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"わたしたち"は時々、鬱だった過去の自分を忘れてしまうのです


落ちていくみたい。

朝、なんとなく自分だけひとり。
疲れが溜まっているわけでもないのに、道路に突然寝っ転がりたくなってしまう。アスファルトが羽毛布団に見えて、そのまま身体を預けそうになった。

小鳥が肩に止まったと錯覚する。
耳につけているイヤホンを外すと、そこは煩い世の中だった。


風化することのない。
ざらざらした手に触られる。
臓器に生えた、処理しきれない毛が邪魔をする。


「綺麗で強い心が欲しかった。」

けど、知らない。
そんなものがあるはずなどなかった。
ただ自分以外の全ての人間がそれを持っている気がして。不幸な自分を誰かと競わせる。わたしの方が不幸だけど頑張って生きていると、意味のわからない解釈をして心を落ち着かせるのである。


自分ばかり頑張っている気なんか少しもなかった。ただなんで自分は人より頑張れないのだろうと、砂に字を書いて縮みこむ。精一杯頑張ったと思ったら、そこから見える景色は誰しもが足を踏み入れている麓だった。


泣かない強さだって手に入れようとした。
わたしは事あるごとに泣いてしまったから。
辛くて悲しくて死にたくて。
それを自分で確かめるように涙を流していたのだ。そしてそんなことを繰り返しすぎてしまった。

泣かない強さがほしかった。
だからわたしは泣かない強さだって手に入れたのだ。

けれど涙を流さないことを繰り返しすぎてしまったせいで、涙を流さない自分は辛いことの強弱もわからなくなってしまった。



"わたしたち"はずっと鬱だったのである。

けれど、それを紛らわすように羽のようなものを広げるのだ。過去のことは忘れて、生き生きとこの世を進む。でも変わってはいない心の縮みは、災害のような普通の人間に踏み潰されてしまう。


言葉を書き続けているわたしは、ずっと下を歩いていた。だからこそ上を向こうとした。そうでないと何も景色が見えなかったのだ。"わたしたち"は過去のことを清算するためにこうして言葉を書き続けているのか。そんな死の一歩手前の溜まり場に腰を落とし、安堵を抱きしめ明日も生きるのである。



鬱だった。

詰まらなかった。
詰まらないと思う暇もなかったのだ。

わたしは正社員として働けなかった。
自分の心が弱いことを自分で酷く咎め続けた。
「自分が悪いんだ」と何億回も思った。


わたしは今フリーターだ。
今働いてお金を稼げているだけでも奇跡のように感じる。勿論家に帰ればひとりだ。誰も共には生きていない。恋人などいない。家族とも離れている。安いカップラーメンの、それのさらに割引されたものに箸を落とす毎日なのである。


自分が思い描いていた道で生きていけなかった。

そしてそんなわたしと同じかまたは似た境遇の人がいたとしたら、今日だけそれを"わたしたち"と置き換えさせてほしい。



"わたしたち"は上手く生きれなかったのだ。

大人になって。
ひとりで生きていくことになって。
そうして駄目になった。
それの種類は多岐に渡る。
ただわたしたちは教科書に載っているような、いとも簡単な方法で落ち込み、そして鬱になったのだ。


何も手につかなかった。
ただ仕事を辞めたら生きていけなくなってしまう。
辞めるにしても、次の仕事を決めてからでないと生活出来なくなってしまう。苦しい。でも今生きていくことに踠いているというのに"次"を考える余裕などなかったのだ。わたしたちは等しく、使い古された雑巾のように道に倒れる。本来であれば痛みを感じるはずのアスファルトの道ですら、わたしたちは心地よく感じたのだ。けれどその心地よさはどこかじんわりと"死"のようだった。


それでもわたしたちは人と話せなくとも、言葉を書くことが出来た。

書くという行為はどこか一方的なところがありながら、それは誰にも届かない可能性があることも同時に示していた。


仕事も辞めた。
生きていけなくなりそうだ。

けれど何となく見えたものがある。
そこにポツンとあった。

noteだった。

わたしたちは自分の至らないところを書き殴り、次に生きる練習をここで始めようとしていたのかもしれない。



わたしはnoteを今年の1月1日に始めた。
会社を辞めたのが去年の夏頃。

わたしは鬱とパニック障害を抱えながら、そのまま働き、生きる道を選択した。本当は休むべきだったのだろう。けれど休めなかった。休んでいたら極端な話生きていけなかったから。

働くしかなかった。
勿論障害を理由に援助してもらう方法はいくらでもあった。ただわたしはそれに頼ったらもう戻ってこれないと肌でその時痛いほど感じたのである。お金だけではない。心に多額の借金を抱えたまま、見えすぎている死に一歩一歩近づく未来がすぐそこに見えたのである。


ただまた働くのも同じことだった。
働けばまたきっと鬱は加速する。
それでも賭け事みたいな人生を進むしかなかった。

もしかしたら次で上手くいくかもしれないと、無かったはずの場所に光を感じて、身体を気力だけで動かしたのである。


そしてわたしたちは結果的に今、まだ生きているのである。


noteを書いて、今日も普通に生きているふりをしているのである。

全くもって全員だとは思わない。
ただわたしのように、"次"が見つからずにnoteに辿り着いている人は多いのではないかと思った。

痛みを知らない人間などいない。
それでもわたしたちは人より痛みに敏感だった。身体中に薄い切り傷を抱えて、いつでも血を出せる準備をしていたのだ。



noteは温かかった。
けれどそれだけではなかった。

醜い感情が、今日も部屋の隅で行儀よく渦巻いている。


書くことは楽しい。
でも苦しいのだ、わたしたちは。

次がない状態で生き続けるのはどうしたって不安だ。

意味もなくnoteを書き続けているわけではない。わたしたちはいつだって肩に力が入りすぎてしまって。過去の鬱だった自分を忘れようとしてしまった。


わたしも忘れたかった。
血反吐を吐くほど死にたかったから。

でもそれも小さなことだった。
だってわたしは今生きているから。


わたしはnoteでこうして毎日文章を書いている。
ここからわたしは生きる道を決めたかった。

だからこそわたしはnoteだけでは駄目だと思った。noteを書きつつも、他のメディアにも手を出した。

生活をするために文章を書こうとした。
それに関してわたしは間違っていると思っていない。noteだけでは現状殆どの人が生きてはいけない。勿論ここでの記事が多くの人に拡散されて、他の場所から依頼が飛んできたりもするかもしれない。けれどそんな人は一握りだ。わたしは自分から動くしかなかった。何故なら小さかったから。

そして、興味のあるメディアをひとつわたしは決めた。


そこで連載を得たかった。
上手くいくとは思っていない。
ただどこかで上手くいかせたいと思わなければ生きていくことは出来なかった。

エッセイを、noteに公開していないもので必死に書いた。どうしたら面白いか、どうしたら読んでもらえるか。そしてその中にどれだけ"自分"を入れられるか考えて考え抜いた。

2000字以内のエッセイの応募だったのに、わたしは内容が纏まらず、ずっと3000字あたりを彷徨っていた。何日もかけてその2000字を完成させた。そしてそれを何度も何度も読み返し、相手先にそれを送信したのである。


色々言っても仕方のないことだが、結果は駄目だった。


あっさりと届かない。
上手くいくはずなどなかった。
自分の熱量が一瞬で氷漬けされて、その瞬間 時が止まったかのようにわたしはまた泣きに泣いた。


たった一回上手くいかなかっただけである。
それなのにわたしはまた"鬱"になりそうになる。今わたしが働いている飲食店すら投げ出して、noteも投げ出しそうになった。言葉を書くこと、言葉を見ることが怖くなった。


忘れたかったのだ。
過去の自分を。
変わったと思いたかった。
今の自分を。

でもわたしたちはきっとずっと弱い。


それで良かったのだ。

「良いわけないだろ」とそんな声が即座に飛んできそうだった。けれど良かったのだ。

わたしたちは次がずっとない。
けれどどうにか言葉を書いて生きていきたくて、それか言葉を書いて息をしていたかったのである。


毎日が当たり前に苦しい。
それでもわたしたちは書き続けるのである。

現にわたしはこうして今日もnoteを更新して。またわたしは次の場所に向けて言葉を醜く書き続けている。


上手くいくはずない。
けれどどこかで上手くいかせてみせるのだ。


noteはきっと最後の溜まり場だ。
悪い意味では言っていない。

ただだからこその温度や感触がここに残っているのだと思う。それに甘えるわけでもなく。わたしたちは今日も明日も明後日も言葉を書き続けるのである。


過去の自分を忘れず。

わたしたちは鬱を綺麗に持ったまま書いた言葉の方が、きっと誰かに届くのかもしれない。


書き続ける勇気になっています。