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心の充電が こまめに出来ないのであれば、自分の好きなものを一つでいいから持っていたい。


最近、スマホの調子がわるい。

わたしは自分に必要なもの、そこまでではないものの線引きがとても苦手だ。

今の時代、スマホを持っていない人は殆どいなくなった。それはつまりスマホが必要になったからなのだろうか。職場では当然のようにスマホを持っている前提で話が進められる。それに誰も首を傾げることはない。自然、自然だ。


ただ、最近わたしのスマホの調子がわるい。
というより、ずっとわるい。

ここ日本で暮らしている人の標準は知らないし、知ろうともしたことがないのだけれど、おおよそ殆どの人はスマホを1年かそこらで買い換えるのだろうか。

かく言うわたしは今のスマホをもう3、4年使っている。

ただデザイン的には「古っ!」と言われるような見た目のスマホを当時買わなかったおかげで、自分が昔の機種を使っていることに対してコンプレックスを抱くことはなかった。それもまた、問題ではあると思うが。


ただ、調子がわるい。ずっと。

充電を100%まで持っていき、使っていれば当然そこから1%ずつ充電が減っていく。

しかしながらわたしのスマホは違う。

残り84パーセントくらいからいきなり、落ちる。

ふと目を離した隙に残り充電は2%


さようならわたしのスマホ。

丁寧に眠りにつく。わたしが街中にいようが遠出をしていようが関係ない。さっきまで楽しくお話をしていた友達に用事が急に出来て「それじゃあ!」と言われてしまった時のよう。淋しく取り残されたわたしの心は停止する。


「買い換えた方がいいよ。」

そんな声が聞こえた。
声の主は無論、わたしだ。

けれど家に着き、また充電ケーブルに繋げば「ただいま!」と元気よくまたわたしに表情を見せてくれる。可愛いんだよ、この子は。だから、君の代わりはいないのだ。

それに君にぴったりな、友達をわたしは持っている。

その名は大容量モバイルバッテリー。

「おやすみ…」

と、突然眠りにつく君を許さない。

友達のモバイルバッテリーを差し込む。

「起きて!おはよう!」

と、いった具合に無理やり起こしてもらうのだ。

荒っぽくしてごめんね。君と、わたしのためなんだ。



スマホの調子がわるいだけではない。

わたしの調子も最近わるい。
というよりも、ずっとわるい。

買い換えていないスマホの3、4年とは比にならない。生まれてここまでくる27年間、わたしは心の充電が上手くできない。

わたしの充電は、人と無理に話を続けたり、こうして生活しているだけで簡単に減っていく。職場で働けば、当然その減りは早くなる。

無理しているなと自分自身気づけるときもあるのだが、わたしは充電することがどこか"楽"をしているような気分になるのだ。楽は何もわるくないし、何も躊躇う必要もないのに。むしろ充電が突然切れて困惑するのは圧倒的に他者だったりする。


それなのに聞こえてくる。

「もうちょっと頑張れるよね、もうちょっと頑張るべきだよね。」

そう声が聞こえてくるのだ。
再三だが、声の主はわたしだ。

減っているのに、0%にならなければ充電器まで向かうことを許されない。自分の何がいけないのか、何がストレスになっているか。それもよくわからない、混沌として苦しいまま顔に"笑い"を貼り付けている。

何故か自分が自分を許さないのだ。偽りの残量だけを表向きに見せて、突然のブラックアウト。

わたしは倒れる。
気絶したように眠るのだ。


ちょうど昨日が、心の充電が切れた瞬間だった。

職場で仕事を終え、わたしは帰路につく。

いつものように家へ着いたらすぐにその日あげるnoteを書き始める。誰に言われたわけでも、誰かの真似をしたわけでもなく、わたしは毎日18時半にnoteを毎日更新している。このnoteを書くという"好きなこと"ですら、心の充電は当然減っている。特にわたしの書いているものはエッセイばかりだ。エッセイが他の文章より大変だとは思わないけれど、わたしは書いていて、自分の心の奥までスコップで何度も掘ろうと躍起になってしまう。

まだ出るだろう、まだ出るだろう。そう自分を叱咤し、気づけば涙を流しながら文章を書いているのも日常茶飯事だ。


書き終わり、その瞬間だけほっとする。

そこでやっと、夜ご飯に箸を付ける。

「ごちそうさま」と同時にお風呂に入り、わたしはまた寝るまで他の人のnoteを読んだり、SNSを巡回。

いつもと同じだった。
体の疲れとは別に心の疲れがある。ただわたしはそれに中々気づけない。それなのに、なくなる時は一瞬だ。

まだ夜の8時だったのに、急に眠気が襲ってきた。それもウトウトするような柔らかい眠りではない。何か硬いものでいきなり頭部を打たれたような眠気だった。


何も入ってこなくなった。
心の充電が切れた時だった。

わたしは次の日職場が休みだったこともあり、たまには夜更かしでもしようと思っていた。けれど心は何も聞いてはくれなかった。わたしはそのまま気絶するようにソファの上で眠る。その後1時間くらいして、目を少し覚ます。冷えた体に驚き、わたしは考えるというよりは本能で布団の中に潜り、そこから15時間ほど眠ったのであった。



翌朝。というより目覚めた時はもう昼の12時を回っていた。

わたしはやっと体を起こした。
自分でも寝ていた15時間はあっという間だった。一度も途中で起きることもなく、そして夢を見ることもなかった。


わたしは充電した、半ば強制的に。

ただどこか充電が足りない気がした。
体は寝ればなんとかなった。けれど心がまだ寒そうにしている。ぬめり、どこか淋しそうにしていた。

何か、何か充電出来るものはないかと探した。


充電出来るもの、それはすぐに見つかる。

わたしにとって大切な、一冊の本だった。

その本は数ヶ月前、わたしがよく行っていた古本屋さんで買ったものだった。そこのお店はひとりのお婆さんだけで営業していた。わたしはそのお婆さんの笑顔が大好きで、毎週のように通っていた。もうその古本屋さんは閉店していて、わたしはその近くからも引っ越してしまった。そんな時を経ても、わたしの手にはそこで買った大事にしている一冊の本がある。

何冊もそこで本は買ったけれど、何故かその一冊が特別になっている。色々考えたけれど、きっとこの本はわたしがその店で初めて買った本であり、そのお婆さんが選んでくれた本だったからだろう。


わたしはこの本をもう何十回、何百回と読んでいる。これは話を盛っていない。小さなこの本だけは最初の一行を読んだだけで、最後の一行まで。一瞬でわたしの心を運んでくれる。わたしは読むのが昔から遅くて、それは今も変わっていない。ただこの本だけは、するすると入ってくる。心が軽く、肌触りのいいものになっていくのだ。不思議だ、どんな手より温かいとすら思う時もある。わたしにとっての大切で、かけがえのない"好きなもの"だ。


それを読み終わった後、心は伸びた。

わたしは部屋を片付け、窓を大きく開けた。

花に水をやり、すうっと深呼吸をした。

そしてまた、わたしはこうしてnoteを書いているのである。これもわたしの好きなもので、やめられないもの。

充電の仕方は相変わらず下手くそだけれど、どこへ行ってもわたしは書いていたいから。

言葉に救われ、わたしはまた本の中の言葉を頼りにしているのである。



充電する方法がわたしは一冊の本を読むことだったけれど、それは別になんでもいい。ただなるべく中毒性のないものがいい。

例えばお酒。
この子は危ない。
お酒は逃げ込む場所ではなく褒美であるべき飲み物だ。


週末だ、今宵も。

わたしはまた性懲りもなく明日も生きるわけで、これを読んでいるあなたも明日を生きることでしょう。

充電の減り具合も、満たし方もひとつじゃない。だからこそ早く見つけておきたい。いざという時に困るから。

そう、だからわたしは早く携帯ショップに行くべきなのかもね。


書き続ける勇気になっています。