見出し画像

悲しみに立ち向かうために

マイメロはわかっている

先日、あるツイートにはっとさせられた。

スクリーンショット 2021-12-27 1.04.38

佐久間レイ @REISAN_no_HEYA 午後11:33 · 2021年12月15日

あぁ、マイメロはわかってるなぁと思った。孤独の正体をわかっているから、適切なアドバイスもできてしまうのだろう(→マイメロセラピー)。

孤独だから「かわいい」を求める

佐久間さんが原宿に連れてきた15歳の女の子は、そこに集っている人たちが孤独であることを見透かした。その通りだと思う。でもなんでそこに孤独な人たちが集まるのか考えていた。そこに、孤独を癒す存在があるからなのではないだろうか、という仮説に至った。

原宿ファッションはかわいい。Kawaii文化として世界に知られている。でもそれを着こなしている女の子達は、いつもどこか寂しげに見える。孤独を抱えているからなんだと思う。

サンリオの世界も同じ。かわいいからこそ、孤独の寂しさを癒す力を持っているのだと思う。私もその孤独を癒す存在に引き寄せられて、サンリオの世界にはまったのだと思っている。

「かわいい」論は過去の記事に書いているので、良かったら読んでもらいたい。
「かわいい」のもつ力
サンリオの寂しさ・悲しさ・みんな仲良く・思いやり
「かわいい」は現実からの救い

復興しつつある被災地域

先日、福島県富岡町を訪れた。東日本大震災で津波の被害を受け、さらに福島第一原発事故で避難を余儀なくさせられた町だ。未だ帰宅困難地域を抱えている。しかし、避難指示が解除された地域もあり、駅舎も建て直されて常磐線も開通し、徐々にではあるが復興が進んでいる。

画像2

夜ノ森駅の駅前通りを歩くことができた。避難によって住むことができなくなった家や使われなくなった店舗は、一部が崩れた形で今も残っている。すでに解体を終えて更地になっている土地も多い。まだ道路と民家の間にバリケードが張られているが、来年1月26日から規制が緩和され、バリケードは撤去されるとのことだ。少しずつだが、前に向かって進んでいることは、素直に喜びたい。多くの人の悲しみと、それを克服しようとする前向きな気持ちを、ここを歩きながら感じた。

今も、工事関係の車両は多く通り過ぎるが、歩く人の影は少なかった。まだ寂しさが残っている。
駅前にあったリフレ富岡という温泉施設が更地になっていた。新しい利用方法がまだ決まっていないと聞いた。サンリオのテーマパークはどうですか?と一緒にいた人に聞いてみたが、微妙な反応ではあった。大分県日出町は町が半分出資してハーモニーランドを作ったのだから、ここでもきっとできないことはない。良い案だと思うのだが。。。

まだ寂しい場所は多かったが、富岡駅の周辺には新しい家が多く建ち、町立の中学校が再開され、さくらモールというショッピングモールができ、人の息吹が感じられるば場所も複数見出だすことができた。夜ノ森駅も駅舎は新しく、イルミネーションが飾られていて、やはり人の存在は感じることができた。夜ノ森の桜もまた、イルミネーションが飾り付けられ、人々の心がキラキラを欲していることもよくわかった。

交錯する不信と悲しみと、前向きな気持ち

東日本大震災と福島第一原発事故の影響を受けた人達の話を聞く機会がこれまで何度もあったが、どうしようもないやるせなさを感じて悲しみ、原因となった東京電力や政府への不信はとどまることはないことは共通していると言って良いだろう。しかしなんとか前向きに復興を考えて、それぞれの立場でそれぞれの方法で仕事をしていることも伝わってくる。前向きにならないと人間、生きていけないというところがある。
その中で、やはり「かわいい」が果たすし得る役割は大いにあるのでないかということも思ったことだ。結局、不信を抱いていることは、幸せにはつながりにくい。捨てようとしても捨てられないから苦しい。

そしていつか見つけよう幸せの花を

そんなときは、やはり、心を違う方向に向けるしかない。なかなかそれは難しいことではあるが、そこに、マイメロのぬいぐるみのひとつでもあれば、それが急に可能になってしまう。マイメロセラピーを聴くのも良い。心を前にくるっと向かせてくれる不思議な存在だと思う。
しかし、マイメロの存在で心の向きを変えることが可能だということは、マイメロがいなくても、本来は可能であるはずだ。マイメロは、こんな風に歌っている

あたたかな日差しの中 恥ずかしがるように
顔を出す花たちに 春の風も優しく
谷を走るせせらぎの リズムに合わせて
踊ってる花たちに 夏の日差し眩しく
遠い雲に届けと 背伸びする秋の花
冬の街角透き通る空 そっと咲く花ひとつ
とりどりの花たちに 囲まれてすごそう
そしていつか見つけよう 幸せの花を

この歌はとっても繊細だ。「恥ずかしがるように顔を出す花たち」「谷を走るせせらぎのリズム」「背伸びする秋の花」「冬の街角透き通る空」なんかを感じ取るのには、繊細な感覚が必要だろう。「幸せの花」を見つけるには、そういう繊細さ(ものごとを感じ取る能力)が要るのではないだろうか。

繊細さだけでなく

繊細さはときに打たれ弱さと表裏一体である。被災地特有の問題もあるし、どこの地域にもある問題も存在するだろう。そこに生きることは、困難を伴うこともあれば、むしろ恵まれていることもあると思う。
東京で暮らしていたからといって、必ずしも幸せではない。全ての人は死ぬまで生きていかなくてはならない。
私の人生もまた、他人に対し、また組織に対し、不信と悲しみを抱かざるを得ないことも、時々あった。それでも、そういうことは忘れて、「幸せの花」を見出せればいいなということはよく思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?