見出し画像

家族は超能力者とかではなくて、単に"気にしてくれた回数"が多いだけなのだろう


わたしは常々、何かを気にしすぎな人間だと思う。
そして、心を負の方へ"わざわざ"持っていこうとする癖がある。

今もこうして書いているというのに、他のことを頭の片隅の方で暴れさせながら、気にしている。「昨日やったあの仕事、もっと他の方法があったんじゃないか」とか「もっと今は他にやるべきことがあるんじゃないか」とか「もしかするとあの時、恋人に言ったあの一言で傷つけてしまったのではないか」とか。


そんなことをこうして書いていたら、あっという間にこのnoteは一万字くらいになってしまう、なにせ、気にしすぎだからだ。

反復してしまうのだ。
もっとこう、勉強や何かに使えたらいいのだけれど、そういうことにかぎって1往復くらいで疲れてしまう。考えても答えがすぐに出ない問いに取り組むのがどうやらわたしは好きらしい。この趣味みたいなものをどうにか他のことに混ぜ込んで消化できないものか。そう、またわたしは考え、気にしている。



母に会ってきた。

いいかげん、会いすぎだと自分でも思う。わたしは今27歳。同じ年代の人はどれくらいの頻度で"家族"に会っているのだろう。正月やお盆、それかタイミングを決めて年に数回とかなのだろうか。

わたしは先週も母に会って、今日も母に会った。所謂、"マザコン"というやつなのかもしれない。片仮名にして、ここまで仰々しい空気を放つ言葉も珍しい。ただそうなってくると、わたしは父のことも大好きだし、姉のことも大好きだ。いつもこうして「大好き」を乱用すると、薄っぺらく聞こえそうだが、わたしは言葉の印象の受け方を変える方法を、"ひとつ"知っている。それは、回数だ。


母とは今日、とある駅で待ち合わせをする予定だった。母とわたしはそこまで離れた距離に住んでいない。電車を使えば1時間ほどで会いに行けるし、効率だけを考え、中間地点で落ち合うのであればもっと早く会える。

ただ予定の時間の、数時間前にわたしはきっちりと目を覚ました。わたしは"気にしすぎ"なので、どんなことがあっても母を待たせないようにと家で準備を進めていた。


そんな時に母からメールが届いた。
LINEではなく、メールだ。時代とともに言葉のやり取りは簡単にできるようになった。けれど数秒毎にやり取りができないメールがわたしと母には合っている気がする。このままずっとわたしは母とメールでやり取りがしたい。極端なことをいえば、わたしはたまに母と手紙を送り合うだけでも十二分に満たされそうではある。

送るまでに手間がかかればかかるほど、自然と文章は長くなる。そんな無意識を大切にしたい。変に省略をしない、そして役に立たない生真面目なところがある人間がわたしは好きだ。たださすがに手段を手紙ひとつにはできない。何故ならお互いに気にしすぎだからだ。


スマホに視線を戻す。
メールの内容を見て、わたしは"いつものように"驚いた。


おはよう。
しをりはきっともう、母さんを待たせないようにと、わざわざ朝早くに起きて準備を進め、今はやることがなくなってそわそわしていることでしょう。もう一度寝ようにも、それは時間が足りないし、かといって早く家を出ても…って。洗濯物、少し溜まっているのかなって、母さんの勘が言っています。掃除機は、たまにはかけましょう。ただ、ゆっくり呼吸を整えてから家を出てくださいね。


わたしは思わず周りを見渡してしまった。
どこかで母はわたしの姿を見ていて、にやにやしているのではないかと。


ずっと昔からわたしの家族は"超能力者"だなあと思っていた。

そもそも"超能力"がどんなものかもよく分かっていないけれど、個人的にはそれが一番しっくりきていた。


わたしが学生の頃、家に帰ると父はわたしの表情を見ただけで、今日あったことを察知してくるし、姉はわたしが落ち込んでどうしようもなくなった日、必ずと言っていいほどどんぴしゃのタイミングで連絡をくれる。


そして、母。
メールの内容を見て、わたしはとぼとぼと洗濯機の方へ向かうと、そこには少し、洗濯物が溜まっていた。そういえば、先週から一度も部屋に掃除機をかけていない。

やはり、何かがおかしい。
そう思い、わたしは母にメールを返した。


おはよう。
ちょうど、そわそわしていたところです。
洗濯物を片付け、今掃除機をかけながらメールを打っています。今頃母さんはテレビでさっきやっていた占いを見て、自分の運勢がなんとも微妙な順位に位置していて、もやもやしていることでしょう。窓を開け、曇った空を見て折り畳み傘を持っていくかどうか、いつまでも悩んでいる気もします。占いの結果を見てぐるぐる考えている母さんは、トイレの電気を消し忘れているはずと、わたしの勘が言っています。戸締りはしっかりとして来てくださいね。


わたしは負けじと応戦した。

ちょっと意味がわからないくらい張り合ってしまった。

すると母からすぐに返信がきた。


全部正解です。さすが!!


きっと母なりのやさしさだと思う。
わたしは気にしすぎなので、わかる。

さすがに全てが当たっているとは思わないし、どれが正解だったかの詳細を送ってもわたしがなんともいえない表情をすると、そこまで"気にした"上での「全部正解です。さすが!!」な気がして、ちょっぴり涙が出た。



そんなやり取りをした後、何事もなかったかのように母と会って、どこにでもあるファミリーレストランに行ってごはんを食べ、沢山話をした。

大した会話はない。
わざわざここで取り上げるような内容はなさそうだ。ただお互いに気にしなくてもいい距離に相手がいることに、落ち着きを感じている気もした。



気にしすぎな人間は、一定数いる。

「気にしすぎだって」
「そんなこと気にするなよ」

この台詞を聞いたことがない人はいないはずだ。

悲しいかな、気にしすぎな人は目立った役には立たないことが多い。どちらかというと気にして気にして、頭の中をいっぱいにして苦しくなることがよくある流れだろうと想像している。全て決めつけだ、読んでいるあなたには気にしすぎないでほしい。


どうしてこんなことを書くかというと、すべてこれは"わたし"のことだからだ。

もしこれを読んで気を病みそうになってしまった人がいたら、それは本当に申し訳ない。それこそ気にしすぎで、お互いさまかもしれない。そう思えばなんだか笑えてくる気もする。全て勝手だ、ごめんね。



社会で働けば仕事が遅いと言われ、気にしすぎなくせにミスは多いと言われ。気にせず生きて、人の心に鈍感な方が生きやすいのだろうと、時々どころか、いつもわたしは思う。

気にして得をしたこと、ほとんどない。
ただ気にしすぎな人でよかったなあと思うことは何度もある。人のことをより、愛せる気がするからだ。


何度も「好き」や「大好き」だと言う人は少し、臆病なのかなと思う。確認しているのかもしれない、相手の気持ちも、自分の気持ちも。

気にされるのが鬱陶しいと思う人もいるだろう。わたしと母のメールを見て、こんな親子はいやだと思われても仕方がないことだと思う。


わたしは今まで社会で働いて、足元には何もなかったのに何度も"ひとりで"躓いた。職場環境が劣悪だったとか、過剰な労働を強いられたわけでもない。ただ人の心を気にしすぎたあまり、勝手に転んでいたのだ。傷を作り、またそこで「痛い」と叫んだ。周りの人間はきっと滑稽だと笑っていたかもしれない。そんなこともまた気にして、抜け出す道なんて自分から閉じていた。


ただ、人を想うときがある。恋人や、友達や家族、大切な人がいて。想うというのは、無意識なものだ。


今どうしているかな。
ちゃんと過ごせているかな。
ひとりで悲しんでいないかな。
抱え込んでいないかな。

考えよう、気にしよう、と、一度足元を確認するような感情ではない。それこそ、躓くのだ。それでも生きていて、どんな時でも頭の片隅に住んでいるあたたかい心が、"やさしい"だ。


もしあなたの周りに、自分のことをなんでもわかっているような超能力者がいると思うのなら、きっとあなたはその人に愛されている。この人のことならなんでもわかると、自分のことが超能力者だと思うのなら、きっとあなたはその人を愛している。

想いが何度も積み重なって、相手が自分と一体化する。


大切な人は、家族のよう。
大切な人のこと、何度でも「大切にする」と思える。


わたしは胸を張って言える。

「気にしすぎな人生も、わるくないよ。」


書き続ける勇気になっています。