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"言葉にできない"という感情を どうにかこうにかして言葉にするから愉しいのでしょう


なんとも言えない、なんて。

言葉には感情がそれぞれあって。
でも言葉には色もないし、でも時折見えているわけではないのに色艶を感じたりもする。文字として書けるけれど、それは口から発したそのものが見えているわけでなかった。目の見えない人は、同じ言葉でも感じ方って絶対に違う。それは目の見える人よりもずっと。

『わたしは目が見える。』

そんな当たり前のことのようにも思える。目の前の状況がわかる。そして起きていることを理解出来る。目が見えていることが、運よく与えられているのにもかかわらず、それを簡単に放棄してしまいそうにもなる。


楽しいとか悲しいとか。
そんな感情を、辞書に載っている言葉で表現するのは自然なことで。それでも時代とか流行りで言葉は簡単に変化する。折角の素敵な言葉も、無慈悲に短くされてしまったりもする。

若者言葉は脳を腐らせているのかもしれない。でも別にそれでいいんだと思う。だって伝わるから。ごく一部の人しか知らない言葉を誇らしげに振りかざしたところで、それってどこか不美人だったりもする。
けれど、言葉で表現するのって愉しい。一見意味のわからない言葉の繋がりも、その瞬間に飛び込んでくる強烈な印象が心を動かしたりもする。そんな正解がない遊びが、わたしは好きなのかもしれない。


相違する認識


身体を本当は軽くしたい。

わたしは職場で悲鳴を上げながらも、なんとか息を続けている。とある飲食店で働くわたしは、フリーターなりに職位が上がってきていた。

少し前から、わたしはアルバイト希望の方の面接を任されるようになった。最終的な決定権は勿論店長にあるのだけれど、それでもわたしは一対一で希望者と会話し、判断していく。
正直、人事的なことは何も教わっていない、ましてや経験もないわたしはそこまで人の良し悪しを判断する力はない。

それでも店長はいつも、

「しをりさんが一緒に働きたいと思った方を採用してくだされば大丈夫です。」

そう言ってくれる。

とは言っても、と最初の頃は思っていた。
ただ回数を重ねるごとに、わたしは人の言葉を注意深く観察するようになった。


先日、とある女の子が面接に来た。
彼女はとても綺麗で、さぞ異性からの声が鳴り止まなそうな出で立ちだった。

わたし自身も、人を容姿で一瞬判断をしてしまいそうになる。ただ第一印象というのはとても強く目に焼き付き、そしてそこに"平等"などという言葉は存在しないように感じた。


そして面接が始まり、お互いに席に着く。
平静を取り戻し、わたしは淡々と面接を進めた。そこでわたしは途中、違和感を覚え始める。
言葉ひとつひとつを、彼女はどこか大事にしていなかった。彼女にその気はないのかもしれないけれど、わたしは途中「見下されている」と感じた。
それはわたしの悪い癖である劣等感とは紛れもなく違う。彼女の人生が積み上げてきた奇妙な自信が、わたしの心に土足で上がってきているような気がした。

30分程面接をし、わたしは笑顔で彼女を店の外まで見送った。


"言葉にできない"

なんだこの気持ちは。彼女から感じた ただならぬわたしが受け付けないものの正体がその時はわからなかった。

それでも今noteを書いていて思う。わたしの言葉の色と、彼女の言葉の色は違った。言葉に色はないのに、"色が違う"ということだけはわかった。それはつまり混ざりあえない。一緒に働くことは上手くいかないだろうと、そう思えたわたしの身体は軽くなった。


"言語化"ってなんだか物堅い


SNSでもよく見かける。
"言語化"という、その痛みにわたしは負けそうになる。

「自分の頭の中にある考えを言葉にする。」

それって簡単なことではない。だからこそ人はそれを要求しているのだろうか。社会で何度もわたしは挫けてきた。それは言葉に出来なかったから。それだけが原因ではないけれど、間違いなくひとつの原因ではあったと思う。

だとしても、わたしは"言語化"という言葉をあまり使いたくない。

もっと言葉で絵を描いていたい。そんなことは馬鹿らしいと貶され、無力だと罵倒されるかもしれない。それでもわたしはnoteを書いている時も、Twitterでのつぶやきでも。色を使って言葉を描いている。それは本当に愉しい。


正解を求められないという環境は甘えでもあると思う。人の心を動かすためには適切な言葉の並びもあるだろう。けれどその人の愉しい言葉は、その人にしか出せない魅力が詰まっていると思う。

毎日noteやTwitterを見ていても思う。
たとえ同じ言葉でも何故か艶が違う。それを感じ取れるって幸せなことだと思う。


こんな時の自分の気持ちは、どう表現したら良いのだろうと。
でもやっぱり困った時は"言葉にできない"という台詞にも逃げてしまいそうになる。

わたしってまだまだつまらない。
でも愉しくて、可笑しい。
noteを書いていると、寂れた日常にもほんの少し価値が出る。掬い取るその身体をわたしは今日も踊らせる。誰とも会うことはなくとも約束は泳ぎだしている。無意味ってことはそれほどに意味があると思うから。

面接に来てくれた彼女も、わたしとは違う魅力に溢れている。それでもわたしは好きな言葉を持って誰かと会っていたいから。喧嘩しない程度に生きていたい。一緒に働かなくとも、一緒に生きていくことは出来る。

そんな目に見えないやり取りが出来るから、わたしの毎日は愉しいの。

ねえ、良いでしょう。


書き続ける勇気になっています。