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「普通」の人生を「特別」に書いている


息抜きをしようと思った。

世の中が、楽をしようとしている。
頑張って報われる人生も、頑張らないで報われる人生も。手に入らなかった。「こうすれば簡単だよ」「こうすれば出来るよ」って。そんなこと、言われなくてもやっているよ。でもどうして。わたしの目の前がずっと暗い、それを認めたくなかった。

朝起きて、顔を洗う。
それだけのことで生きる気力がなくなる。


最近、自分が生まれ変わった時のことを考えるようになった。今よりももっといい生まれ、いい生活、いい交友関係。妄想は簡単だ。気持ちのいい場所までわたしを連れて行ってくれる。性別だって、女の子がいい。白いワンピースを着て、とびっきりの上目遣いをしたい。スカートはオレンジ色がいい。なぜかって、明るい女の子でいたいから。そんなことを考えて、遊ぶ。


「わたし、本当は無口なんです。」

なんの脈絡もなくわたしは同僚にそれを伝えた。するとどうだ。相手は目を丸くして「そうなの〜?!」と戯けるのだ。本当の自分で生きることなんて出来ない。人が生きやすくなるための言葉や文章を、わたしは最後まで読めなかった。


我慢しないで生きたい。
でも我慢していた。まだ我慢出来るって、もうちょっと我慢出来るかもって。そうやっていれば強くなれると思っていたのに。なぜか小さくなって弱っていく。


『あとちょっとだけならきっと我慢出来る。』


そう思って我慢していること。
我慢出来るか、出来ないか。
それが問題ではなかったのだ。
我慢しなくていいのだ、もともと。

その時その時に吐き出して、ぶつけてしまえば楽なんだって。そのことを家のトイレで気づき、わたしは全てを水に流そうとしていた。



書いていたかった、わたしは。

どこかの誰かが言った。
書くことがないなら書かなくていいと。
どこかの誰かが言った。
書くことがなくても書き始めた方がいいと。

書きたくないと言いながら書いた人の文章なんて読みたくない。書くことが楽しいと言っている人の文章なんて読みたくない。結局、妬ましいのだ。


書くことを仕事にしたいのに。
わたしは他人の話を聞こうとしなかった。
そして、自分がなりたかったのは"ライター"なのだろうか。

”表現者、執筆、エッセイスト”
どの言葉をとっても心が萎むのはどうしてなのか。

一生このまま誰かに消費され続けてもいいのかなと思う瞬間があった。ネットの海に自分の言葉や文章を投げ続ける。それを読まれたり、読まれなかったり。どちらに転んだとしても生活が潤うわけではなかった。お金は欲しくないけれど、どうしてお金がないと生きていけないのだろう。子どもみたいな発想だ、ずっと。



休日に、わたしは外へ出た。
電車に乗って、知らない喫茶店に行きたかった。

改札へ向かう。
交通ICの残高が333円で、それだけでわたしは笑顔になった。ただその笑顔の後、すっと無表情になる。このくだらない気持ちは誰とも共有してはいけないと思った。


電車に乗る。
少し離れたところに、恐らく妊婦の方が立っていた。席は全て埋まっている。わたしの座っているところは少し離れていたけれど、別にそんなことは関係なく、譲りたい人が譲ればいいのではないかと考えていた。そのあいだに駅は3駅ほど進む。わたしは決心がつき、その女性に声をかけた。


「あの、座りますか?」

わたしは精一杯の声で言った。

けれどその女性は、

「ああ、次で降りるんで。」

と、冷たかった。

わたしは何を期待していたのだろうか。
感謝されて、笑顔になって、その女性と気持ちを共有したかったのだろうか。自分のこの人生が物凄い大きさのエゴに感じ、わたしは急に涙が出そうになった。そして振り返れば、わたしがもともと座っていた席は、他の誰かに座られていた。女性も電車を降りる。わたしはつり革に掴まりながら、心を落とさないよう必死だった。


そして喫茶店に着く。
初めてのお店で、雰囲気に中々慣れることが出来なかった。思っていたよりも忙しそうな店内。わたしは最初に運ばれてきた水を少しずつ飲む。注文をしたかったけれど、店員さんを呼ぶ勇気がない。手をあげられない。誰もわたしのことなんて見ていないのに、気にしていないのに。でも今からわたしがしようとしている行為は"見てもらう行為"だった。考えれば考えるほど生きていること全てが恥ずかしくなり、わたしはコップ一杯の水を、1時間かけて飲んだ。そしてわたしはそっと立ち上がり、レジへ向かう。「やっぱり帰ります。」とわたしは店員さんに話しかける。お金は勿論大丈夫です、と言ってくれた。ただわたしは嫌な客になってしまった。それが苦しい、苦しい。


息抜きをしようと思ったら、息苦しくなってしまった、そんな毎日だわたしは。これは別に助けてほしい言葉でもない。こうして書いて、わたしは自分の心を撫でるために身体が踠いていた。



言葉や文章。
書くことで生きるという定義はどこにあるのか。お金を持って、それが生きるということなのか。

わたしは書いていたい、誰よりも。
上手い下手は後で考えたい。
けれどそれを後回しにしているから駄目なのかもしれない。

ここにいる人全員、普通の人間じゃないか。
それに適当な色をつけているのだ。
わたしたちの人生を、代わりに書いてくれる人なんていない。わたしたちがいなくなったとして、自分の人生を知っているのは自分だけ。だから、だからわたしたちは自分で自分の人生を書いている。書いて、生きていたのです。


わたしの人生は「普通」でした。
もっと言えば「普通未満」でした。
だからわたしは自分の人生を「特別」に書いている。

わたしが手を止めれば、わたしの人生も同じように止まる。その感覚はわたしだけではないはずだ。書くことがあるとかないとか、それを無視している。


わたしには何もありませんでした。
それでも生きるしかない。勇気がないから。
ただ"弱い心"でも、これは"生きた心"だったのです。


書いている人がいい。
そう思う理由はわたしも同じように書いていたからでした。


ただ頑張る人生も、頑張らない人生も読みたくない。

上手い下手よりも、もっと先。
少なくともエッセイは、書いて生きるしかない人が残っていればいいと思っている。


誰も他人の人生に興味なんて、ないよ。
それでも書き続けているから面白がってもらえるのだと思う。

あなたに書いてほしいとも、休んでほしいとも思わない。ここまでわたしの文章を読み切っているあなたは本当に凄い。余程の物好きか、書くことがきっと好きな人だ。


書いていて、楽しいと思わなくていい。むしろ思ってほしくない。せめて、好きでいてほしいのだ。これはわたしがわたしに願っていることだ。


倒れそうになる、心も身体も。
それでも好きだからわたしは毎日書いている。
だからわたしと一緒に走ってくれる人を、今日もわたしは読みに行くのだと思う。


だから、書いて。誰よりも。


書き続ける勇気になっています。