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「頑張っているかどうかは問題じゃないんだよね」なんて そんな言葉を使わないで



気づかないうちに身体に傷がついていた。

痛いから傷なわけでもない。
見た目よりも痛くない傷もあるし、よく見えないのに物凄く痛い傷もある。
なんだか眠いな、痛いのに。
体調の悪さを暑さのせいにする。冷房をつけるのは、ちょっと負けた気がしたのでクローゼットから扇風機を取り出す。部屋にそれを置くと狭い部屋が余計に狭く感じた。生温い風がわたしの傷に流れ込む。横になったわたしは天井を一点に見つめていた。

休日は余計なことを考えてしまうから嫌いだ。
仕事をしている時は自分のことを「人間をやっているなあ」と思ったりするけれど、一度家に帰ればこのザマだ。
外にいる時はそんなに疲れを感じないのに、家に着き玄関を開けた瞬間急に身体が重くなる。玄関を開けた瞬間に買い忘れたものに気づいたりするし、あれほど食べたいと思っていたアイスも家に帰った途端買う必要なかったなと後悔したりする。

痛くもない傷を撫でる。
誰かの視線を感じた途端に、それを大袈裟に押さえる。
「わたしってこんなに頑張ってるんだよ?」
と聞いてもいない言葉を放ちそうになる。
自慢していい傷などひとつもない。痛みに耐える姿を評価されたいのであれば、それはもっと先の話だった。




辛労と因果


「何もしていないのに殴られた。」
言い換えればそれは何もしていなかったから殴られたのかもしれない。

20代も折り返しに入っているわたしは、今更何をしたい人間なのかわからなくなっていた。そもそもやりたいことなどなかったはずなのに、時が経つほどに「これをやりたい」と叫ばなければいけない気がしてならなかった。

人間は何事も後回しにする生き物だ。それを無理矢理他人に強制されているにすぎない。
昔、わたしが今のフリーターではなく会社員だった頃よく言われたことがある。

「結果出せよ。とにかく。」

定時はとうに過ぎて終電も近づく中、自分のデスクにしがみ付いているわたしに向かって先輩の社員が言っていた言葉だ。

個人としての売上が全てではなかったけれど、誰かに話しかけてもらうためには結果を出すしかなかった。
ただ、その時も今もわたしは"結果"がなんなのかわからない。出さなければいけないのにも関わらずずっと抽象的なままだった。


Twitterで言えば何万いいねをもらえるようなツイートをすることとか、noteで言えばnoteの中の人に取り上げてもらえることとか。そんなことがでもはたしてわたしがほしかった"結果"なのか。それでもわたしがここで生きていくためには必要な物であることは間違いなかった。ただもし受けるツイートやnote、写真や映像。それらが抽象的だったとしても定まってきてしまったとしたら、それは誰でも結果が出せることに他ならない。

そうなった時に優劣をつけるために"過程"という話が出てくる。
ぽっと出の売れっ子よりも、下積みを20年続けてきた苦労人をほんの少し応援したくなるものだ。けれど、頑張ってきたかどうかは他人に届く頃には関係のないものになっている。それってこの世の"淋しいこと"の割と上位にくるんじゃないか。

何もしていなくても生きていけるというのは紛れもない嘘だ。
この世に空気があろうとも息を出来なくなる瞬間はある。今わたしはnoteで平気な顔して毎日書き続けている。毎日更新をしているのも早いもので80日を越えた。これが100日、200日、1000日たった時。その時自分の居場所が今と変わっていなかったとしたら、それは生きていると言えるだろうか。


「頑張らなくていいんだよ」という台詞が少しだけ嫌いだったりする。

大切な恋人にそれを言われたとしたら当然話は変わってくる。毎晩のようにわたしは甘え倒し、人間としての魅力を微塵も残せずに散っていくだろう。

ただ社会がそれを人に言うのは違う気がして。
だって頑張らなければ置いていかれてしまうのだ。0から始めている人間は現状維持では死んでしまう。怠けた人間と一生手を繋いでくれる人などいない。

このnoteを社会と置き換えれるとしたら、わたしのnoteに対する「スキ」の数とかフォロワー数とか。そんなものが数字としての結果なのだとしたら、わたしはきっと一度でも手を止めてしまったら誰にも追いつけなくなってしまう。それくらい繊細な場所にわたしは立っているのだろう。




自滅が好き


結果より過程が大事なわけがない。
過程を評価してほしいと思うのは同情を買うようなものだったりする。

結果が出なければ過程は評価されない。所詮副産物なんだ。才能がないから過程に縋り付く。あたかも自分しか出来ないと思われるような、そんな誰でも出来る努力を自信満々に述べる。

欲しかった結果は夢だったりするのだろうか。

傷を自分で自分につけて頑張った気になるのはやめよう。世の人間は認めてくれるふりをしてくるけれど、それでも他人を認める自分に酔っているだけなんだ。だからわたしは顔も知らない人に寄り添う気は無いし、燻る心を癒すつもりもない。ただもしわたしと同じようにここで生きているのだとしたら、その人にわたしは「頑張っているかどうかは問題じゃないんだよね」と伝えるだろう。それでもその輪から自分が外されてしまったとしたら言いたくもなる。

「わたしってこんなに頑張ってるんだよ?」と。

わたしはまた傷を自慢してしまったね。


書き続ける勇気になっています。