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写真が好きではなかった。けれどわたしが女の子に映る、唯一の方法にも見えた。


向けてほしくなかった。

その視線をへし折ってしまおうかと思った。透明人間にはなれないから、誰の視界にも入らずに生きてしまおうかと思った。それがわたしを守る唯一の方法な気がして、だからこそわたしは顔出しもせずにこうして言葉だけを書き続けている。

全てを言葉で解決させたかった。
自分という鏡を誰にも見せることはない。

写真。それにわたしを映すことが怖かったのだ。


" わたしは一生、写真に勝てない。"

これがわたしの精一杯の強がりだった。SNSを始めて、わたしは多くの写真を撮る人、撮られる人に会ってきた。


全てが羨ましかった。
その"世界"が欲しかった。

「わたしのことも撮ってほしい。」

それを言うことがどんなに怖いことか。わたしが女の子ではないことが暴かれてしまう、そう思った。そもそも隠し通せてすらいないのに、わたしは映ることによって自分を認識する。それが突き刺さるような悲しみになった。


嘘は何度もついてきたし、これから書いていきたい文章にもそれはきっと散りばめられていて。約束なんて誰とも上手に出来なかった。鏡に映った自分を何度も殴っては撫で付けた。ただわたしの両親にとって、わたしは待望の"男の子"だったらしい。


「しをりが男の子に生まれてきて、母さん嬉しかったのよ。」

そんな言葉を、昔母はわたしに言った。それに当時は一喜一憂することもなかったのに、どうして今わたしはこんなにも苦しいのだろう。母を恨んでなんかない。今でもわたしは両親のことが大好きで、わたしがこうしてまだ前を向けるのだって家族のおかげだ。

鳥肌が止まらなかった。その言葉がいい匂いのする呪いみたいだった。自分のことを鏡で見ることも、写真に映る自分の姿を見ることもひどく悲しかった。わたしが"女の子"を願い始める、その何年も前からわたしはわたしを見たくなかった。


それでも映してくれる人がいる。

先日わたしはとあるnoteの非公式イベントに参加した。そこには参加者さんたちの顔、表情を写真に撮ってくれた人がいた。その人とは当日初めてお会いしたけれど、同じnoteで文章を書いているもの同士、一緒に話をしている時間はとても心地よいものだった。


そしてイベント後、その人はnoteでこう書いてくれたのだ。


しをりさん、どこかで「写真に撮られることが苦手だ」って読んだ記憶がありました。
だから、ぼくは決めていました。
撮ってもらってよかったって、しをりさんに思ってもらえるような表情を絶対に収めるんだと。
どの写真もキレイに撮ろうと努力したけれど、しをりさんの表情だけは、一番素敵に切り取りたかった。



「やめてよ。」


そうわたしは心の中で言った。

そんな素敵なことを言わないで。向けないで、わたしへそのレンズを。悲しくて、醜くて。わたしの顔を表情を、わたしはこれっぽっちも好きにはなれないし。誰かの慰めの言葉が欲しいわけでもなく、わたしの顔は"正解の可愛い"からは程遠いと思う。

わたしはその人のnoteを読んだ時は涙を流すことはなかった。けれど、イベント中みんなを撮った写真のデータが数日後わたしの手元に届いた。


その時怖かった、すごく。

データが届いてすぐにそれを開くことは出来なくて。怖くて、このままずっと寝かせたままにしてしまおうかと思った。でもそう思っている瞬間にも、参加者さんの目にはまたわたしの姿が映し出されていただろう。苦しかった、泣きたかった。醜い自分の容姿が悔しかった。

わたしはネットで顔出しをしていない。ただネットにあげなければ参加者さんへ写真が渡ること、それを断ることはしなかった。いや、できなかったのだ。


元々わたしの顔、表情は参加者さんは見ていて。もう、逃げ切れるものでもなかったから。そしてわたしだけが皆のアルバムに入れないこと、それはもっと大きな悲しみだったから。わたしが怖かったのは、"残ること"だったのだ。

記憶が残っている、その証明はとても曖昧だ。けれど写真はいとも簡単に証明される。ここに、目の前に写真があれば、それは残っているということだったから。しかしデータだって消える。記憶よりも繊細に、そして回収することが不可能になる。全く同じ写真など、存在することは出来ない。

いい写真、そうでない写真。
その違いだってあるだろう。文章だって同じだ。それでも写真や文章という"生き物"に命は確かに宿っていた。


やっと、開いた。

わたしはわたしを見てみようと思った。そのきっかけも、撮ってくれた人の生き方だってわたしの中に入っていたことをこうして書いて、時間は少し掛かってしまったけれど、思い出したから。

開いて、皆の表情が順番に映っている。
パソコンの画面をゆっくりスクロールした。わたしが映っている写真もあるはずだったから。


そして、一枚の自分の写真が目の前に映し出される。

自分の表情が映った写真を見て、やっぱりわたしはすぐに画面を閉じた。一瞬しか、一枚しか見ることが出来なかった。怖くて、やっぱりわたしの顔は可愛くはなくて、女の子にはなれなかった。

たった一枚だったのに、焼き付いてしまった。やっぱりわたしは女の子ではなかったのだ。イベント中、わたしは女の子になっていた気がしたから。嘘みたいに優しかったその場に、わたしは酔いすぎてしまっていたようだ。わたしは正真正銘の男であり、どれほど可愛らしく生きようが、どれほどフリルのついた服を着ようが、やっぱり女の子にはなれないのだ。


苦しくて、その日大して食べていなかったはずなのに、二日分くらいの量を家の洗面台で吐いてしまった。

これがわたしだ、やっぱりわたしなんだ。だめだ、女の子らしく生きようとしてはいけないんだ。全然わたしのなりたい女の子になんて、一歩も近づいていなかった。血のついた文章をどれほど書こうとも、現実のわたしは女の子にはなれなかったのだ。

昔からわたしは自分の顔を好きになれなかった。大人になればなるほど、たくさんの人に出会い、自分の顔が整っていないことを理解し、落とし込んできた。

それだけでも苦しかった。それなのにわたしは女の子にもなろうとしてしまった。元々受け入れることが出来なかった自分の容姿に加えて、わたしは女の子ではないことも鏡や写真を通して見なければいけなくなった。


このままいったらわたしは本当に壊れてしまう。ガラスのように割れて、それを拾い上げた人の手もまた傷つけてしまう。

自分を見すぎてしまったら、わたしは自分の足で立つことすら出来なくなってしまう。カメラの前で笑顔になって、自分から映り込める人が羨ましくて、生まれ変わりたい相手を何度も想像した。

だからこそわたしは文章へ、言葉へ逃げ込んだ。ただそれなのに、わたしが何万字と文章を書こうが、一枚の写真でデータの容量は簡単に追い抜かされてしまう。



わたしは一生、写真に勝てない。

戦っていたつもりもなかった。
敵は誰もいなかった。むしろもうひとりの自分を押し潰そうと必死だった。

写真はやっぱり好きにはなれなかった。
そんな簡単にわたしの価値観や人生観。性別に対してのわたしの疑念、徒労。洗い流されるようなことはなかった。

格好つけた表現なんて全部捨てて、わたしの気持ちは文字に起こせない叫びというのが正しいだろう。

わたしには文章や言葉が最後の命綱だった。大切にしているものだなんて、そんな甘美なものでは収まらない。なくなれば他全てを失い、海の藻屑となってしまうだろう。



SNSをしていて、可愛い女の子にも沢山会ってきた。そんな時、ひとりの女の子にこう言われたことがある。


「いちとせさんみたいな文章がわたしも書きたかったんです。」

それを言われて、わたしはとんでもないことを思ってしまった。

その女の子は可愛かったから。これは贔屓目でもなんでもない。わたしだって27年も生きているのだ。わかる、わかってしまう。誰が見ても可愛い。あなたの容姿を否定するような人間はきっと、天の邪鬼だったり嫉妬心がある人くらいだ。正真正銘の女の子であり、あなたにはわたしの欲しいものが全て備わっている気さえした。

そしてその女の子は、撮られる人だった。映る人だったのだ。そうして生きているあなたが羨ましくて、それと同時にわたしの大事なものも奪われてしまいそうな気がした。可愛いあなたが文章にまで手を出してしまったら。その時、その時わたしはどういう表情をしていればよかったのだ。全てが悔しくて、やりきれなくて。なんならわたしは悩んだ表情も可愛いあなたになりたかった、なってしまいたかったのです。


それでもその女の子は、わたしの文章を、noteを本当によく読んでくれていた。

「この前の洋服の話、よかったです。わたしは特にここが好きで、しをりさんのこの言葉選びが好きで。あとこの前の職場でのあの話、大丈夫でしたか?実は読んでいてずっと心配だったんです。」

そんなことをわたしの前で話し始めたのだ。そんなの嬉しいに決まっている。だってわたしが見てもらえて気持ちのいい部分は文章や言葉しかなかった。顔や、容姿にわたしの気持ちのいい部分はなかったのだ。


「やめてよ。」

またわたしは闇雲に、相手を突っぱねそうになった。なりたい姿。行きたい場所。生きたい表情がありすぎて。


女の子に読んでもらえること。呼んでもらえること。

「しをりさんの文章が好きなんです。」

わたしだけの文章なんて、それは証明出来ない。でも幸せみたいだった。恵まれていることと、そうでないものが同時に、そして逆方向に流れ続けている。擦り切れていく、やつれていく。


泣いてばかりだったから、笑い方を忘れてしまいそうだった。

吐いた後に、わたしはわたしを撮ってくれた人のnoteを読み直した。そこでよく見れば、わたしは大事な言葉を読み飛ばしていた。自分の心ばかりを優先していた。相手の心をもっと見ようとするべきだった。


撮ってくれたその人はイベント当日での自分の役割を、こう記していた。


みんなの笑顔を記録すること。


やめてよ、と。そうわたしは思わなかった。

一枚の、女の子になりたい。

笑顔の性別が女の子だったらよかったのに。でも少しだけ掬われたよ、優しい手のひらに。そして誰が見ても可愛い女の子に読まれるわたしの言葉だって生きて涙が滴っている。


わたしが映った写真。

笑顔だったよ。わたし、笑顔だったよね。


もう、だめだ。

壊れてしまいそうだ。

涙なしで文章なんてもう書けなくなってしまった。苦しい、毎日が苦しい。全てを言葉で証明するしかなかった。

それでも、それでもね。
わたしは人が好き。目の前にいるからこそ入ってくる。それは言葉でも写真でも、"データ"でもなんでもない。

わたしの目から見て、証明されなかったとしても。誰かの目に映るわたしが笑顔でいれたら。それで報われてもいいですか、一瞬でもいいから息をしてもいいですか。


だからわたしは言うよ。

これは嘘かもしれない。
でもいつかこれは、嘘にはならない。

わたしのことを撮ってくれてありがとう。
わたしの笑顔を撮ってくれてありがとう。
わたしにカメラを向けてくれてありがとう。


わたし、あなたに撮ってもらってよかった。


書き続ける勇気になっています。