もう、わたしが"いちとせしをり"って、言ってもいいよね


名前は、命のよう。


「しをりさん、おはようございます」

キッチンから声が伸びてくる。眠っていたようだ。とんでもなく幸せな夢だった気がする。たしかわたしには好きな人がいて、その相手はわたしのことを愛してくれていた。


「いただきます」

彼の言葉は、羽毛のように柔らかい。窓から降り注ぐ光を食べる。花瓶のような雲だった。一口が小さくても、怒られない。ゆっくりと取る食事は、わたしが生きていることを許されている、そんな感覚へ連れて行く。


「そういえば今日、お母さんのところに行くんですよね」


そうだ、そうだった。

忘れていた。いつまでもわたしは夢見心地だった。目の前にいる彼を妖精か何かと勘違いしていたのかもしれない。


「まだ、時間ありますか?」

わたしの方から聞いた。どうしても体が我慢できないと言うから。


よく噛んだ口の中。

つめたくて、あたたかい肌。

わたしは彼と、キスをしていた。



生きてしまいそうな空だった。

電車に乗り込み、体を揺らしていただけで涙が止まらなかった。わたしの人生は、一歩を細かくしていくようなもの。たった数ミリの前進も見逃さない。

祝いだと思ったから、花束を途中で買った。わたしの耳には大ぶりなピアスがついている。それを見せるのも、初めてだった。


「ただいま」

わたしの母は、ひとりで住んでいる。わたしが社会人になった5年前、父と母は別居をした。それは別に、悲しい思い出なわけではない。きっと母にとっても、同じだと思う。


「おかえり」

母の声は、わたしだけに届くような色をしている。小さく風が吹いただけで、飛ばされてしまいそうだ。「お箸とお茶碗が持てればいいのよ」と、力がなかったわたしに向けて、昔母は言っていた。


理由もなく家族に会いに行けるというのは、どうやら恵まれているらしい。今のわたしは両親と離れて暮らしているけれど、頻繁に会いに行っているので、"特別感"は正直薄まっていた。

母と会う時は、大抵一緒にごはんを食べる。母の手料理を、わたしが「美味しい」と言い、それに対して母が「よかったわ」と言うだけである。会話の回数は少ない。それくらい平坦な人生を生きている。これを幸せと捉えるかは、きっと、わたし次第だ。


「あのさあ、」

大して言うこともないだろうに、と、母は思っていただろう。それも別に構わなかった。

その日わたしは母にひとつ、告げることを決めていた。小さな、それは前進のためである。



「これ、」


わたしは、平仮名7文字が書かれた紙を渡した。母は思っていたほど、戸惑ってはいなかった。すっと手を伸ばし、紙を両手で受け取ってくれた。

長い沈黙をわたしはわざと作った。母がそれを見てなんと言うか、単純に気になったからだ。けれど母は何も言わず、書かれた言葉を見て、ゆっくりと微笑んでくれた。たった数日会っていなかっただけなのに、目元の皺は増えていた気もした。


先に我慢が出来なくなったのは、わたしの方だった。


「それ、なんだと思う?」


人は、めんどうな生き物である。

母なら、わかってくれると思ったのだ。試していたわけではない。最初から答えはこちらで用意している。どんなことを言われても、辿り着く道は同じなのに、わたしは有限な時間を贅沢に使っていた。


母はわたしと目を合わせたあと、ゆっくりと口を動かす。



「わかるわよ。似合っているわ、とても」


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書いた7文字は、あなたにわかるだろうか。


『いちとせしをり』


ただそれだけである。




わたしは、同性愛者だった。

今、わたしは最愛の彼と同じ屋根の下で暮らしている。その日常、生活をわたしは"いちとせしをり"として、この場に言葉を残してきた。もちろんわたしの本名は別にある。その名前を知っているのが母で、その名前をつけてくれたのもまた、母である。


わたしは母に、書いていることは伝えている。エッセイを毎日書いて、声を伸ばしていることを知っている。

ただ、わたしが"いちとせしをり"であることを伝えていなかった。それはネットで活動しているのが恥ずかしいからでも、書いて生きていきたいと思っていることを隠したいからでもない。同性愛者である自分、そしてわたしが"女の子"になりたいと思っていることを母が知ってしまった時、悲しんでしまう気がしたから。


わたしは両親が望んで生まれた"男の子"だった。

母はわたしと姉を産む前に、三度、流産をしている。それでも子供が欲しかったそうだ。決死の思いで姉を産んだ後、どうしても男の子がほしかったらしい。一姫二太郎という言葉もあるくらいだ。それを両親ともに、望んでいた。


結果、わたしが産まれた。

わたしの本名は、誰よりも男らしいと思う。見た人全てがわたしのことを"男"と認識するだろう。ただそれを恨む気持ちはない。むしろわたしは自分の名前に今も胸を張っている。

わたしが書いて、活動している名前、それが"いちとせしをり"である。この名前は、わたしが自分で決めたものだ。意味はたくさんある。大切に、大切になっている名前であり、言葉だった。


そんな"いちとせしをり"は、現実で、男性に恋をしている。彼のことを考えない日などない。毎日顔を合わせ、キスをしている。抱き合って眠り、一緒にお風呂に入ることもある。恋人同士だったら、何もおかしいことはないだろう。誰かにいやな顔をされても知ったことではない。ただこの気の強さも、家族の前では話が変わってくる。

さらに"いちとせしをり"は、現実で、ワンピースを着ている。女の子が着るようなワンピースだ。大ぶりなピアスを好んでつけている。女の子がつけるようなピアスだ。腕についた筋を、見たくなかった。お箸とお茶碗しか持ちたくなかった。少しでも、女の子に近づくために。




「うん、」


わたしは母の言葉に小さく、頷いた。わかっているとは言っていたけれど、「それ、わたしの名前なんだ」と言った。それを聞いて母はまた、涙のように笑っていた。


わたしは、その笑みに、続く。


「その名前で調べたら、沢山出てくる。"俺"の書いた文章が、山ほど。それくらい書いてきたから。見るかどうかは、任せるよ。」


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「見てほしいとは、正直言えない。でも、見ないでとも言いたくなくなったの。だから、渡しておくね。」


母の方が、今度は長い沈黙を作った。つめたくて、あたたかい風が吹いた気がした。小刻みに震えたわたしの手に、手を重ねる。緑のような声で、母は言った。


「"しをり"のことを、信じているわ。母さんができることは、それくらいだもの」



人は、どんな時に"信じる"という言葉を使うのだろう。大切な人に愛を伝える時だろうか。自分の心が小さくなった時だろうか。

母の使っていたその言葉がわたしには、"命"に見えていた。


これを読んでいるあなたは、誰かのことを信じているだろうか。

信頼はしても、信用はするなと、どこかで聞いたことがある。容易に信じてしまうことは、それを利用しようとするものが現れることに繋がっている。

「信じている」と言葉を渡された時、わたしの心はやさしく握られていた。同時に、声が聴こえてきたのである。


「どんなあなたでも、いいのよ」


これは、わたしの解釈である。

ただ、わたしは母の子どもだから、わかるのだ。わたしが出したのが、答えになる。最初から母が、用意してくれていた。


家族や友人、恋人や仲間がいる。
その相手を、あなたは信じることができるだろうか。信じることができた時、あなたはきっと相手のことを全て、許していた。


"自分らしい"という言葉がある。

"らしさ"というのは、ひとりでは作れないのだろう。誰かが信じてくれるから。自分が相手を信じるから、そこでお互いが自分らしく、羽を動かすのだろう。


信じることのできる人生がある。

人を大切に、言葉を大切に生きた先に、自分らしさがある。


帰り道、母はわたしを駅まで送ってくれた。

母はすぐ側で、わたしのことを見つめる。


「あと、それも似合ってるわ」


視線の先で、わたしのピアスが風に揺れていた。


名前を。呼んでくれて、ありがとう。

母に、花束を渡して。


わたしはこれから、もっと、自分らしく生きられる。


書き続ける勇気になっています。