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それは言わないものなのか、言えないものなのか。誰しもが秘密を抱えて生きているとしたら。


自分自身のことがわからないという、なんとも贅沢な悩みを抱えている。

「真面目な人」になるのが格好悪いと思っていた当時。ひたむきに頑張ることはせずに、どこか破天荒な自分を演じていた。

頭のおかしい人間だと思われたかった。
話が通じない、面白い人間だと思われたかった。簡単に無茶をして、他人の人生を生きているかのような人が羨ましかった。わたしが今も夜に街へひとりで出かけるのも、そういう自分を心のどこかでまだ求めているからなのかもしれない。本当に堕落していくことは怖いくせに、いつでも戻ってこられる「駄目な人間」を片手間で目指していた。

缶に入ったお酒をわざわざグラスに移して小綺麗にする。飲んでいるものは変わらないのに、誰かの目を気にしている。暗い部屋でひとり、飲むそれは砂利の味がした。


ずっと、わたしは「詰まらない真面目」に寄りかかっていた。誰のことも守れない、誰のことも傷つけられない。背中も押せない、自分の一歩もわからない。自分に与えられた、ほんの僅かなものをこなして評価される。そこでぎりぎりもらえる"不"合格点が「真面目」だったのだ。

自分のことを底から表現したかった。
こういう人間だよって、自己紹介ができるようになりたかった。それは別に、大勢の前で演説をするかのように自己を伝える行為ではない。当たり前のように人と仲を深める一幕で、ひとつひとつ言葉を渡してみたかった。


わたしには、好きなものがなかった。

大人になってよりそれは顕著なものとなる。皆何かしら好きなものを持っていた。音楽や映画、スポーツやゲーム。旅行や写真。料理や食べ歩き。絵を描いたり、本を読んだり。

わたしには何も、なかった。
ただ本当は、ある。それもわかっているのに、誰かにそれを伝えられない。怖いのだ、自分という人間を誰かに知ってもらうことが。何にでも軽々感動してしまうことくらいがわたしの個性だった。泣きながら、言葉にならない叫びを繰り返す。誰かが触れてくれるはずもない。わたしはしっとりと醜く、殻の中に閉じこもっていた。



「この前友達とライブ行ってきたんです!」

甲高い声でわたしに話しかけてきたのは、当時同じ職場で働いていた女の子だった。彼女はどうやら昔から音楽が好きらしい。大好きなバンドのライブがとにかく楽しかったらしく、その感想をわたしへ滝のように浴びせてきた。


「この時の、これが良くて…」
「それとこの曲は、本当にいい曲なんです。」
「あと、演出もすごいんです。とにかく…」

好きなものを語る彼女の姿が眩しかった。わたしにはそんな体験が、今までの幼い頃の記憶をひっぱり出したとしてもほとんどなかった。あったのだろうけれど、なかったことにした。

わたしは周りに自分のことを話すのを躊躇う人間だった。そもそも興味の幅が極端に狭いというのもある。

自分はこれが好き、あの人のことが好き、と。話すことはいくらでもあったはずなのに、それに対する相手の意見が怖かった。100パーセント共感されるはずもない、絶対に否定されるわけでもない。そんな中で「自分」を言えなくなったわたしは、みるみるうちに孤独になっていた。


もう何も浮かんでこなかった。
すると相手はどうなるか、簡単に退屈な表情へと変わる。「詰まらない」というレッテルを貼られ、話しかけてすらもらえなくなっていった。

言えなくなっていった。自分のことを、誰にも。
言わないようにしていたわけではない。本当は言いたかったのだ。じゃあ言えばいいじゃないかと言われるだろうけど、そうもいかない。原因はなんだ、理由はなんだと問い詰められようものならば、またわたしは泣き出してしまう。

言えないことが重なり、ヒビが入っていた。一気に崩れるわけではない。目視ではわからないような絶望の機微を抱き続ける。



「自己表現ってなんだろう。」

最近そのことを痛いほど考えてしまう。
わたしは毎日のように文章を書いて、それをSNSに流している。それは自己表現なのだろうか。

決定打に欠けていた。
わたしはいつも感情表現ばかりだったから。

「楽しい」「悔しい」「悲しい」「苦しい」「嬉しい」それぞれ沢山の心があった。わたしには好きなものはなかったはずなのに、どこかが原動力となり、感情として昇華されていた。


わたしは「人」が好きだったのだ。

人間関係で悩み、散々苦悩してきた。そのはずなのに、わたしはいつもその結論にたどり着く。大好きな友達がいて、最愛の人がいて、家族がいて、仲間がいて。わたしの周りに人は多くはなかった。だとしても見える、大事にしたい生命があったのだ。



自分の感情に任せ、人を無意味に傷つける言葉を放つこと。それは"言わなくてもよかった"ことだったりもする。自分も相手も損をするだけで何も解決しない。

でも、言ってしまう。
そういうことは往々にしてあった。

人には心がある以上、その行為がなくなることはない。喜怒哀楽という言葉があるように、わたしたちは死ぬまで感情に言葉を乗せ、叫ぶ空間が与えられている。


わたしにとって、今上手く言えないこと。
それは自分が「同性愛者」であることだった。職場でも言えない、そして家族にも言えなかった。変わってしまったわたしのこの愛の形を伝えられない苦しみから、学生時代の友達はもう誰とも連絡を取り合っていない。


そんな中、最近わたしはSNSで知り合った女性と一緒に食事をする機会があった。その女性は、わたしが同性愛者であることをわたしの文章を読んで知ってくれていた。


そんな安心からか。わたしの行きつけの喫茶店で食事をしながら、本当になんの気も使わずに零していた。


「あの店員さん、格好良くて好きなんです。」

躊躇うべきだと、言った瞬間は思った。何を自分は喋っているのだ。好きなもの、好きな人を語る自分が心の底から恥ずかしいと思い、そして相手の表情を見るのがまた怖かった。


ただそれは、杞憂となった。

一緒にいてくれた女性は、特に変わった表情をすることもなく「いいねえ、ああいう人が好きなのね。」と柔らかい言葉を返してくれた。大きなリアクションを取るわけでもなく、当然のように受け入れてくれた表情がわたしにとっては涙が出るほど嬉しかった。自分の好きなこと、自分の好きな人のことを言っていいんだ、話していいんだと。もっと、聴きたい。相手のことも、そこでわたしが思うことも。今までずっと、苦しかった。これからもわたしは下を、何度もきっと向いてしまうのだろう。

社会で生きていく中で、全てをさらけ出す事は難しい。いくら気の合う友達や、大切な家族がいたとしても。その相手にすら言わないこと、言えないことがある。その心を文章と言葉は、自分の勇気と手を繋ぎ、ゆっくりと掬ってくれる。

わたしと一緒に喫茶店でごはんを食べてくれた女性は、わたしの文章を読んでくれていた。だからこうしてわたしは「自己表現」ができた。SNSと現実では乖離がある。そこの間を通る血のような文章が、わたしは書きたいし、読みたい。


あなたの好きなことを教えて。
あなたの思ったことを教えて。
とっておきじゃなくてもいい。
とっておきでもいい。
あなたの小さな「秘密」を聴きたい。

それに負けないくらい、わたしは好きなことを書くし、好きな人のことを書き続ける。感情は、わたしだけの生け花。


背伸びより、目線を合わせられる。

そんなわたしは「真面目な人」になりたいと、今は思うのです。


書き続ける勇気になっています。