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実感の恐怖

 3.11の、津波から逃げ遅れた人の映像を見た。たぶん走れない高齢の男性の方で、とてとて歩いていて、行く手の交差点が水に飲まれて、どちらへも進めなくなり、近くの家につかまって止まっているように見えた。その後、濁流が酷くなり、直接の彼を見ることができなくなるが、濁流は家ごと押し流している。彼のつかまっていた家がどうなっていたか、もう一度見に戻るつもりはない。もう十分だからだ。
 スレッドをみて、彼は亡くなったのだと遺族がコメントしたことを知った。その情報が本当か嘘かは問題ではない。逃げ遅れてなくなった方がたくさんいることは、情報として随分前から知っていることだからだ。
 そう、知っていること。それを映像で見て知ったこと。そこにこれだけの差があるのは、想像力のなさ故なのか。悔しく、悲しく、苦しくなるのは、映像の力なのか。ストーリーの力なのか。当事者意識の違いなのか。つまり、映像を見て、擬似的に映像を撮った人と同じ視点を得て、自分ならどう行動するかを無意識に想起した、つまり、あの場所に入り込んだからなのか。
 たぶん答えはイエスだ。
 情報として知るのと、実感として知るのは全く違う。そして、情報として知ったことを実感として得られないことは、優秀な自己防衛機構だとも思った。なんでもかんでも実感をもって知ってしまったら、それこそ、人類の苦しみを実感し続ける拷問人生になってしまう。もちろん、自分が変えられる問題は実感を伴って知り、行動することが望ましい。風化させないことも、私は大事だと思う。けれど、それは個人的な理由であって、風化させないことが人類の利益、教訓に繋がるからとかではない。単に、悔しいからだ。なにが悔しいかはよくわからないけれど、覚えておかなければと思ってしまう。
 今にして思えば、私はいつもそれかもしれない。太平洋戦争の個々のストーリーを知ったとき、親に怯えている自分の痛みを知ったとき、津波に飲まれる人々を見たとき。悔しくて忘れるもんかと思ってしまう。なにが悔しいのかはよくわからない。たぶん、虐げられた(ように感じた)扱い(一般に悲劇とよばれるもの)が悔しいのだろう。個人的には、自らの利になる思考・信仰はいいが、反対なら手放せばいいと思っている。簡単に言うなら、占いはいいときだけ信じる派だ。けれど、この悔しいに限っては、手放したほうが自分の精神衛生上いい気がするのに、何故か執着してしまう。
 とりあえず個人的な癖はさておき、今回改めて気がついたことは、実感ということの現実的な恐怖だ。実感がつくだけで、人の死はとても恐ろしいものとして迫ってくる。生が実にいっときの微睡みであるかを思い起こさせる。どうでもいいことで息をするように怒ってしまうこともあるけれど、今そばにある命を大事にしていきたい。それが、たぶん、実感に対する正しい距離感であると、(少なくとも今は死の恐怖そのものと向き合うべきではないと、) 私は信じる。


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