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サーキュラーエコノミー!!の話じゃなかった!!!

この記事について

こんにちは、平塚です。連投です。この記事は、武蔵野美術大学大学院造形構想研究科修士課程造形構想専攻クリエイティブリーダーシップコース(以下「本研究科」といいます。)の科目である「クリエイティブリーダーシップ特論」(以下「CL特論」といいます。)における令和3年9月27日(月)に開催されたCL特論の第12回のエッセイです。最前線でご活躍される方の連続講演イベント第12回のスピーカーはサーキュラーエコノミー実践家大山貴子様です。日本国内では数少ないサーキュラーエコノミーの実践家のひとりということでした。

講演内容の前提について

サーキュラーエコノミーの詳細については、本学の政策デザインラボによる次の記事をご参照ください。

それによると、サーキュラーエコノミーとは、次のように定義されます。

正しくは、原材料調達から生産、購入、廃棄するまでのサプライチェーンの川上から川下の全工程において再設計・再定義を行い、全工程において資源を循環しうるモデルに変えていく経済のことをサーキュラーエコノミーといいます。

わかるようでいてわからない定義なので、私のほうで補足します。大前提として、市場においては、大きくは製造業者と小売業者という2種類のプレイヤーがいて利害状況が対立しています。しかし、利害対立していると双方・社会にとって望ましくないため「製販連携」が行われ、協調関係が築かれます。たとえば、QR (Quick Response) や ECR (Efficient Consumer Response) がそうです。要するに、やってることは上流・下流間の情報の同期化であり、こうすることにより在庫ロスと機会ロスを低減させるわけです。これをさらに突き詰めて、原材料の調達から生産、流通、消費に至る一連のプロセス=サプライチェーン自体の情報伝達の効率化を試みる取組みが SCM (Supply Chain Management) です。つまり、そもそも「サプライチェーン」概念は同期化の対象範囲を示した概念であり、在庫ロスと機会ロスのリスクを念頭に置いた考え方です。最終消費者以降のプロセスは基本的に念頭に置いていません。

問題は、ここで必ずしもサプライチェーンの終点から始点へと再帰する経路をつくり、ループをつくろうというわけではないということです。上掲の記事で記載されているとおり、サーキュラーエコノミーは必ずしもサプライチェーン外での「廃棄物の再資源化」を目指しているわけではありません。サプライチェーンは廃棄自体を問題とする概念ではないため、廃棄自体を問題とする以上は、必然的にサプライチェーン自体も再設計の対象になってきます。これが「全工程において資源を循環しうるモデルに変えていく経済」の意味です。そうすると、本来、サプライチェーン概念を借用せずに議論すべき話であるともいえますが、SCM に新たな考慮要素を付加して従来の考慮要素と競合する関係に持ち込むという狙いないし背景があるのかもしれません。あるいは、どちらかといえば制御システム工学に出てくるようなシステムシンキングないし因果ループ図 Causal Loop Diagram のイメージか、社会的共通資本やコモンズの発想なのか……。

講演内容について

さて、ご講演テーマが「大山貴子とはどういう人物か」なので(※ムサビ側からの提示テーマである!)、ものすごくコメントがしづらいのですが、私から何をコメントすればいいか悩みますね。いや、何かコメントをしたいんですかね、私は。何かコメントするとかしないとか、そういう話ではない気がしますね。何を書けばいいのかわからない…

机に向かって手が止まり続けているのですが、なんでしょう、まずはけっこう人種差別的なところに問題意識を置いている方なんだなぁと感じました。それもだいぶ平等性の捉え方が特殊な気がしているのですが、どのあたりが特殊なのか表現しにくいかんじはあります。若干失礼な表現になりますが、こういう特殊な人物ワールドを体験せよ!という大学側の意図かもしれません。どうもやはり市場の話ではなくコミュニティの話のようであり、そこに自然も出てくるという。システム先行だと自分は関係ないという人が出てきてしまうとか、顧客需要からはじめる SDGs がマーケティングに使われるだけとか、そういったところはそうだなぁと。私の場合は、常に、特定のコミュニティに溶け込むことはしないし、できないので、そのあたりはすごいなぁと。対等な人間関係というものを自然に構築できる方なのだろうなぁと。

「共視」という考え方については〈現実的な出来事〉の共有を利用したファンタスムの共有ということだろうと思いました。が、存在論的デザインや文化人類学の存在論的転回、オブジェクト指向存在論、新実存主義といった発想とは異なると思いました。「共視」は、「論」や「主義」とは違うのではないでしょうか。背景的に重なる部分がありうるとは思うものの、そんなたいそうな話ではなく、ご講演全体の趣旨からすると、もっと曖昧で素朴で身近な液状的感覚なのではないかと思いました。だからこそ大山様はコミュニティに溶け込めるのでしょう。ここはあえてクリアカットな理論に近づけてはいけないのだと思います。

(執筆者:平塚翔太/本研究科 M1)

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