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自分で自分を選んで生きていけたら楽なのは、わかっているよ


noteで、賞をいただいた。

受賞のお知らせのメールが来たのは、3月上旬の頃だった。メールの文面を見て、わたしは込み上げていた。

TOKYO MXとnoteがコラボした「#君のことばに救われた」投稿コンテストが、数ヶ月前に始まっていた。


そんなはずがない、何かの間違いだ、と。
本当であったら勿論嬉しいのに、実際わたしは幸せを目の前に出された時、躊躇する人間だった。



結果、本当にわたしは選ばれていた。


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受賞したnoteを書いていた、ちょうど、その頃だったと思う。

選ばれようとする自分が、格好わるいと思っていた時期だった。ただわたしは、とにかく選ばれたかったのだ。

このコンテストだけではない。わたしはnoteで開催されたコンテストはよっぽど自分が書けない内容ではないかぎり、応募してきた。そこで仮に選ばれたとして、一気にわたし自身が変わるかというと、そんなことはないかもしれない。

それでも、選ばれたかった。何故ならわたしはずっと、自分で自分を選ぶことができなかったからだ。



今から半年ほど前、わたしは『誰かを褒めるとか祝うとか それは強い人と弱い人がやることだと思っていた』というタイトルでnoteを書いていた。

わたしの友人が、noteのコンテストではないけれど、文章で賞を取ったことを当時SNSで報告をしていた。それを見て、自分の気持ちをわたしはこう書いていた。


当然その方が賞を取ったことによって、賞を取れなかった人がいるだろう。それはどうしたって"優劣"だった、哀しいほどにだ。


自分で今この文章を振り返っていて、沁み込んでくる陰鬱に耐えられそうにない。繰り返しになるが、わたしは選ばれたかった。勿論選ぶ側の好みや、それこそタイミングが合って。それが全くないとは言えないだろう。それでも選ばれていることが完全に誰かより優れている証明だと思っていた。



さらにわたしは、こんな言葉も残している。

最期には全員が崖の下に落ちてほしい。

これを書いた時の気持ちは、今も鮮明に覚えている。息をするのが精一杯で、書くことと向き合うというよりは、縋り付くような気持ちだった。


note公式のコンテストにかぎらず、個人でコンテストを行う人が増えてきたのも、半年ほど前だった気がする。わたし自身それを見ていて、苦しかった。その気持ちを書いたnoteも、今まで何度も残してきた。


楽しく、伸び伸びと生きていたかった。

いくら自分のペースでnoteは続けていけばいいと言っても、続けていたら必ず報われるわけではない。そもそも、"報われたい"と全員が思っているわけでもなかったのだ。


今わたしはnoteの毎日更新を続けて、このnoteで389日目だ。これは正直、かなりの"意地"である。そんなに綺麗なものではない。殆どのnoteが3000文字以上なのも、縋り付くような想いからだ。

ただ自分が輝くために必要な努力であり、自分のできる形が"これ"だと思ったのだ。


時間をかけてもホームラン記事は書けない。当時、そう割り切った。とにかく人より打とう、走ろう。それだったら、できる気がした。

実際わたしは今までも、1000スキを数日で越えるようなものを書けたことはない。スキの数が、その文章の価値になるわけではないけれど、あくまでひとつの例としてだ。

毎日noteを書いていたら、得られることはきっと沢山ある。わたしが書くまでもなく、それを綴った素敵な文章はnoteにすでに存在している。これを読んでくれているあなたも、読んだことがあるかもしれない。

ただ毎日noteを続けることによって、失うこともある。わたしたちは、仕事をしているのだから、生活をしているのだから。



純粋の中に今も尚、意地が混ざっている。それは結果、不純なのかもしれないが、わたしの感覚だとそうとも言えない。


わたしは、これをやめるつもりはない。
毎日書いているいちとせしをりを、誰かの頭に刷り込みたかったから。

染み込ませたかった。18時半に必ず投稿するようにしているのも、大切な誰かひとりのためではある。ただ、貪欲に。わたしを見続けてほしかったのだ。



今までもわたしは書いたり、書かなかったりしてきたことがある。

それは自分で自分を選び続けることと、誰かに選ばれるために努力することだ。

わたしには今、恋人がいる。
同性の、恋人だ。何度も何度も愛を叫び、わたしは彼の恋人になった。言うまでもなく、わたしは彼に選ばれて、幸せである。同じ屋根の下で今は暮らしている。毎日一緒にごはんを食べられること、一緒に眠ることができる夜があって。最高の日が突然やってくるわけではない。平坦であり、ただ確実な幸せが、わたしを特別に満たしてくれた。


もし彼にとんでもない言葉を浴びせられ、二度と会えなくなったとしたら、わたしはわかりやすく絶望すると思う。そんな時冷静に「でもわたしは自分で自分を選んでいるし」なんて、言ってられない。

恋愛にかぎらず、わたしは"選ぶ側"だけになりたいとたまに思う。けれどその気持ちは不純だった。わたしの場合、それは選ばれない怖さを隠したかっただけだったから。

「選んでほしい」と言葉を使わなくても、人の表情、他の言葉を見ていればわかる。この人は、叫んでいるな、と。

いいとこ取りをしたいとも思う。自分で自分を選びながら、誰かに選ばれる幸せも上手に抱き寄せられたらよかった。


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恋人ができたのは、5年ぶりだった。大切な人になった。わたしには家族、友達がいて。皆大切な人だけれど、それでも。

noteで受賞したのは、初めてのことだった。大切なnoteになった。全て自分の書いたnoteは大切だけれど、それでも。


そんなことがあって、わたしの周りに、何が起きていたか。わたしのことを、大切な人が祝ってくれたのだ。

彼の恋人になった一ヶ月前、そしてnoteで受賞した昨日、沢山の「おめでとう」をいただいた。他にも沢山の言葉がわたしの元へ届いていた。

そんな中、わたしのTwitterのDMに、ひとりの友人が言葉を送ってくれた。その内容を見て、わたしは自分の過去を振り返る。


しをりちゃん、受賞おめでとう。前に私が受賞した時があったの覚えてる?あの時、沢山祝ってくれてありがとう。本当に嬉しかったよ。でもこれはそのお返しってだけじゃないからね。しをりちゃんが、輝いて見えたから「おめでとう」なんだよ。


わたしは、その友人のことが、大好きだった。同時に、羨ましかったのだ。文章を書く力も、人柄も、生き方も、容姿も。その友人は、わたしが持っていないものを沢山持っているような気がした。ただそれを上回る、「好き」があったのだ。


わたしはその友人を、祝っていた。大切な人だったから。半年前の自分から、わたしは徐々に変化していた。

自分のことを自分で選べる時もある。けれどそれができない時、大切な人を選ぶ時間がある。それが繋がって、自分の元へ来た時、言葉を生きて感じられるのだと思った。


自分のことを選んでいてほしいよ。でもその隙間に、誰かを選ぶ(祝う)余白を。そして、誰かに選ばれる準備と、自分に合った前進を。


自分で自分を選んで生きていけたら楽なのは、わかっているよ。純粋な想いから溢れる野心や嫉妬、剥がれない心がある。だから、選択肢を増やしたい。

わたしは、大切な人を祝いたい。今のわたしは、強い人でも、弱い人でもないと思う。わたし自身、書いて、沢山の人に出会って、また書いて。それを繰り返していた後に、"自分の感情"が出来上がっていた。

本気で自分に「おめでとう」を渡していた。
本気で大切な人に「おめでとう」を渡していた。


改めて、この度特別賞を、ありがとうございます。そしてわたしに言葉を渡してくださった方々、ありがとうございます。


繋がっている。

わたし、noteを続けていて、よかった。

これからもわたしは、相変わらず毎日noteを書くのだと思う。なぜって、それはわたしにこれが、合っていると思うから。


書き続ける勇気になっています。