"苦悩する文章を書かなければいけない"という苦悩から出る更なる苦汁
『 書く側の人間は悩んでいてはいけないのでしょうか。』
わたしは誰とも友達ではありません。
それでも自分がこうして言葉を溢していること、孤独だなんて思いません。
さなぎから蝶になる。
それほどの変化しか気づけなくなってしまったとしたら、それこそ書く側にいることも出来なければ、読む側にだって回らないでほしかったのです。
苦しくて、だから書いていた。
書くことは確かに好きだった。
でも目の前に簡単な幸せが広がっていたとしたら、わたしたちはそれでも書くことを続けることが出来るでしょうか。
手帳に毎日のように日記を書いている。
そんな誰にも見せることのないページ。
わたしはそこで苦悩することはきっと出来ない。
誰かに見てもらって、消費されて。
自転車操業のように言葉を捨て置いている。
『 等身大の言葉なんて、そもそもそれは相手が判断するものでしょう?』
自分から言うものではありませんでした。
読んでもらえなくてもいい、と。
口が裂けても言えませんでした。
自分の苦悩を誰かの脳に刷り込もうとしているわたしの生活は、一体何を目的としているのだろう。
そう、今日の文章と言葉は全て"わたし"に向けている。
◇
悩みなんて、ない方がいいに決まっている。
けれどわたしは、何も考えずに生きることが出来ませんでした。楽観的な生活が送れない。いつだって何か悪いことが起きる前提でベッドに横になり、夜を過ごす。
失敗をして、挫折をして。
間違いを犯して頭を抱える。
嫉妬をして、妬み嫉みを繰り返す。
殴りたい顔面を、いつだって想像している。
愚痴を吐き出すような文章と言葉。
それは誰かに刺さることはあっても、響くことはありませんでした。
文章の表面だけではその人はわからない。
喜んでいても、楽しんでいても。
悲しんでいても、涙を流していても。
実際に画面の向こう、本の向こうを覗けば、それはまた違う表情だった。
嘘、みたいだった。
" この人はわざと苦しんだふりをしている。"
そんなことをどこかで思われているかもしれない。実際わたしは誰かの文章を読んでそれを感じ取ったことがありました。
『 この人は本当に泣いているの? 』
涙もろい自分を見捨て、他人の涙を疑っていました。
それでもわたしは、世の中に広がっていく話ほど前向きな文章や言葉が多い気がして。そんな光景を見て自分の手を止めてしまいました。
—
わたしはこんな失敗をした。
でもこうしたら成功した。
死にたくなった。
でも今は生きたくて仕方ない。
取り返しのつかないことをした。
ただ、現在は…
—
文章や言葉を読むときの心が規制されているようでした。ライフハックや、人生の道案内。経験から発見まで。そして改善から達成まで。そんな文章が求められているような気がして。でも実際、そうなのでしょう。
尖ったものはいらない。
それで勿論勝ち進む人もいるかもしれない。
ただそのハッピーエンドは、よく見れば一枚の紙のように薄い存在でした。
指を咥えて見ているしかありませんでした。
わたしの文章はいつだって苦悩の途中だから。
一歩や前進。それを表現する文章を生み出せずに、ひたすら自分にも出来そうな苦悩ばかり探すようになってしまいました。
「これがいい」と「これでいい」
幸せな選択は前者が圧倒的でした。
自分の意思を美しく突き通す、そんな文章が輝いていました。それなのにわたしは自分には似合わないと錯覚し、不気味な表情のまま後者を選び、泥のような文章をひたすら混ぜることに必死だったのです。
◇
書くことを仕事にしたくて。
そんなわたしは自分の文章を他の人に見てもらう機会が増えました。それはnoteに書いているものとは違う、手汗で滲んだような文章と言葉が羅列する。
わたしはとあるライターの人に、自分の書いたエッセイを読んでもらいました。どこにも発信していない、どこにも掲載していない。書きあがったばかりの文章。わたしは褒めてもらえるように格好つけようとしました。良い評価をされるよう、自分なりにいい意味で背伸びしたつもりでした。
「いちとせさんは、本当にこの文章の人?」
ライターの人はわたしの文章を見て、そう言いました。最初はどういう意味かわからなくて、頭を悩ましてしまいました。
「このエッセイは、いちとせさんじゃないよ。わたしはあなたの文章を読んできたからわかる。これは"誰かの"文章です。」
少し、図星でした。
わたしは現実でも人に会えば、"外で使う自分"を無意識に作っていました。それはまるっきり本当の自分とは違う。けれど、外を歩くのに適した自分を、歳月をかけて作り上げていたのです。
わたしはそれを文章でもやっていました。
なんとなく、わかっていました。それでも自分以外の口からそれを言われ、わたしはまた"苦悩"し、文章を書いています。
◇
無理して苦悩する必要はない。
それでも苦悩が手を繋いでくれたりもする。
潰すのではなく掬いたい。
悩みなんてなくなって、それでも書きたいと思えたら。それこそ自分には言葉が必要なのだろう。むしろ苦悩している時には気づけない苦汁を。
共感や感動を期待して書きたくはない。
書いているその人の"純粋"を知りたい。
書く側の人間だって悩んでいる。
明るい表情の文章だって、本当は泣いていたりする。
読む側の人間を無理に救おうとなんてしなくてもいい。むしろわたしは読む側の人間を道連れにして引き込もうとしている。それでも手繰り寄せ、抱きしめ合うことが出来るのであれば、その苦悩は無意味な消費ではない。だからこそあなたの苦悩をそのまま読みたい。需要は少ないかもしれないけれど、わたしは好きだから。
わたしひとりの"好き"では足りないかもしれない。それでももっと、悩んでいていいはずだ。
嘘の色はいらない。
無理に"陽"になる必要もなければ無理に"陰"になる必要もない。ただわたしは陽と陰の分量がわからなくなっていました。本当はもっと、自分の心の底を掬いたい。書きたいことがないなら書かなくていい。書きたいことがあれば書けばいい。たとえ仕事でもそれ以外でも、いつだって自分の心を文字に起こしたい。そして透き通った美しい黒を見たい人が、声を出していないだけで存在している。
悩みすぎは良くないかもしれない。
それでも無駄にはならないその悩みは、周りの些細な心の変化に気づく糧になる。やさしい人ほど傷ついている。やさしい人ほど心は泣いているから。
誰かの感動と共感を逆算しないでほしい。
器用な人だけが幸せになるなんて、それこそが"苦"でした。
美醜を纏ったエッセイが読みたい。
どうせなら、そうやって散りたいのです。
書き続ける勇気になっています。