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わたしたちは似た者同士だけれど、それぞれ違う名前の花になる。


「noteってなんか、落ち込んでる人ばっかりじゃない?」


その言葉をどこかから聞いた時、正直ドキッともしなかった。「そうだな〜」とも思ったし、「その言い方はする必要ないのにな〜」とも思った。

図星を突かれたと言えば、なんとなく丸く収まりそうである。でもどこかで言い返そうとして、そのまま諦めている自分がいた。

文章は、ひとりの時しか書けなかった。誰かと一緒に書きたいと思った時もあったけれど、一緒にいるのであれば相手と話したくなった。声が届くのに、書く必要性を感じ取れなかった。


元々欲しかったもの。
それは声であり、"届く声"だったのかもしれない。当たり前のように自分の発した言葉に言葉が返ってくる。全肯定されなくてもいい。ただ頭ごなしに否定をされずに息をしたかった。

人にはそれぞれ、死の淵を這いずるような時間があるのだろうか。自分で文章を書いて、誰かの文章を読んでいると思う。皆が"悲しみ"から出発していた。その後の途中駅や、終点は笑いに満ちていたとしても。原動力やきっかけとなったのは、悲しみだったような気がした。いや、きっとわたしがそうであってほしいと願っているだけなのかもしれない。


わたしにはSNSを通じて知り合ったひとりの男の子がいた。彼はわたしのnoteをたまに読んでくれていて。ただ彼自身がnoteをそれですぐに書き始めるということはなかった。


「書けばいいのに。」

そうわたしは軽い気持ちで投げかけた時があった。すると彼は「なんか文章書こうとすると、ネガティブなことばっかり浮かんでくる。」と零した。

わたし自身も、文章を書くことに対してネガティブな感情はいつも引き連れている。書き始めはそんなこともなかったのに、終盤に向かうにつれて悲しみが束になっていった。

消耗しながら文章を書くようになった。いつしかわたしは文章を書くことが割に合わないと思うようにもなり、なんのためにこんなに文章を書いているのか突然虚無に襲われることもあった。


書けば書くほど誰かに届いている気になれなかった。書けば書くほど誰にも届いていないことを実感できた。現実という名の硬くて大きな壁が立ち塞がる。わたしの出発地点はネガティブなものばかりだったからこそ、簡単な横槍で手が止まりそうになった。


この世には似たような文章、言葉。その他にも例えば写真、イラスト、音楽。創作において似たものというのは時代と共に量産され、積み重なってきた。何かをつくればどこかで見たことがあると指摘され、流行りに乗ればいつの日かそれは風化する。

彼と話をしていて、わたし自身も思うことがあった。自分の書いた文章が結局は他の誰かの手によって重なり、埋もれていってしまうことを危惧している。


noteの街、ひとつ取ってもそうだ。

結局は誰が書いたかが重要でもあった。同じ言葉を使えば、知名度がある人が全てを持っていってしまっている気がするのだ。

だからこそ、わたしはもっとストーリーを抱きしめていたい。たとえそれがありふれていたとしても、全く同じ人生というのはない。ストーリーの裏にできる、そこで初めて大切に出来る「言葉の花」が存在していた。



わたしは同性愛者でした。

愛する人がいて、毎日が苦しくて、幸せでした。人生を歩み、周りで起きること、そしてその時々に生まれる感情がある。

結局はわたしも誰とも変わらない、同じ"恋愛"をしている。相手が異性か同性かなんて、本当に些細なものである。好きを確かめたり、探りを入れたり。一緒に美味しいものを食べたくなったり、綺麗な景色を見たら同じ景色を見せてあげたくなる。心の共有、人生の共有だった。


他の誰かと同じ、恋愛だった。
だからこそわたしの文章はありきたりになり、いつの日か全てが埋もれてしまうのかもしれない。それでも愛する人がひとりいて、代わりなどいない。同じだ、でも同じではない。人という型枠から飛び出す。当然のように存在しているアイデンティティー。それを埋もれてしまうからと諦めてしまうかどうか。その違い、差は大きい。文章を書く技術やセンスよりも、もっと魅せたい軌跡と感性がある。


どうして自分がネガティブになってしまうのか、落ち込んでしまうのか。そして、悲しんでしまうのか。それがわかっている、感じているのであれば救われる。

いつまでもわたしは悲しいと想う人間でもいいと思っている。感情が湧く時点で、わたしは生きている証明が誰よりも出来るからだ。

突き詰めた悲しみは、何を失っているかがわからない時。それを救うのは他者だ。わたしであり、読んでいるあなただ。

そして嬉しいも楽しいも。それも抱きしめなければいけない感情。素通りする場所ではない。喜び切れるというのも、わたしは才能と努力だと思っている。


そして、一歩を。ただ一歩を踏み出すのが苦しい。仕事でも恋愛でも生活でもそうだ。そしてその一歩のおかげで必ず幸せな未来が待っているとも限らないのがまた嘆かわしい。

書くこともそう。
一言書き出せば、それは止まらなくなったりもする。けれどその末路に、必ず光があるとは言えない。

出発がネガティブであり、悲しみから始まった場合。人間の感情は簡単に消費され、自分だけが消耗するようにできている。生きるということ、そして創作をするということはその側面がいやになるほど見えてくるものだ。


わたしと話をしていた彼。
その彼がいつの日か心を文章にし、そして花束にしてくれた時。きっとわたしの心は大きく揺れ、突き動かされるのだろう。それは他の誰かよりも圧倒的に。響き方というのは、人によって変わってくる。当然だ、けれど多くの人に響く"上手な"文章というのも存在している。



彼のことを、わたしは愛していました。

わたしは同性愛者であり、普通の恋愛をしていた。誰とも変わらない恋だった。彼に書いてほしいと願う理由、それは彼を愛していたから、彼のストーリーの上を歩きたかったから。

この感情は巡り合わせでもある。
noteの街で、ふらっと立ち寄った文章。そこで胸を打たれるストーリーがどこかにある。


わたしたちは似た者同士だ。
同じ人間なのだから至極、当たり前なのかもしれない。人は皆平等に大したことなどないのだ。ありふれた言葉で重なっていく。言葉を軽視しろということではない。わたし自身も言葉は大切なものであり、書くことのきっかけになっている。


文章になって、初めて声になる気持ちがある。文章になって、初めて誰かに届く言葉がある。返ってくる、それは木霊だったりもするかもしれない。ただその木霊だって、自分の声が出なければ聴くことはできない。


落ち込んだ場所から届けてほしい。
文章は、ネガティブなもの。そして、そこから前向きになるもの。誰も救わず、自分のことも救わない文章もある。

けれどそこから始まるあなただけの人生と、文章があるはずだから。


だから聴かせて、あなただけの花束を。


書き続ける勇気になっています。