慣用句的な表現ではなく、あなたの恥部に触れたい。


「おつかれさまでした。」


撫でてくれる。わたしは何も頑張っちゃいない。息を切らしたふりが上手なだけで他人は褒めてくれる。何かのふりだけが達者になって。本当に"それ"が来た時に、信じてもらえないことなど目に見えていた。

食べているごはんの味は、目を瞑れば何もわからない。寝返りを打つ音だけが聞こえてきた。吸い込まれるようは表情を飲んでいる、咥えている、抱きしめている。


「今日も、お仕事ですか?」
「はい。今日は、帰りが遅くなりそうです。」
「そうですか、気をつけていってきてくださいね。」
「ありがとうございます。」

「しをりさんは今日、お出かけですか?」
「はい、本屋さんに行こうと思います。」
「楽しんできてくださいね。」
「ええ、あなたにも渡したいものがあるので、それも見てきます。」
「なんですか、気になります。」
「秘密です。今日の楽しみにしていてください。」


わたしの胸は、今日も膨らんでいる。
やさしく、声がそよ風のように流れていた。朝日を背に浴びながら、わたしは今日も彼のことを想っている。

通勤ラッシュも終わった頃。ぽつりぽつりと席が空いている電車に揺られ、音楽も聴かずにわたしはひとしきり車窓の一点を眺めていた。「今日はキス、なかったなあ」と、それくらいしかわたしには考える余裕がない。むしろこれが優先されているとしたら、わたしの愛が育っていると捉えることも、できる。


彼がいなければ今日の夕飯もきっとインスタントのラーメンか焼きそばだった。誰も見ていないし、お金も少ない。彼がいなければ、適当にシャワーを浴びて気絶するように眠るだけだった。

自分を愛すること、それを優先している人が羨ましかった。どうしたらそんな場所にいけるのだろうと、本気で疑問だった。


こんなにも単純だったのだ。

愛する人に寄り添う愛を、自分の中で濃くしている。年輪のようにわたしの言葉の痕跡が残っていてほしい。零したわたしの絵の具を、彼の服につける。消えないその色を、どうか彼もわたしも、忘れてしまわないように。


わたしは同性愛者になった。
彼をきっかけに、わたしは変わっていた。

ただ現実で起きているわたしの体に変化は少ない。貯金が増えたわけでも、家族が増えたわけでもない。


「これからもずっと、あなたの隣にいたい。」

そう思いながらも、街行く女性の姿を見ては体の内側が擦れて、熱くなる。純愛という言葉の意味と心理を、暇さえあれば考えていた。ベビーカーに乗っている無邪気な子供の顔を横目に、わたしは目尻へ水滴を伸ばしている。



" たった三日間だった。"


今まで彼と過ごし、わたしは愛を伝えてきた。
そこまでの道のりは決して簡単なものではなかった。月日は光のように過ぎ去る。言葉を目で追えていたわけではない。彼のことを、恋愛対象として好きになっている、愛していると伝えたあの日を思い返すと、脇からは汗がたしかに流れ始める。

夜の街を彼と何度も一緒に歩いた。
彼の手の甲に、わたしの手の甲を、もう何度も触れさせた。大人になって、これは恥ずかしい恋なのだろうか。手を繋ぎたかった、ただその気持ちを伝えること。実現するまでにあった分厚い壁も、今では障子に穴を開けるくらい容易く感じる。


セックスに至るまでにも、時間はかかった。

同性が体を重ねる。わたしにとっても初めての景色だった。肌と肌が触れる瞬間と愛が合わさったとき、気持ち良くなる。わたしが今まで経験してきた当たり前が、彼との時間でも現れてくれた。キスをして、セックスをすることでわたしの心は満たされようとしてくれるのだ。

同じ屋根の下で過ごすようになってから、わたしたちは毎日のようにセックスをしていた。ただ最近の彼は仕事が立て込んでいるようで、わたしの「甘えたい」という心は次第に萎んでいった。


そう、思うしかない、と。

わたしは自分の心と彼の心を決めつけることで、欲を押さえ込んでいたのかもしれない。彼とセックスする日常に慣れてしまったからこそ、禁断症状かのように溢れるわたしの愛を止める方法がそれしかなかった。


たった三日間だけだった。

わたしは彼とセックスができない時間が三日続いただけで、心が壊れてしまいそうになった。食欲も睡眠欲も、あらゆる欲の名前を葬っている。

どうやって彼とセックスをしていたんだっけ。
どうやって彼とのセックスが始まっていたんだっけ。

そんな言葉を反芻させる。彼との関係に名前がついているわけでもないのに、わたしは誰かに浮気をしてしまいそうだった。



体を悶々とさせながら、わたしは買いたかった一冊の本を手に取る。結局その本を買うことはなかった。わざわざ電車に乗ってまで向かったその本屋での時間も、わたしは彼のことで頭がいっぱいになっていた。

何も他のことが考えられない。帰り道も忘れそうになる。なんとか彼との思い出と匂いを辿りながら、わたしは自分の家へと帰っていた。


玄関を開けると、当然部屋は暗かった。
彼は今日、仕事なのだ。何故か彼が嘘をついて家で待っている気がしてしまって、もうとにかく正常な判断ができなくなっている。

電気をつける気にはならなかった。
彼が帰ってくるまで、わたしはわたしのしたいことをしていればよかった。それこそ本を読んだり、好きなテレビ番組でも見ていればよかったのだ。


とにかく彼のことを想っていないと何かの糸が切れてしまいそうだった。冷蔵庫に入っている食材を手に取り、わたしは慣れない料理を作ることにした。スマホでそれらしいレシピを見ながら、必要な調味料が足りないことに後から気づく。料理名すらつきそうにない、何かを炒めたようなものと、何かを煮たようなものができた。

炊いたごはんだけはしっかりと出来上がっている。彼と過ごさなければ、この炊飯器も化石になってしまうところだった。やかんでお湯を作り、注ぐ毎日からは少なくとも変わっている。


料理のようなものにラップをかけ、わたしはまた窓の一点を眺める。花束が海に落ちていくような時間だった。そして数時間という流れを一瞬で手繰り寄せ、彼がいつものように帰ってきた。



「ただいま。」


彼の前では普通の顔をしなければいけない。わたしは咄嗟にテレビをつけ、ゆったりと過ごしていたふりをした。


「おかえりなさい。」

彼の顔に目をやり、すぐさま別の方向をみる。彼のことを見ているだけで体が熱くなっているのがわかった。これほどの時間を過ごしていても、彼が息をするたびに気を抜けば吸い込まれそうな生活だ。


彼のことを見ていられなかった。
そんなわたしの少し冷たい態度に、彼が勘付いたのか。

すぐさまわたしの隣へ座り、肩を当ててくる。昔、彼の手の甲へわたしが当て続けていた時のように。


.


「あの、」


わたしがそう言いかけた時、彼はわたしにキスをしてくれた。



「渡したかったものは、"これ"かなと思って。」



彼の方からわたしを求めてくれた。

愛は、駆け引きをしなければいけない。

絶対に続いていくだろうと、わたしは彼を見ても思えないのだ。彼のことを愛していても、結婚も子供も何もかも見えない。明日だって、霞んでしまう。愛と性欲を履き違えているのだろうか。このわたしの気持ちに横槍を入れるものがいたとして、それを見てどんな表情をわたしは浮かべるのだろう。


「わたしは、あなたの恥部に触れたい。」

そのままの意味でわたしはそれを実現させ、溶けていくように彼の隣でその日、眠っていた。明日もきっと、苦しいままだ。


書き続ける勇気になっています。