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回憶録 世の常人の常「微意<後編>」#創作大賞2023#ミステリー小説部門

 <後編>

 協奏曲は終盤を迎えている。
 火山が噴火した、その頃だった。協奏曲のモデルとなった原詩は零華から本を借りて僕は読んでいた。神宮寺絢の追悼コンサートは客の入りも良く、来賓席には世界的に有名な奏者の面々が連なっていた。同時にオーケストラのメンバーは予定外の緊張感にも包まれていた。世界的な奏者がいるこの場で結果を出せたら自分たちにも声がかかるかもしれない、その場をこのオーケストラのメンバーに与えたという神宮寺絢の功績・人脈の凄さを目の当たりにしているのだろう。
 演目が終わった。
会場はスターディングオーベーションとなり、全ての者たちが歓喜しているようだった。拍手が鳴りやむ気配はしばらく、ない。
 僕の隣りに座っている零華を除いては、だった。零華はただずっと協奏曲に見入り、掌を使って円を描いていた。まるでこのオケがひとつのサークルとしてまとまることを願っているかのように、僕には映った。
大井指揮者が観客の方に向き直り、一礼すると更に拍手ーケストラのメンバーも誇らしい顔が滲んでいた。
 コンサートは無事終了していた。会場もすっかり客も出払って僕と零華もコンサート会場を出た。ところがそこで零華が足を止めた。
「柊斗先生、わたくし忘れ物をしましたわ。取ってきます」
「零華さん⁉ 」
 足早に掛けていくその姿を追うその時だった。館内放送が流れた。
「お呼び出しを致します。オーケストラ団体の大井指揮者、チェロ奏者の永瀬さん、バイオリン奏者の佐倉さん、至急コンサート会場へお越しください。繰り返します…… 」
 聞き覚えのある声だった。
「安武警部⁉ なんだってこんなアナウンスを…… 」
 僕は急いで零華のあとを追った。コンサート会場だ。
 防音機能を兼ね備えたこの分厚いドアを開けると、そこにはピアノが用意され、零華が音を奏でていた。その曲は、あの協奏曲。神宮寺絢が弾く筈だった、あの素晴らしい音色を、零華が奏でている。まるで、神宮寺絢の意思を継いでいるかのように……。
「皆さんお揃いですね」
 気付くと零華は手を止め、会場には僕と零華の他に大井指揮者、永瀬さん、佐倉さん、そして安武警部が居た。
「それでは、始めましょうか」
「一体なんだというのですか? 私達を呼び出したりして」
 佐倉さんが声を挙げた。最もだった。永瀬さんに至ってもあの事故が起こってから治療を受けてまだ日が浅い。今日のコンサート本番に向けて無理して身体を回復させた、といっても過言ではない。
 零華が鍵盤を連ねて奏でた。
「神宮寺絢さんの死の真相について、お話しさせて頂きます。ここに来ていただいたあなた方お三方はとても深く関係しております」
「私たちがどう関係しているというのですか⁉ この二人のことは知らないけど私にはまったく関係ないことです‼ 」
 佐倉さんは声を荒げて主張した。
「佐倉さん、本当にあなたはまったく関係ない、と言えますか? 」
「……っ 」
 声に詰まる佐倉さんをよそに零華は続けた。
「順を追ってお話しましょう。まず何故わたくしが神宮寺さんの死に違和感を覚えたかです。死体発見現場の屋上から神宮寺さんの靴が発見されていますね。そして向きが飛び降りる向きとは反対に置かれてあった。普通自殺する人間というものは心理的に追い詰められているからこそ自殺、という結果論へと結びつくものです。そのような心理状態の人間が、いざ飛び降りるという時にそのようなことをするでしょうか?錯乱状態だったといえばそう辿り着きますが錯乱状態だったとしたらもっと乱雑に置かれているのならば説明がつきます。しかし愚直なほど綺麗に反対に置かれてあったのです。このことと神宮寺さんのスカートの裾に踵を踏んだ跡があったことを照らし合わせれば神宮寺さんの死は第三者の介入によって行われた、と推測できます。そして靴の向きはその第三者によるものであることの可能性が非常に高い、と申しましょう。何故このようなことをしたか、自殺の線を疑わせる危険性のあることを何故しなければならなかったのかはあとでお話しするとしましょう」
 顔を歪ませた佐倉さんが重々しく口を開いた。
「だからって、なんで私たちがこの場に呼ばれなきゃならないのよ…… 」
「それは佐倉さん、貴方が一番良く分かっている筈ですよ。いいえ、正しくは理解出来ている部分とそうではない部分が混合しているとでもいいましょうか。
 単刀直入に言いましょう。アナフィラキシー補助治療薬をゴミ箱の影に忍ばせたのは佐倉さん、貴方でしょう? 」
「…… 知らないわ、そんなこと」
「いいえ、貴方しかいないのですよ。貴方は恐らくわたくし達が神宮寺さんの控室を入る前にこの注射薬をゴミ箱の中に入れようとした。しかしわたくし達が来ることに勘付いた貴方は慌ててしまってゴミ箱から注射薬が洩れて影に隠れる様に置かれてしまった。その場から去ると貴方はもう一つしなければならないことがあったのに、それが出来なかったことに気付いた。神宮寺さんの控室に残ったババロアの回収ですよ」
「どうしてババロアを回収する必要性があるんだい? だってあの場でババロアを手にしている零華さんにそれは自分があげたものだ、と佐倉さんは自分から言ってたじゃないか」
 僕の素朴な疑問に対して零華は微笑んだ。
「人間の心理とは不思議なものですね。焦点がいっているものに対して向かってはいけないところに心は素直に反応してしまう。そして自身の防御反応としてそれらしいことを言っては逃げようとするのが人間の本質ともいえるでしょう。
 ババロアを回収しなければならない理由として挙げられるのは佐倉さん、貴方は神宮寺さんにアナフィラキシーショックにより苦痛を与え、さらにあわよくば命を奪おうとしましたね? 神宮寺さんのアレルギーを利用して、です」
「……‼ 」
「アレルギーっていったって、神宮寺さんは大豆アレルギーだったけれど食べていないじゃないか。現に冷蔵庫の中に封も開けられずに置いてあったけれど…… 」
 合点がいかない僕は零華に問いかけた。
「神宮寺さんは大豆アレルギーではありませんよ。牛乳アレルギーです。その証拠に大豆仕様のシチューを昼食に本人が買ってきています。昼食は各自で用意するのでしたよね? 」
「でもだったら、ババロアだって豆乳で作られてあるものだったじゃないか」
「柊斗先生、ババロアの材料には乳製品が含まれています。生クリームですよ。牛乳アレルギーの方は生クリームでも反応がみられることがあります。恐らく佐倉さんは神宮寺さんにババロアを差し入れで渡すときに豆乳仕立てということで油断させて食べてもらうことでアナフィラキシーショックを誘発させて事前に盗んであった注射薬を使わせることなく苦痛を与え、更には命を奪おうと算段していた筈です。ですよね? 佐倉さん」
「そんなこと推測でしかないじゃない‼ 証拠なんてどこにもないわ」
「佐倉さん、貴方は神宮寺さんの控室でわたくし達に会ったときに既に自身の行動を決定付けることを自ら発言しているのですよ。<刑事さんが来ている、と聞いて来ました> と一言目で言っていましたね。あとでわたくし達がオケの演奏を聴きに行ったとき、大井指揮者は<どうしてここに?> と尋ねてきました。あなた方オーケストラ団体というのは立場がピラミッド構造になっている筈です。情報は上から下へと伝わっていくものです。それなのに大井指揮者は知らない筈の情報を貴方は知っていた。何故です? 答えは簡単。わたくし達が控室へ入る姿を近くで隠れてみていたからですよ」
「それは、それはホールの従業員さんが話しているのをたまたま訊いたからで…… 」
「いいえ、あの時のわたくし達がホールに来ることは急に決まったことなんです。あと、わたくし達が現場に入ることはシークレットで進んでいたことです。ですので貴方が事前にわたくし達の情報を取得することは出来ないのですよ」
「……‼ 」
 零華は申し訳なさそうに笑っていたが、それがなんとも佐倉さんに皮肉に映ったことかは説明する必要もない。
「これはわたくしの推測でしかないのですが、恐らく佐倉さんは神宮寺さんに自身の美学をぶつけていたのではないでしょうか? 才能がある故に苦しんでいる神宮寺さんをみて生きる、ということに自らの美学を重ねていた。それが過剰に過剰を重ねてしまったのでしょう。次第に歪んだものとなり、苦痛を与え、更にこの世から神宮寺さんを葬ろうと考えた。違いますか? 」
「歪みなんかじゃないわ‼ 神宮寺さんはあのままで自身に苦しみを持ったまま死に至ることが美しい、心からそう思ったのよ‼ 苦しみを美しさで彩ることが出来る人間なんてそうそういるもんじゃないわ。だから私の手で葬ることが一番の得策だと思ったのよ‼ 」
「残念ながら、佐倉さん。神宮寺さんは貴方が命を狙っていることに気付いていたようですよ。そしてその策を講じていたようです」
「そんなわけないわ‼ だって私のババロアを受けっとったじゃない…… 。ああ、でも、そう…… 」
「そう、お気づきの通り。神宮寺さんはババロアを召し上がっておりません。神宮寺さんは普段から佐倉さんからの歪んだエネルギーをかんじていたのでしょう。神宮寺さんの日記にも記載がありましたよ?
 
6月24日
 鷹が獲物を狩る視線はいつなん時で<観客からも> 伝わる時がある。衝撃のときのための修復方法を2種用意しておこう。備えあれば憂いなし、とはよくいったものだ。それ以上のものは私にはある。
 
<観客からも> とありますね。ということは観客と更に少なくともひとり以上からその視線を感じていたということになります」
「ということは神宮寺さんを殺したのは佐倉さんではない、ということなのかい? 零華さん? 」
僕の方へ向き直った零華は難しい笑顔で返答しようとした。その時、防音の為の分厚いドアが勢いよく開いた。ウエイターの女性が血相を変えて会場へと入って来た。
「こちらにお医者さんがいると訊いて来ました! カフェで子供が気を失って痙攣を起こしているのですが診てもらうことはできませんか⁉ 」
「医師は僕ですが、カフェで、とのことですがそのお子さんはなにか食べている最中だったということですか? 」
「お母さんが席を離れているときになにかを食べてそのまま倒れたんです! 」
「アナフィラキシー起こしている可能性が高いな。いま行きます。お母さんがなにか注射薬持っている、とか言っていませんでしたか? 」
「期限が切れた、とかなんとか言ってて注射が打てないと混乱していて私達もどうしたらいいか…… 」
「とにかく、急ぎましょう」
 アナフィラキー補助治療薬の使用期限には注視しなくてはならない薬だ。僕は会場をウエイターと共に出ようとした。すると、頭に包帯を巻いた永瀬さんが僕を引き留めた。そして、僕に注射薬を渡した。
「これ、使ってください」
「え? ええ。えっと…… 」
 困惑した僕に躊躇なく永瀬さんは僕の手の平にアナフィラキシー補助治療薬を握らせた。
 すると零華が間に入り僕の手の平に手を添えた。
「やはりあなただったんですね、永瀬さん」
「零華さん? 」
「もういいんです、いいんですよ。柊斗先生、大丈夫ですわ。ウエイターさんもありがとう」
 零華のその言葉に血相を変えていたウエイターは落ち着き、微笑を浮かべ会場を出て行った。
「どういうことなんだい? 零華さん。あのウエイターは一体? 」
「あのウエイターさんにお芝居をお願いしていましてね。彼女の目をみたときに感じたのですよ。俳優の気質があるだろう、とね。そして永瀬さん、貴方でしたらきっとわたくしの思った通りの行動に出てくれるだろうと思っておりました」
「…… そうか、ぼくはまんまと引っ掛かってしまったのですね…… 」
「永瀬さんの良心を利用するような形になってしまって申し訳ありません。しかし貴方だったらきっと、そのような行動を起こしてくれると信じておりました」
 安武警部が間に入り、永瀬さんが手に持っているアナフィラキシー補助治療薬を受け取った。
「証拠品としてこちらで保管させてもらいます」
「安武警部、神宮寺さんが注射薬を受け取った薬局で控えてある製造番号と照合してみてください」
「ええ、仰せのままに」
零華が向き直り、推理を続けた。
「神宮寺さんの事件当日の控室の写真をみたとき、不思議な点がありました。コーヒーカップです。飲みかけであったのにもかかわらず口紅の跡が残っていなかったのです。現場には口紅も残っていました。使用した痕跡もありました。女性なら確かにカップに口紅が付いてしまったら気になって指で落とす仕草もします。それでしたら必ず残るものがあります。そう、指紋です。神宮寺さんの指紋が検出されなければならないのですが、それが無かったのです。ということは、誰かが故意に拭き取った可能性が高い。では何故拭き取ったのか? 拭き取らなければならなかった、そう、拭き取って警察に気付かれてはいけないものがあったのです。ですよね、永瀬さん? 」
 永瀬さんの外傷に巻かれた包帯が僕には何故か、心に巻かれてあるような、そんな気にさせる永瀬さんの横顔がそこにはあった。
「安武警部にお願いして飲みかけのコーヒーを分析してもらいました。ブラックコーヒーの中から乳成分が検出されています。そしてそれらの成分が、ある固形物と合致しました。キャラメルです。永瀬さんのキャラメルと合致したのです。永瀬さんはオケのメンバーにキャラメルを配っていたので他のメンバーにも犯行は可能のように思えますがわたくしは永瀬さんだろうと踏んでおりました。その理由は…… これです」
 零華はポケットから取り出したそれは、石だった。小石だった。
「それは僕のだ‼ 」
永瀬さんは零華からそれを奪い涙を流しながら大切にその石を抱きしめていた。
「死体発見現場はとてもきれいなままでした。小石ひとつ落ちていませんでした。そう、きれい過ぎたのです。不自然なまでに」
「ちょっと待ってくれ、零華さん。僕にはなにがなんだかさっぱりわからないよ。一体どうゆうことなんだい? 」
「失礼いたしました。頭が回転し過ぎてしまって順番のランダムが起こってしまいました。みなさんには最初からきちんと説明いたしましょう。
まず事件当日、佐倉さんは自ずと決めた方法で神宮寺さんに苦痛を与え葬ろうと行動を起こした。しかしそれは失敗に終わった。そのあとで永瀬さんが神宮寺さんの控え室を訪れた。そして神宮寺さんの目を盗んで飲みかけのコーヒーにキャラメルを投入した。知らずにそのままコーヒーを飲んだ神宮寺さんはアナフィラキシーショックを起こした。恐らくその時点で永瀬さんは神宮寺さんの荷物から注射薬を盗んでいたのでしょう。スカートの裾の踵の足跡はその時ついたもの、そして自分が苦しんでいるのをみてなにも助けようとしない永瀬さんをみて察したのでしょう。このひとは私を殺す気だ、と。恐怖のあまり反射的に後ずさりしたと推測出来ます。そしてそのショック状態の神宮寺さんを清掃用のカートでひと一人入れるくらいの段ボール箱に入れて屋上まで連れて行った。きっと永瀬さんは清掃員の恰好をしていて誰も気づきはしなかったでしょうね。ショック状態の神宮寺さんをそのままにしていても発見が遅れれば死の可能性がありますが、あくまで可能性。そして万が一彼女が死に至ったとしても何故彼女は注射薬を使用しなかったのか、という疑問点が残る。だから屋上から飛び降りる、というカモフラージュをしたのですよ。屋上から落下したとなれば死体は見るも無残な姿になる。そのことに捉われて死体が落ちる寸前でショック状態を起こしていた、なんて誰も思いませんよ。そして犯行を終えた永瀬さんは何喰わぬ顔をしてオケのメンバーと合流した、このような感じでしょう」
 零華は椅子に座り、ピアノを奏でた。あの協奏曲の最終章の人間が逃げ去る場面だった。マグマから、現実から…… 逃げる。悲しいメロデイ。
 静かになったその場に、零華が口を紡ぐ。
「永瀬さん、貴方は殺人を犯したことを気に病んでいるのではないですか? きっと貴方の心に深く刻まれているのでしょう。恐怖に歪んだあの時の神宮寺さんの顔を、そしてこれから神宮寺さんを屋上から突き落とす時の迷いが生じた中、手を放したあの時のご自身の感覚、感情。屋上で神宮寺さんの靴の向き、覚えていますか? 貴方でしょう? 神宮寺さんに対しての弔いとして靴の向きを神宮寺さんが旅立つあの世へとではなく我々のいるこの世の向きにしたことで少しの懺悔を示したかったのではないですか? そしていま貴方が大切そうに持っているその石。きっと貴方には緑色の石にみえている筈です。まるで翡翠石のように。精神的な負荷が大きく生じたために色彩の認識機能に障害を起こしているのではないですか?永瀬さんが車が往来している道路に飛び出したのはアスファルトの上で跳ねた石を拾おうとしたからですね。事件直後もそのあとも、遺体発見現場はきれい過ぎた、と申しましたね。それは意識的か無意識的か殺した神宮寺さんへの懺悔の気持ちが強すぎたが故に永瀬さんが人目を盗んで石を拾いあげていたのですよ。そしてこれはわたくしの勝手な推測に過ぎませんが石……、翡翠石こそ今回の事件の動機なのではないでしょうか? 」
「…… そうですよ。神宮寺さんは、あのひとは僕が大井さんにあげた翡翠石を自分のものにしたんですよ。勝手にね。大井さんにとって僕があげた翡翠石はなににも変える事の出来ない大切なものなんです。これがないと大井さんは平常心で指揮棒を振ることが出来ない。そうでしょう大井さん? だから僕は彼女に返してくれと言ったんだ。それなのに彼女は取り合ってくれなかった。僕がこんなにも懇願しているのに、大井さんの指揮者生命がかかっているのに…… 。僕の正義さ。大井さんを救うためだ」
「…… 永瀬さん」
 その大井指揮者から呼ばれたその名は翡翠石が血を飲んでいるさま、<侵食> を僕の脳裏に描かせた。
 零華が口を開く。
「永瀬さん、貴方は大井指揮者に対して特別な感情を抱いていたんですね。
自分の正義を他人に押しつける正義は正義ではないでしょうし、そして自分の正義を守る為に他人を傷つける正義は正義ではないでしょう。
 正義というものは人々の真の笑顔、それこそが全てを物語っているのですよ」
 大井指揮者は半歩前へ出たがそれ以上は進まなかった。進めなかった、いや進まないと決めたのだろう。彼のつくられた拳は、いまここで永瀬さんに手を差し伸べることが酷だと感じられたようだった。
 永瀬さんの落とした涙はその仮の石、翡翠へと吸い込まれていく。
「…… しかし、さっきのウエイターが来た時に僕が差し出さなかったらどうするつもりだったんですか? まさかむりやりに? 」
「それもひとつの方法ですが、わたくしには永瀬さんの行動はかなりの確率で自信をもっていました。靴の向き、色彩の認識機能障害そしてキャラメルをヴィーガン仕様に変えていましたわね。あれは牛乳アレルギーの神宮寺さんを殺めたことを気にかけての行動だと確信しておりましたので」
「…… なんてひとだ
 あはは…… はは…… あなたはなにもかもお見通しなのですね」
「…… 」
 零華は何も言わず、ただ毅然と永瀬さんをみていた。
「あとは署の方で…… 」
 安武警部が言葉を添える。
 大井さんは震える拳を右手の手の平で抑えている。
 僕の隣りで零華はひとりピアノを奏でる。
 場面はそう、虹だった。

 ひとりひとりの、イロのさま
 
 
 
 
 
 
 『世界の大井、その名を轟く羽根はばたく』
 新聞記事の見出しは心躍らせる効果は絶大だ。
「凄いね、零華さん。大井指揮者はもう世界で通用するほどの指揮者に成りあがっているよ」
 僕が湧きだっていると零華は袖をめくって左腕を顕わにしていた。
「柊斗先生、そろそろわたくしの治療をお願いいたします」
 緊張染みたその顔を僕にみせ、ひとつ溜息をついた零華は机を爪でコツコツ、コツ、と鳴らした。
「世界で通用、ですか。神宮寺さんの思惑通りになりましたね」
「え? どういうことだい? 」
「お気づきではなかったのですね、柊斗先生。神宮寺さんのダイアリーのラスト、覚えていますか?
 
〈8月7日 遠くからみるふたりはひとつの円そのもので。妬むとか羨むもない。ただその円が存在していると思うだけ。価値を美しさに捧げる手段を考えていた。〉
 
 価値を美しさに捧げる手段を考えていた、とは神宮寺さんの世界的ピアニストとしての価値、そして美しさとは大井指揮者のことでしょう。恐らく神宮寺さんは微かながらご自身が殺されることを予感していた。そしてそれを大井指揮者に意味ある形として残したかったのではないでしょうか。
 神宮寺さんが亡くなった事で追悼コンサートが行われ、そこには神宮寺さんの人脈により世界的に有名な奏者らが訪れ、結果的に大井指揮者はこのようなチャンスを手にし、ものにした。これは神宮寺さんにとって安易に想定出来たことです」
「ははは、まさか。神宮寺さんだって注射薬を二本準備してたじゃないか」
「死、というものはその言葉一つで片づけられるものではないでしょう。覚悟はしたものの、それを目の前にすると恐怖に駆られる。注射薬を二本用意することはもしかしたら神宮寺さんにとって複雑な心の安定剤のようなものだったのかもしれませんね。ワインレッドのドレスを早々に着込み神宮寺さんは自身のピアニストとしての存在を誇示していたのでしょう」
「永瀬さんが言ってた、零華さんがなんでもお見通しというのは…… 」
「きっと永瀬さんも犯行後になんとなく気が付いていたのかもしれませんね。同じく大井指揮者を慕った神宮寺さんの考えたこと、感じ取ってしまったのかもしれません、殺害したあとで。いいえ、もしかしたら殺したその瞬間に。そのようなこと、敢えて言葉にはしませんでした。もしそれを大井指揮者が知ったとしたら……、永瀬さんに限っては知らない振りをする権利があると思ったのです。
 神宮寺さんにとって大井指揮者は男性とか女性とか、異性とか同性とかそんな次元ではなかったのでしょうね。人間として想っていた、ということなのでしょう」
 
 僕は注射を一式、奥から用意して来た。
「柊斗先生、またプロポリス差し入れしますわね」
 あの時のトルコ桔梗は生を終え、新たに生きるトルコ桔梗が僕の診察室を陰に飾ってくれた。
「人間の想いは尊いです。しかし命より大事なものがこの世に存在するなんて、わたくしにはどうしても理解が出来ないのです」
 左腕の上腕に注射針を差し込む。
 いつだっただろうか。
 零華が言っていた。
 まるで鉛が体内に侵入してくるようだと。
 わたくしがそれを許すのです、と。
 
 
 
 
 
 
部屋の真ん中にあるベッドに本棚とそこに敷き詰められた本たち。紙の質が少しばかり緊張感を緩める役割をしてくれる。
砂時計が踵を返すと命を託し、そしてノートパソコン一台。
それだけあれば僕は生きていけるような気がしていた。
 
 
 
 
生きるという過程の辱めは
もがき
 
人間としての個を疑う 失う
 
偽りの正義が
 
カフェインの味方
 
母国を愛す僕は
 
兎と出逢った
 
兎はなんとも理想的な人間性の持ち主で
 
僕をいつでも導いてくれる存在だった
 
兎は僕を高めてくれる
 
兎が
 
朱い目をして
僕をみる
 
 
いいえ
僕が、視たのです
 
そのさま
 
事件は日を追うごとに心に圧し掛かり
 
カフェインには依存性があるから
過剰摂取は控えなければ
 
人間としての個を疑う 失う
 
口の中で広がるその酸味
 
香が鼻にまやかし
 
時にかかるノイズ
 
気付くと僕は部屋にいて
 
ベッドに横たわり
 
ミネラルウオーターと
 
背筋の伸びた
兎が白衣を着て
 
僕を見下ろしていた
 
 
 
 パソコンの画面は点滅の、その途中。
 僕はその筆を走らせる、義務。
 
 砂時計は命を終え、また生きる。
 
 
 
 零華の事件簿とその真相は、また機会があればお目に掛かるかもしれません。
 
 いま此処に微意を表し、ランプが往くべき道を照らすように……
 
 
 
 
                         第一部 完



回憶録 世の常人の常「微意<前編>」#創作大賞2023#ミステリー小説部門|板倉 市佳 (note.com)

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