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わたしは発達障害でもないしADHDでもない。ただわたしたち大人は、ちょっとした賭けを人生で繰り返さなければいけない。


「それってADHDなんじゃない?」

そう話す少女は、少し笑みを浮かべていた。

何かに流されているわけではない。こうして平凡とはいえ生活をして、生きている。それが何かの証明であるわけでもないし、欠陥がない表れでもないけれど。それでもわたしは今、うまく生きている。結局過去と現在を比べるしかない。わたしの過去はどん底で、でも今はそうではない。ただ、それだけだったのである。

ずっと、わたしは名前で呼ばれたかった。いちとせしをりの名前で言うのであれば「しをり」と呼ばれたかった。わたしの名前は「鬱病」でもないし「パニック障害」でもない。わたしにはこんなに可愛い名前があるのに。あなたの名前も、そんなに可愛いのに。どうして、どうして?引き出したその名前は、あなたが呼ばれる名前でもなければ、尊重するものでもなかった。



毎日のように思うわけではない。
ただこうして仕事をして、例えば理不尽にお客さんに怒られてしまった時。そんなときわたしは真っ先に「わたしも人間なんだけどなあ」と思ってしまう。ちょうど今日も思って、家に帰りこの文章を書いている。でもそれはとんでもない我儘で、横柄な態度なのだろう。わたしに非が全くないなんてことはないし、商売という面で見ればわたしが頭を下げるのは当然なのだと思う。そして、文句を言うくらいなら辞めればいいということ。そして辞めることも出来ずに、本当にやりたい仕事にも手を伸ばせないでいること。

哀しくもなく、そして涙も出ない。
誰もわたしの肩を撫でてくれることなどないから。だからこそ、こうして惨めに言葉に縋っている。



わたしは飲食店で働き始めて一年が経った。
仕事も覚え、立場は副店長クラスになった。お店でわからないことは殆どない、何かがあれば皆「しをりさん助けてください」と言い、笑顔でわたしは駆け寄り言葉をかけるのだ。

収入は勿論少ないけれど、それでも今のわたしは働けていることに感謝している。でもそれも少し、嘘だ。自分には合っていない名前を当てはめて逃げてしまいたくなる。自分は生まれつき、仕事が出来ない。そう唱え、レッテルを進んで貼りたがっている。「しをりさんは仕事が出来ないからしょうがない」と。本当はそうやって甘やかされたいと心のどこかで思っているのかもしれない。



わたしは昔働いていた会社で「鬱病」と「パニック障害」になった。周りの目に映るわたしはそんなことはないのに、病院の先生はその名前が書いてある紙をわたしにくれた。それを持って、わたしは会社に休職の手続きをした。その名前を使ってわたしは身体を休ませたのだ。


けれど社内で噂はすぐに広まっていた。
同期から漏れた話では、わたしは「鬱病のしをりさん」と呼ばれていた。

それが地獄のようで、救いだった。

わたしの名前に、何か重たいものが乗っかっている。けれど今わたしが休んでいる現状。それはその重たい何かのおかげでもあった。元々ひとつの苦しみだったものが、何層も重なり始める。そうしてわたしは会社に戻る勇気が日々削がれ、ずるずると辞めた。

月日が経ち、今の飲食店へと流れ着いた。突き詰めていえばわたしはまだ「鬱病のしをりさん」のままなのだと思う。


ただ今の職場では皆に頼られるようになった。収入が少なくなった分、仕事が簡単になっていると言われればそれまでかもしれない。訳のわからない人から飛んでくる「スペック」という言葉みたいなものはわたしには微塵もなかった。それでも環境を自分の力で変え、こうして生きている。きっと、いまも鬱病のままだ。お客さんに怒られている新人の子の盾になり、わたしは周りに安心を与えている。「しをりさんがいてくれてよかった」と。そう、言ってくれるのだ。誰もわたしを「鬱病のしをりさん」とは呼ばない。

それが救いのようで、地獄だった。



大人になって義務教育は終わった。
席替えが突然始まることもないし、年に一回のクラス替えも行われない。好きな人に告白がしやすいように文化祭は行われないし、自分の個性を見つけてくれる先生も近くにはいない。テストで赤点を取れば怒ってくれる人がいて、悪いことをしても謝れば許してもらえる環境があった。


もう、それもない。

だからわたしたちはちょっとした賭けをしなければいけなくなった。別に義務ではないのに"しなければいけなくなった"と表現するのは矛盾しているかもしれない。


それでも、必要になった。

環境は勝手に変わらない。
自分の生きたい場所を目指すのか。これは我慢する時間だとか。そんなことを自分ひとりで決めるのだ。他の誰かに相談を持ちかけようと、誰もわたしたち自身になることは完全には出来ない。SNSでの共感も、哀しいかな。もしかすると勘違いなのかもしれない。


「わかる。」
「いいね。」
「好き。」

欲しい言葉だらけだ。
それなのに胸の奥まで届かないこの感覚は何故なのか。わたしも言葉や文章を読んでいる。わたしが読むのはほとんどがエッセイだった。書いている人のことを知らなくても知りたいと思い、そして知った気になっている。そんな延長にいつも「好き」があった。だからそれをボタンひとつで伝えようとした、せめて。自分ひとりの「好き」が相手を突き動かすことはない。それでもわたしと誰かの「好き」が積み重なって、エッセイの向こう側にいる"あなた"の力になるのだと思う。


話が少し逸れてしまったけれど、その中でわたしたちは"賭け"をする。いつもとは違う表現を使い、いつもとは違う言葉と色を使う。誰かが好きなわたしを殺して、より「好き」をもらうために"賭け"に出るのだ。

別に今持っている愛で十分だという人にはわたしの言葉はとんと届かないだろう。飢えているのだ、ずっと。


わたしは

"「しをり」が好き。"

そうきっと言われたい。鬱病のしをりでも、パニック障害のしをりでもない。発達障害でもないし、ADHDでもない。


その中で毎日踠き、言葉に縋っている。

このnoteは本当に鬱病であり、発達障害である人を卑下する文章では当然ない。ただ本当に呼ばれたい名前は、もっとあったはずだから。そして、わたしのように自分の名前が好きな人が全員だとも思わない。


愛されるために、適当な人を愛する必要はない。見返りの愛が乾いていることをわたしは知っている。自分を愛して、それを誰かに愛してもらう方が近道で、ずっと瑞々しい。

だからわたしも自分を愛している人を愛したい。ただその"自分を愛する"という人生が遠く、見えない場所にあることも踏まえて。


たとえこれを読んでいるあなたが発達障害だとしても。わたしは「発達障害の〇〇さん」と、呼びたくはない。至極、当たり前のことを言っているかもしれない。あなたもわたしも、自分の名前以外の名前は良くも悪くもおまけにしかならないから。絶対的に美しい自分の名前を愛して、賭けを繰り返したい。


愛で躓き、愛を拾いたい。

わたしは自分が純粋な「いちとせしをり」であることに責任と誇りを持っていたいのです。


明日もうまく生きられるでしょうか。
忘れものはしないでしょうか。
人にやさしくいれるでしょうか。
我慢、出来るでしょうか。
傷つけないでいられるでしょうか。



でもずっと、それが難しいね。


書き続ける勇気になっています。