メリットとデメリットを考えながらの人付き合いは、したくない。


綺麗事だと思う。

でも、どうしてそう思うのだろうか。
わたしがまず、人を見下している。

期待している恋がある。友情がある。
自分の心を掬われたい。あわよくば楽に生きようとしていないだろうか。ただ、苦労するのを強制される人生などひとつもなかったはずではないか。代々続く、同じ苦しみを引き継ぐこと。それを"美しい"と呼ばれることなど、ない。

恋に落ちるのではなく、堕落へ向かっている。寄りかかるという行為全ては肯定されない。肩を貸すというのは、即ち犠牲である。人は人と手を取り合うけれど、全員が同じ恩恵を享受できるわけではない。


君と友達になりたい。
君の恋人になりたい。
君と一緒に仕事がしたい。
君の、君の「言葉」になりたい。

動機、そして鼓動を飲んでいる。
わたしが人に手を差し出す時、自分の未来を馳せてしまう。きっと自分のためになるかを考えている。メリットが浮かべば強くなれた。でも、それは本当の強さか。違うだろう、本当の愛と言うのは見返りを求めないのだ。

それも…綺麗事だろう、か。



わたしは孤独だった。

過去の話である。
今のわたしは毎日書き続けた結果、むしろ孤独を失ってしまった。詰まらない人生になっていないだろうか。そんなことを考える。必要のないことだ。書くことがなくなるということ、それほど幸せなこともないだろう。むしろそこを目指したいとすら、思う。


わたしは学生時代、友達が人よりも多い方だったと思う。それはわたしが自然と友達を引き寄せる力があったからではない。友達がいた方が得だと思っていたからだ。

そのための行動を沢山した。わたしはひとりでは何も出来なかった。それを何かで実感したわけではないけれど、今になって思う。というよりもわたしはきっと何もやりたいことなどなかったのだ。友達がいなければわたしは無欲の人形だった。


友達が誘ってくれる、楽しそうな場所。
ついていった、その友達が好きだったから。

恋人が教えてくれる、美味しそうな食べ物。
口に運んだ、その恋人の笑顔が好きだったから。

きっと友達がいなければ、恋人がいなければ、わたしは教室の椅子に何時間だって座っていられた。やりたいことなどなかった。進みたい道などなかった。「生きたい」とすら思わなかった。ただ「死にたい」はもっと考えなかった。


自分の周りに人を呼び、精神を保っていた。
ひとりの人生ではないという事実を盾にして、息を吸っていたのである。

そんな学生生活はあっという間に終わり、わたしは社会人になる。就職して、一人暮らしを始めた。


そしてまた、わたしはあっという間に鬱になった。


仕事が出来なかった。
そして何より、隣にいたはずの友達にすぐに声を届けることが出来なくなっていた。

辛い、苦しい。泣きたい、叫びたい。
倒れそうだ、吐いてしまいそうだ。

生きていけない、生きていたくない、死にたい。


繰り返す感情。
溜め込み、人形と化したわたしは休職し、一人暮らしの1Kのアパートに引き篭もり続けたのである。

やりたいことなどなかったのだ。
したい仕事などなかった。
真に手を取り合いたい相手などいなかった。

"無"を隣に置き、わたしはひとり、またひとりと友達を遠ざけ、失った。



孤独になった。

誰もいない世界。

わたしの声も心も、触れたところで冷たいままだった。

その時までわたしは得をするために生きてきた。損をしないように生きてきた。自分の周りに人を固め、自分が強くなったと誤認していた。補助輪に気づかず、自転車に乗れた気になっていた。上り坂も、下り坂も、本当はひとりで越えられない。そして錆びきった心を、壊せず、むざむざと生き続けたのである。


そこで唯一見つけたのが"書くこと"だった。

きっかけは中学時代やっていたブログだった。

ネットの海に溺れそうになった夜に、わたしは自分の過去のブログを覗いた。

その時のわたしのブログは誰にも読まれていなかった。誰も来ていない、誰のことも呼んでいなかった。

けれど、思い出したのだ。
わたしは見られるために生きてきたわけではなかった。


誰かが読んでくれるわけではない。
誰かが呼んでくれるわけではない。

書くことで、わたしがわたしに届けられる声となれる。


泣いていました。
下を向いていました。

けれどそれら全てとは言わない。
許されている気がしたのだ。無論、それは自分にだ。


自分との会話だけなら、得も損もない。

享受するのはわたしの世界だけだ。
それが救いだった。
坂道をゆっくりでも上れるようになった。下り坂は楽だけれど、危険も潜んでいるということを自分に伝えられた。


書いて生きている。
それはきっと自分との約束と生きているのだろう。
書いたからには、やる。書くことによって昇華される未来を創造した。そして やれなかったとしても、また書けばいいのだ。


幸せにする相手を見つけた。

それは紛れもなく、自分だったのである。



自分が幸せにしたい相手を見つけたい。

そしてその相手が自分を幸せにしてくれるとも限らない。全員が同じように幸せにはなれないからだ。


ただ、メリットやデメリットではない。

そっと心に手を当てたとき、温かさを真っ先に感じる。それは心が温かいのではなく、自分自身の手が温かくなっていたからだろう。包み込むのだ、自分から相手を。自分から自分を。


ただ人は最初から温かいわけではない。
ゼロからイチへ持っていく愛はどこから拾ってきたらいいのだろう。無償の愛などない。誰かから受け取った愛を周りに波及させ、伝え合っている。知らぬ間に跳ね返り、愛を染み込ませている。夢の世界かのように、現実の世界はそれで回っている、回ってしまっている。その理由のひとつに、わたしは天然な人間がいることを挙げたい。


" 自分は「愛」だと思わなかったけれど、よく見たらそれは「愛」でした。"


そんな場面がある。
もしくは渡した瞬間に「愛」として形を変える分子が存在している。だから見返りなど必要ないのだ。だからこそ見返りを求めてしまう愛も息を吸えるようになる。


とんだ需要と供給だ。

何かと得だとか損だとか。
心を踊らせる必要もなかったのかもしれない。これは自分に言い聞かせている。


「メリット」「デメリット」

その言葉を使うのは、もっと先でいい。そして使わなくてもいい。


まず目の前にある。
握りたいと思った手を握りたい。

渡そうとするから、返ってこないと不安になる。

自分ひとりで勝手に好きなことを探していたい。そしてどうやら自然の摂理がそれを手伝ってくれる。気づけば隣にいてくれる人が現れる。


もしその最期に「あなたと一緒でよかった。」なんて言われてしまえば、悔いなど残るはず、ないでしょう。むしろ残る愛が、また勝手に次へと繋がっていくのでしょう。


誰かに幸せにしてもらおうと思わない。
自分が一番可愛いのだから、自分が自分を幸せにしてあげるのだ。
強気でいい、自分には。あなたのことはわたしが幸せにしてやるよ、と。わたしはわたしに言うのだ。もうひとりの自分が強く生きてくれる。踏ん張るも、声を出すのもわたし、わたしの心。"自分"付き合いをしたいのだ。


「元々人は孤独だったのよ。」

そう思えばひとりでふたりになることくらい、容易かったのです。


書き続ける勇気になっています。