百年、何千年と続いた暮らしのなかの農耕が、たった数十年で様変わりすることの、急な変化を認めたくないのかもしれない。
人は地から離れるはできないという原理原則に忠実に生きたい考えが、僕の信仰心なんだろう。

それはそうと、今日、気がついてしまったんだ。

本当にこのままでいいのか?
このまま何十年かして廃村になってもいいの?
じわじわと変化するため誰も喪失感に打ちひしがれることはないかも知れない。
それでも確実にそこに向かっているとしか思えない状況を、引き続きじわじわと進行する過疎化を、受け入れていけばいつか後悔しないだろうか?

今、集落では公民館の建て替えについて協議を進めている。
耐震基準に合わなくなったため、建て替えようということだ。
現在の耐震基準に合う建物に建て替える。
この先30年、40年は使えるはずだ。
そういう協議を進めている。
しかしその場で、このような話はされない。

「ところで40年後にこの集落はどうなっているんだ?」

廃村にはしたくない。歴史の古い村だ。その長い歴史がたった数十年で途絶えるなんてあってはならないことだと思う。

15年前に、僕は日本中を自転車で旅していた際、山中で突如遭遇した廃村の記憶も、廃村への恐れをより鮮明にしているのかも。

そろそろ、そういうこととも向き合わなければいけないタイミングになってしまったんだと思う。

公民館建設委員会の場でもいいと思う。

皆さん、この地域はこれからどうなっていくと考えていますか。

話をすることで、何かが動き出すかもしれない。

極東の島の、小さな田舎の、小さな集落が、残るか残らないか。
残すとしたら、どんな生き残り方があるのか。

見えなくなりそうな淡い星の光が好きなのだけど、それに似た儚さがある。
この集落が消えるか消えないか。それは少しの雲りや明かりで見えなくなってしまう僅かな星の光に似て、儚くて繊細。
そういう光を消さないよう、そっと静かに見ていたいというのは、おそらくとても贅沢だ。

僕は、その贅沢に挑戦したくなってきているのかもしれない。


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